見える境目の最後

100chobori

1 赤信号の向こう

 終電の浜松発豊橋行普通電車を新所原の駅で降り、改札を抜けると、遠藤法律守(ポリス)は立ち止まった。

 もし、このあたりで事故やら犯罪やらに巻き込まれたとしたら、きっと話がややこしくなるだろう。何しろ、駅前の通りから百メートルほど外れれば県が替わってしまう。だから、皆が注意するのだろうか。この辺りで犯罪や事故を目撃したり、そんな話を聞くことはめったにない。表向きは穏やかな町だと法律守は思う。しかし、それはあくまでも抑え込まれた結果としての穏やかさであり、いつか暴発する時が訪れるではないかという密かな危惧が常に彼の身を離れない。

 マイホーム購入と同時にこの町に住み始めてから、今年で十一年になる。駅周辺を行き来する人々の姿を見れば、どちら側の県の住人かおおよその見当がつくようになってきた。最初はどうでもよかった。しかし、法律、政治経済はしばしば、あたかもただそれ自体が理由と目的であるかのような介入の仕方をする。あっち側の人。静岡県側の住民にとって愛知県側の住民を意味する、そんなちょっとした隠語を、いつしか法律守も使うようになっていた。

 きっかけは二〇三〇年に導入された経済改革特区制度だった。愛知県は特区に指定され、産業を活性化するための様々な施策や集中的な投資が行われた。そして、それは現在も続いている。

 経済改革特区制度の最大の目的である、国際競争力の確保についてはおおむね目標が達成され、日本の産業は二十一世紀半ばを迎えてからも、一定の国際競争力を維持し続けていた。一方で、特区外の産業や雇用は特区内に吸い寄せられ続け、経済は疲弊した。特区内の好調な経済が特区外に波及しているという印象を持つ者は、少なくとも特区外にはほとんどいない。

 経済改革特区制度の効果を決定付けたのは二〇三五年に行われた、特定機密保護法の大幅な改正だった。

 特定機密保護法とは国が「特定機密」に指定した情報に対して情報公開の制限を加えることが可能という法律である。二〇一三年の制定当初は、外交や軍事に関する一部の情報が特定機密の対象となり、守秘義務は公務員に限定されていた。二〇三五年の改正によって、守秘義務を持つ者は全ての国民に拡大された。また、産業や科学技術の分野で、国際競争力への影響が大きいと判断される情報に関しては経済改革特区内に限り、機密指定の対象に加えることができるようになった。

 この法律は、経済改革特区内企業にとっては新しい産業や科学技術の開発を進める上で大きく有利に働いた。特定機密を盾にすれば、開発の課程で本来クリアされなければならない様々な法律、例えば、労働者の扱いに関しては労働基準法、医薬品の取り扱いであれば薬事法、関税や輸出入については関税法といったように、それらの法律を実質的に無効化できるためだ。

 法律守はこの町に住み始めてから特区制度の影響を肌で感じ続けていた。

 まず地価が異なる。法律守の自宅がある静岡県側と、すぐ隣の愛知県側では、彼がマイホーム用の土地を購入した十一年前の時点ですら二割三割の差があった。駅までの距離、交通の便、日当たり、地盤の堅さ、いずれも同じであるにもかかわらずだ。異なるのは固定資産税額と、子供が通う公立学校の学区だった。

 住宅ローンの商品も異なっていた。金利が債務者の業績に連動するというシステムを持つ商品を扱うことができるのは愛知県側のみだった。法律守は静岡県側に土地を購入したため、この商品でローンを組むことはできなかった。

 法律守は二十代だった当時、勤務先のある種の社風とも言える、四十代に入ってからの給料の激しい上昇カーブに大きな期待を寄せていた。会社の業績は決して悪くなく、特区外の割には健闘していると言えたし、自身の営業成績も昇進も、同期入社組の中では上の方だった。しかし、三十代前半では期待が疑念に替わり、後半には覚悟となった。会社の業績は現状維持を続けながらも新卒入社が目に見えて減った。そしていざ四十代が訪れると、自分の心の中にはこれほどまでにも、失望の準備が無意識かつ周到になされていたのかと、別の意味で愕然とした。

 あっち側の住民は総じて利発で洗練されている。明日への希望と実現可能な目標を見据えて、冷静に努力を続けることができる。心に余裕があり、妙な劣等感や思慮の足りない感情表現が人生を豊かにしないことをよく理解している。子供達も賢く礼儀正しい。皆が皆ではないが、表情がだらしなく覇気に欠け、いらだちや投げやりさすらのぞかせる者がいればそれは大体こっち側だ。中にはのんびり穏やかに構える者もいるが、年を経るごとにあっち側とこっち側の格差が広がる現状に、決して気づいていないわけではない。法律守はそう感じていたし、同じくこっち側の住民も多かれ少なかれ、彼とほぼ同じような印象を抱いていると思っていた。

 法律守は、スーツパンツの外にはみ出したワイシャツを内側に押し込み、わずかに緩んでいたネクタイを締め直した。あっち側になめられたくない。こっち側の連中がいくら腐ろうが、俺だけはそうはならない。いつしかそんな思いが、この一挙動を習慣づけていた。

 再び早足で家路につく。駅前の小さなバーからは酔っぱらいが「明日がある」を調子外れにカラオケで歌っているのが聞こえる。青白い街灯の下を黙々と歩きながら法律守は眉をひそめ「情けない」と吐き捨てる。

 目の前の交差点は東海道本線と並行する県道が横切っている。

「信号のために俺達がいるんじゃない。俺達のために信号があるんだ」

 そうつぶやきながら、法律守は赤信号など構わず、しかしながら県道を通る車がないか注意深く確かめながら、足早に交差点を渡る。すぐに静かな住宅街となる。

 白い街灯だけが寂しく照らす暗い道を二百メートルほどまっすぐと進み、角を左に曲がった。さらに百メートルほど行き、左に曲がる。この辺りは道が入り組んでいる。五十メートルほど先に、白熱灯と同じ色合いのLEDライトが法律守の自宅玄関を控えめに照らすのが見える。法律守はポケットから携帯電話を取り出し、妻の葵にワンコールして切る。玄関の前にたどり着くと同時にドアが開き、葵が顔をのぞかせる。

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