番外編「パンの味は、優しさの味」
北の監視塔は、その名の通り、王国の最北端に位置する石造りの古びた塔だった。冬には容赦のない吹雪が吹き荒れ、夏は短く、冷涼な風が常に吹き抜ける。かつて王太子であったアルフォンスは、今や、この塔でたった一人、幽閉の身となっていた。
全てを失った。地位も、名誉も、愛したはずの女も。
幽閉された当初、アルフォンスは荒れ狂っていた。セレスティーナを逆恨みし、アキトという得体の知れない農民を呪った。狭い石室の壁を殴り、無様に泣き叫ぶ日々。
しかし、腹は減る。
彼に与えられたのは、塔の裏にある小さな畑と、数種類の作物の種だけだった。生きるためには、自分で土を耕し、作物を育てるしかなかった。
生まれて初めて握る鍬は、彼の華奢な手に無数の豆を作った。固い土を耕す苦労、種を蒔いてもなかなか芽が出ない焦り、そして、小さな芽が出た時の、言葉にできない喜び。
作物を育てるという行為は、アルフォンスの心を少しずつ変えていった。
彼は知った。一つの作物を収穫するために、どれほどの労力と時間が必要なのかを。そして、天候という、人の力ではどうにもならないものに、どれほど農民が翻弄されるのかを。
自分が王太子だった頃、飢饉に苦しむ民の声をいかに聞き流していたか。セレスティーナが必死に訴えていた食糧問題の重要性を、いかに軽んじていたか。己の愚かさが、骨身に沁みた。
そんな彼の元に、年に一度だけ、王都から荷物が届けられる。それは、ヴァインベルク公国から国王に贈られた食料の一部を、国王が温情で送ってよこすものだった。
荷物の中には、いつも、大きな丸いパンが一つ、丁寧な布に包まれて入っていた。
ヴァインベルク公国産の、黄金色の小麦で作られたパン。
アルフォンスは、そのパンを少しずつ、大切に食べた。
一口かじると、小麦の豊かな香りが口いっぱいに広がる。噛みしめるほどに、深い甘みと大地の力強い味わいがした。それは、彼が王宮で食べていた、どんな贅沢な料理よりも美味しかった。
そして、その味は、なぜか彼にセレスティーナを思い出させた。
彼女の持つ、厳しさの中にある深い優しさ。民を思いやる、温かい心。
このパンは、そんな彼女が治める国で、幸せな国民の手によって作られたものなのだろう。そう思うと、胸が締め付けられるように熱くなった。
「すまなかった……セレスティーナ……」
アルフォンスは、パンを頬張りながら、いつも一人で涙を流した。それは、自己憐憫の涙ではない。己の罪を認め、心から悔いる、贖罪の涙だった。
パンの味は、優しさの味だった。
それは、自分のような罪人すら見捨てない、彼女の慈悲の味のようにも感じられた。
アルフォンスは、もう誰かを恨むことはなかった。
ただ、遠い黄金の国で、かつての婚約者が幸せであることを、北の地から静かに、静かに祈り続けるのだった。
彼の静かな再生の物語は、誰にも知られることなく、時を重ねていく。
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