第17話 太后の涙

一 帰京の札、余白の灯


 朝の一番鈍い鐘がまだ尾を引くうちに、静陰殿の板に新しい札が立った。

 〈今日の帳:太后手記/后印〉

 〈今日の香:沈ごく薄・清二・道一(読書仕様)〉

 〈今日の祓い:和〉

 〈今日の灯:低〉


 “逆賄賂”の回覧は七日×二の覆いを経て、薄い字になった。勝つことばかりが愛ではない――その言葉は板の端で細く光り、静かに宮の呼吸を落ち着かせている。


 「凌殿、太后さまより――手で渡された頁の続きを」


 燕青が竹筒を軽く鳴らし、薄紙包みを差し出した。封には香符の微かな反射。〈沈一・清一・道一〉。祈りと道の間で揺れない配合だ。


 凌は深く息を吸い、香鏡の縁を拭い、一枚目を開いた。


二 手記――母と子の芝居


 ――〈冬。廊に氷の花。景焔は七つ。臣が「人形(ひとがた)の王」と噂するのを、あえて聞かせた〉

 ――〈わたしは冷たく叱った。廊に跪かせ、扇で卓を打つ。扇は壁であり、風。味方の印は、扇骨の欠け。その欠けを、子は指で覚える〉

 ――〈その夜、同じ扇で眠りをあおぐ。香は沈、薄く。子は泣かない。泣けば、噂になる〉

 ――〈「負けるな」ではなく、「負けさせぬ」を選んだ日、臣は「太后、情なし」と呼んだ。情は扇の内、裏板に隠した〉

 ――〈“人形”の噂が敵を寄せた。寄った敵を、棒で囲い、“板”で眠らせた〉

 ――〈景焔は十。真名で呼ぶ者、なし。わたしだけが呼ぶ夜は、短い。昼に伸びる影は、長い〉


 紙はさらさらと指で鳴り、香鏡の反射が端でわずかに揺れた。扇の欠けが、ここにもある。蘭秀の扇骨の欠けと、太后の扇骨の欠け――二つの欠けが、真ん中で触れ合う。


 ――〈“複妃”の言葉は早くからあった。多を作れば、責任は薄まる。子の“孤独”は、濃くなる〉

 ――〈“唯一”を、わたしが嫌いだったと思うか。違う。怖かったのだ。唯一は、狙われる〉

 ――〈だが、“狙われる唯一”が“規格”に変わる日が来るなら。わたしは、その日まで、悪い役を引き受けよう〉


 最後の行の墨は、ほんの少し滲んでいた。涙ではない。湿気だ――と、太后は書いている。湿気の名を、涙と言えない人の字だ。


 凌は頁を閉じた。胸の奥で、割れた誓珠の銀口が、ごく微かに鳴った。


三 太后の間、抱擁


 欄干の内。沈香は薄く長く、扇は膝の上。太后は札を先に見、扇骨を一度鳴らし、凌を目で座らせた。


 「読んだか」


 「はい」


 「恥だよ。母が子に芝居を教える記録など」


 凌は首を振り、礼の姿勢から、そのまま身を乗り出した。禁を承知で、抱きしめた。

 細い肩に、幾つもの陰謀と季節が重なっている。扇の骨が脇で軽く当たり、欠けが手に触れた。


 「……ありがとうございます」


 「規格を作ったのは、おまえだ」


 「いいえ。扇で風を作って、灯を低くして、夜を長く持たせたのは、太后さまです」


 太后は息を吐き、続けて息を吸い、その途中で、涙が零れた。沈香の層を乱さぬ、細い涙だった。


 「勝つことばかりが、愛ではない」


 「はい。――余白を作ること。負けを設計すること。眠りを渡すこと」


 太后は扇を閉じ、袖から小さな匣(はこ)を出した。銀の縁、玉の蓋。匣の上面には、光の帳の格子が、極細の線で彫られている。格子の右上が、わずかに欠けていた。


 「后印だ」


 凌は息を止めた。


四 后印


 匣の蓋が静かに開き、光が一度だけ鳴った。

 印面は、三つの層を持っていた。

 表層――〈后〉の篆字。唯一の「一」が、縦の柱に深く刻まれ、横画は薄い。

 中層――〈沈一・清二・道一〉の香符が銀の微粒で埋め込まれている。

裏層――光の帳の格子。右上の一枡だけが欠け。蘭秀の扇骨の、永遠の記号。


 「男の后。唯一の后。規格の后」


 太后は言い、印を持つ凌の手に自らの手を重ねた。

 「この印は権力ではなく公平に効く。命令のためではなく、規格のために押す。……後宮を“眠る国”の一部へ織り込むために」


 凌は頭を垂れた。

 「――剣は後。棒は輪。后印は規格の印」


 太后の唇が、わずかに笑みに緩んだ。


五 最初の押印――后則(こうそく)


 静陰殿に戻ると、板の前に白紙を用意した。

 〈后則〉――后印で定める、後宮の仕事の規格。


 > 一、後宮は“仕事の場”。礼は眠りのため、仕事は民のため。

 > 二、女官・針子・従者は、家に属さず、職に属す。

 > 三、読み書き・算木・香鏡・帳簿の学びを、希望者に。

 > 四、賃金は板に。昇降は板に。罰は紙で、棒は輪。

 > 五、訴は公開。密告は香符で遅らせる。

 > 六、乳母・抱え女には昼寝の札。眠りを規格に。

 > 七、后印は“公平に”“見えるところで”押す。


 凌は后印を持ち上げ、最初の朱を吸わせ、押した。

 ぱんと小さな音がして、篆字の〈后〉が板の上で生きた。

 香鏡に当てると、中層の香符が淡く返り、裏層の格子の欠けが、朱の濃淡を一箇所だけ変えた。

 “真ん中の寒さ”は消えない。欠けは、記憶として残る。


 御台所の少年が目を輝かせた。「かっこいい!」

 凌は笑い、「重いよ」とだけ答えた。


六 後宮学(こうきゅうがく)


