最高の恋人アイリス

遠藤孝祐

熱に浮かされた一目惚れ アイリスとの一夜 ※

 夕暮れが照らす先に、二十歳ほどの女性が池にかっていた。


 水面から伸びるセレストブルーのロングヘア。その優美さは、咲き誇る花に引けを取らない。

 肢体に張り付くロンTのすそ。濡れて透過度を増し、健康的なももの張りまで見透かせる。


 花平恋太はなひられんたは、目を奪われて動けなくなった。右手から缶コーヒーが落下し、大粒の砂は黒々と侵食される。美しき純粋さを、真っ暗い欲望でけがしていくイマージュが沸き立つ。


 仕事帰りにふらっと立ち寄った公園で、この世の物とは思えない美貌に囚われた。


 女性は恋太に気づき視線を向ける。


 青みがかった薄紫――イリス色の瞳。


 目が合う。一瞬だけ世界が止まる。後に心臓が射貫かれたように呼応する。一瞬で燃え上がる、炎のような感情。爆ぜそうな脈動は苦しいぐらいに狂おしい。


 恋太は女性に歩み寄った。蜜に誘われた虫のように、フラフラと吸い寄せられていた。


 池にかる冷たさなんて、些細なことのように思えた。


「こんなところで、なにしてんだ?」


 恋太の声は震えていた。恐怖を自覚している。精巧すぎる女性の造形に。長くカールした睫毛まつげに。薄くもぬらめく唇に。

 美しさに恐怖を感じるなんて、生まれて初めての経験だった。


 シャツが張り付き、盛り上がる胸部が主張されていた。ドキリと思考も乱される。


「わからないデス」


 甘える子猫のような声色。内容に状況を察するヒントもなく、何一つ解決につながらない。それでも、声を聴けただけで幸せにすら感じる。


 何を言うべきか迷っていると、女性は両手を恋太に掲げた。抱っこをねだる赤ん坊の様に、庇護欲をくすぐる仕草。


「さむイ」


 心をくすぐる上目遣い。死んでもいいくらい可愛いに満たされる。


 ドクンと心臓が跳ねる。自分の鼓動が明確に聞こえるくらいに、血流が全身を巡る。鮮烈な欲望が言葉となってささやく。


 この女性を、自分の物にしてしまいたい。


 普段の自分自身では、考えられない非倫理的な思考。まるで催眠にかけられたように、恋の欲望が脳を支配する。

 触れたい。抱きしめたい。

 たとえそれが、破滅に繋がる道だとしても。


 衝動は止められず、恋太は女性を抱きしめていた。


 マナーもルールも意識から外されていた。ぐつぐつと煮立つ欲望から行動をおこしていた。

 慈しみからではなく、純粋な欲望からだった。


「あっ……ンッ」


 女性から吐息が漏れる。艶めかしく、どこか満足気なニュアンス。更に欲望は渦巻くように巡っている。


 ドキドキ。


「……いいのか?」


 どうしてかはわからない。

 素性どころか、名前すらわからない女性に対して言う言葉ではない。そんなことはわかっていた。


 でも、このまま奪ってしまいたい。もう下の方は限界だ。ケモノとして生きたいという本能が、主張するように張りつめている。


 女性は全てを許すように笑みを浮かべた。


「いいデスヨ」






 恋太の住むアパートで、ひたされて冷たくなった体を重ね合わせると、熱が生まれた。


 月さえも嫉妬するほどの、熱く激しい夜だった。


 恋太は二の腕にもたれる女性を見ながら考えていた。


(俺はもしかしたら、この子と出会うために生まれてきたのかもしれない)


 女性はみじろぎ、イリス色青薄紫の瞳を恋太に向けた。


 なぜだろう。ただ目が合っただけなのに、コントロールを奪われているように釘付けにされた。


「名前はなんデスカ?」


 訊かれたことに苦笑が漏れた。


 あれだけお互いを探りあったのに、まだ名前も知らないなんておかしな話だと思った。


「花平恋太。しがない会社員だよ。君は?」


 女性は笑顔を向けた。


 魅了の魔法を乗せたような、あまりにも悪魔染みた笑顔を。


「アイリス、デスヨ。


 ダーリン」

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