 后則の第二札。

 〈後宮学:開講〉

 女官・針子・従者――呼び名で分けず、学びで並べる。

 昼の第一の鐘から第三の鐘まで。灯は低く、香は清、祓いは和。

 内容は三つの柱。

 言――読み書き、書式、回覧、板の読み方。

 数――算木、秤、食材の歩留まり、賃金の数え方。

手――針の規格、糸の強度、縫い目の密度、香鏡の扱い、簡易の手洗い、傷の祓い。


 「字は怖い。棒より」

 と笑った女は多い。

 凌は頷く。

 「棒は輪。怖さは一瞬。字は長い。だから、一緒にやる」


 絹の反物に香符を微量に押し、染の流れで遅れが出たら、手当をする。

 “遅れ=罪”ではなく、“遅れ=学び”。

 罪の札は薄く、学びの札は太く。

 “逆賄賂”で覚えた太い/薄いの使い分けを、凌は教育の場にも移した。


 昼の第三の鐘が鳴ると、昼寝の札。

 乳母と抱え女には、薄布の覆いが渡され、覆いの端に〈眠〉の字。

 眠りは贅沢ではない。規格だ。

 板に、眠りの時間割が貼られる。


七 公平


 最初の訴は、縫房の古参の女官長から上がった。

 「若い者は字ばかり。針は遅い。給金は同じ。公平ではない」

 凌は后印を持ち、公開の場に座った。

 灯は低く、香は清。

 「公平とは、同じに扱うことではありません。同じに見えるように、違いを板に出すことです」

 賃金の内訳を板に出し、針の規格表を貼り、字の習熟度の札を並べる。

 「今日から段位の札を付けます。針の段位、字の段位。段の数で、銀が少し動く。段は、学びで上がる」


 古参の女官長は、しばらく沈黙してから、頷いた。

「針の目は、数だよ。目の数が段なら、文句はない」

 凌は彼女に講師の札を渡した。

 罰より、委ねだ。

 負けの設計の一部を、仕事に変える。


八 布の遅れ、香の証


 開講三日目、遅れが出た。

 新入りの針子が、御用布に朱の点を落とした。

 噂は速い。

 凌は布を香鏡に当て、裏に仕込んだ香符で“遅れ時間”を測る。

 〈沈一・清二・道一〉の反射の位相で、布が置かれていた場所と時間が見えた。

 犯跡ではなく、署名。

 「――眠りが足りなかった」

 針子は顔を上げ、泣かず、頷いた。

 昼寝の札を増やし、翌日同じ布で、補修を試す。

 補修の段が、彼女にひとつ付いた。

 罪は薄く、学びは太く。


九 景焔の一行、羨望


 禁裏から、一行。

 〈眠れ〉

 凌は笑って板に貼り、后印で隣に押した。

 朱と墨は隣り合い、混じらない。

 夜、景焔がふらりと静陰殿に現れ、板の前で立ち止まる。

 「母を抱いたと聞いた」

 「禁を破りました」

 帝は短く笑い、「我も抱きたい」と言って、凌の肩を抱いた。

 「羨む」

 「余白です」

 「余白は、眠りのためか」

 「愛のためです」

 景焔は腕の力をすこし強めた。「――馬鹿だ」

 凌は目を閉じ、誓珠の破片が胸でわずかに鳴るのを聞いた。


十 后印の噂、歌の変調


 后印が押されるたび、歌が増えた。


 > 后の朱 香の層

 > 欠けの格子は 眠りの枡

 >  太い字細い字 隣り合い

 >  剣は後ろで 棒は輪


 市場にも歌が出た。


 > 女の手 男の后

 > 板で習えば 賃が出る

 >  針の段位は 数で出る

 >  眠りの札で 目が澄む


 歌は拙い。だが、速い。

 規格の周りの空気が、少しずつ柔らかくなる。


十一 古い“権”、新しい“公”


 後宮の古参のうち、ひとりが逆立った。

 「后印だと? わしは二十年、権でやってきた。公は、人を傷つける」


 凌は公開の場に彼女を招き、茶を点ててから言った。

 「公は、人を眠らせるためにあります。権は、人を立たせるためにあります。――いま必要なのは、眠りです」

 后印で押した札を見せ、賃金の内訳、段位の基準、訴の流れを板に並べる。

 古参は腕を組み、しばらく黙ってから、ふっと笑った。

 「わしは立ってばかりで、眠りを忘れておった」

 彼女は自ら「夜番」の札を外し、若い者に渡した。

 “委ね”は、罰よりも長く効く。


十二 看(み)倣(なら)う人々


 宮の外の女たちも、板を見に来た。

 抱え子を背にした女が、後宮学の端に立って言う。

 「字は要らんと思ってた。賃の字は、欲しいと思った」

 凌は笑い、小さな札を渡した。

 〈仮名の板:市の字・賃の字・眠の字〉

 仮名の板は、市にも立ち、子が指でなぞった。

 宰相派が乾いた橋を渡れぬうちに、女たちが板を渡る。


十三 燕青の不器用な誓い


 日暮れ、庭の縁側で、燕青が不意に頭を下げた。

 「凌殿。……女の学びの場、影が見ます」

 「ありがとう」

 「剣ではなく、息で見ます」

 凌は笑った。「君はもう、働きで償う人だよ」

 燕青の耳が、少しだけ赤くなった。


十四 太后の訪れ、涙のあと


 数日後、太后が静陰殿へ来た。

 扇の骨は静かで、沈香は薄く、香の層は清が勝つ。

 太后は後宮学の札と段位の板を見回り、后印の朱に指を触れた。

 「重さは、持てるか」

「分けて持ちます。段と札と歌に」

 太后は頷き、低い声で言った。

 「泣いたのは、恥ではないか」

 「救いです」

 太后は、扇を膝に置いたまま、目を閉じた。

 「景焔は、あの子は、眠れているか」

 「はい。短く、深く」

 太后は「よい」とだけ言い、帰り際に后印の欠けに爪で触れた。

 欠けは、続けるための印だ。


十五 小さな反乱


 後宮学に、反乱が起きた――と言ってもそれは、笑いを伴う小さなものだった。

 若い針子たちが歌を改造し、男の侍従たちに歌わせたのだ。


 > 男の腕 女の針

 > どちらも段で 賃が出る

 >  后の朱には 欠けがある

 >  欠けを抱いて 眠れ、宮


 景焔が通りかかり、立ち止まった。

 「欠けとは」

 針子たちは一斉に凌を見る。

 凌は后印を掲げ、裏の格子を見せた。

 「真ん中は寒い、から」

 景焔は短く笑い、凌の手を取って、指に唇を触れた。

 「馬鹿だ」

 声は、震えていなかった。温かった。


十六 掌握の宣言――力ではなく、公平で


 夕刻、後宮の広場で、凌は后印の前に立った。

 女官・針子・従者。男の侍従も、台所の少年も、みな同じ高さで立つ。

 灯は低く、香は清、祓いは和。

 凌は短く言った。


 「掌握は、力ではなく、公平で行います。

  勝つことは、制度に。

  負けは、人が引き受けます。

  眠りは、みなに。

  后印は、見えるところで押します。

  剣は後ろで眠り、棒は輪になります。」


 后印の朱は、静かに鳴った。

 歌が、自然に出た。


 > 朱と墨 隣り合い

 > 欠けの枡には 眠りを置く

 >  勝ちは板へと 負けは掌へ

 >  剣は後ろで 棒は輪に


 凌は、掌を開いた。力は握りこぶしに宿り、公平は開いた掌に宿る。


十七 “后印の仕事”


 その日から、后印の札は増えた。

 〈昼寝の覆い:紛失の際は罰ではなく再配布〉

 〈香鏡:破損は連座ではなく、修理の段〉

 〈抱え子:病の時は休みの札。欠勤ではない〉

 〈縫房:針目の基準を公開。目が読めれば、誰でも段が上がる〉

 〈訴:顔を隠す幕を設置。声で判じない〉


 罰は薄く、仕事は太い。

 公平は、見えることで初めて力になる。

 後宮の風は、扇ではなく板で吹き、香は祈りだけでなく規格になる。


十八 宰相の最期の薄笑い


 中書省の渡り廊を、宰相がひとりで歩いた。

 笑いは薄く、端が疲れている。

 回廊の板に后印の札が並び、等幅の字が、名を――役を――同じに扱う。

 宰相は立ち止まり、欠けの格子に指を触れず、ただ見た。

 「見えることが、恐れを増す」

 と、誰にともなく呟き、笑いをやめた。


十九 太后の涙、もうひとしずく


 夜、凌は太后の間に呼ばれた。

 沈香は薄く、扇は膝、灯は低く。

 太后は言った。


 「景焔が、眠っている」


 凌は頷いた。

 「はい」


 「泣いてもいいか」


 凌は一瞬、息を止め、次いで微笑んだ。

 「はい」

 太后の目の端に、もうひとしずく。

 それは、恥ではなく、肯だった。

 凌は再び、抱きしめた。

 扇の骨が、肩と肩の間で小さく触れ、欠けが二つ、重なった。


二十 続ける――后印の朱、眠りの墨


 夜更け、静陰殿の板に、凌は最後の札を足した。

 〈今日の帳:后印/後宮学/公平〉

 〈今日の香:清〉

 〈今日の祓い:和〉

 〈今日の灯:低〉


 后印の朱は、板の上で静に乾き、眠りの墨は、字の輪郭を柔らかくする。

 誓珠の破片が胸でほとんど聞こえないほどに鳴り、蘭秀の欠けた扇骨がどこかの風の角で小さく触れ合い、太后の沈香は祈りに戻り、景焔の一行が眠れと言う。


 “唯一は席ではない。規格だ。”

 規格は増える。

 后印、后則、後宮学、段位、眠りの札。

 増えるたび、刃は鈍る。

 鈍った刃の下で、人が学び、働き、眠る。

 勝つことばかりが、愛ではない。

 負けを仕立て、余白を作り、眠りを渡す。

 その全部を、后印の朱と、板の墨で続ける。


 凌は灯を指で低くして、目を閉じた。

 銀口の沈香が、遠い昔の波のようにかすかに鳴った。

 そして静かに、眠った。

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