第2話 後宮の地図

一 写された迷宮


 夜の帳が下りても、凌の寝殿には明かりが絶えなかった。

 机上に広げられているのは、後宮の間取り図と人事表。女官長・蘭秀に請い、特別に閲覧を許されたものである。


 白紙に緻密な墨線を引き写す作業は、学者の性に近い。

 凌は定規代わりの簪で測り、建物の配置や通路の角度を正確に書き移していった。


 書き込みは一度では終わらない。

 宦官の所属、女官の出身、兵舎と倉庫の位置。

 さらには人事表と納入台帳を照合し、権力線を赤・青・黒の三色に分けた。


 赤――太后派。

 青――宰相派。

 黒――軍務派。


 三つ巴の線が、地図の上で蜘蛛の巣のように絡み合う。

 建物の壁よりも、線の交差が凌の視線を引いた。


(力は人の流れに宿る。人の流れは、帳簿と間取りで可視化できる)


 凌は吐息をつき、手を止めた。地図の中心、後宮の奥。そこには空白がある。誰の所属も記されていない「禁裏」。

 景焔と自分だけが立ち入る領域。だが空白は、常に「誰かに狙われる余地」を生む。


二 燕青の助言


「……また地図ですか」


 障子の外から声がした。

 現れたのは侍従の燕青。夜直けの冷気を纏ったまま、影のように座敷へ足を踏み入れる。


「妃に必要なのは、地図よりも味方です」


「味方?」


 凌は筆を置き、問い返す。


「はい。後宮は数字で動きません。腹が減れば人は嘘をつき、病に怯えれば刃を抜きます。妃殿下がまず抑えるべきは、厨房と医局。食と医は、人の心を掴みます」


 燕青は淡々と語る。その瞳には揺るぎがない。

 凌は頷き、心に刻んだ。


(数字だけで国は動かない。食と医は、人心の根。まずはそこを押さえるべきか)


三 厨房の俵


 翌朝、凌は御台所に赴いた。

 煙と湯気の中、女料理頭が腕を振るっている。

 凌が求めたのは、仕入れ表と消費記録だった。


 俵に貼られた札を一つひとつ確認する。

 入荷日と消費量が噛み合わない。特定の俵が“消えた”ように処理されている。


「これは?」


 凌の問いに、料理頭は首を振った。


「帳面上では“欠品”としか……。でも実際には入荷しているはずです」


 俵の重さを計る。札に記された目方と、実際の重みが違う。中身を開けば――麦に紛れ込む異物。

 白粉に似た粉末。甘い香。遅効性の痺れ毒。


 凌は即座に指示を出した。


「麦は私の監視下で煎じ直すこと。札は入荷順に並べ替え、次からは重さを再計量して記録するように」


 女料理頭は深々と頭を下げた。その背に、信頼が芽生えるのを凌は感じた。


四 医局との議論


 次に向かったのは医局。

 薬棚には無数の瓶が並び、銀の匙が壁に掛けられていた。


「これで毒見は充分か?」凌は問いかけた。

 侍医たちは戸惑う。


「銀は多くの毒を変色で示します。しかし……遅効性のものは」


「そう。遅効性は、匙を濁らせる前に体に回る」


 凌は机に小さな道具を広げた。

 陶器の皿、水差し、干した薬草。


「水に混ぜて沈殿の色を見分ける方法があります。

 幼い頃、貧民街で病に倒れた弟に、薬の量を測るために使った。数息で変色はしませんが、一夜置けば差は歴然です」


 侍医たちは目を見張った。

 凌はさらに続けた。


「匙は一瞬の毒見に、これは遅効性に。両輪があれば、人は安心して食を口にできます。安心は、最も強い薬です」


 女医官の一人が涙ぐみ、「導入を」と声を上げた。


五 侍女の自首


 翌朝。後宮に動揺が走った。

 太后派の侍女が自ら医局に現れ、「毒を混ぜた」と泣きながら告白したのだ。


「だが私は命じられただけ。……失敗させろと」


 侍女の声は震えていた。

 凌は傍らで静かに耳を傾けた。


(失敗を仕組んだ者がいる。毒を混ぜさせ、その失敗で“唯一妃”を失脚させようとしたのだ)


 景焔が現れ、冷ややかに侍女を見下ろした。

 だが処罰を命じる代わりに、視線を凌へと向ける。


「凌。おまえはどう裁く」


 凌は一瞬考え、口を開いた。


「罪はあります。しかし、この者は告白した。告白は、制度の欠陥を明かす勇気です。罪は軽く。むしろ、命じた者を追うべきです」


 景焔は頷き、侍女を下がらせた。


六 地図が動き出す


 夜、凌は再び地図に向かった。

 厨房と医局の建物に印をつけ、その内部に“味方”の名を記す。


 赤と青と黒の三色の線が交錯する迷宮に、小さな白い点が灯る。

 白は、凌の味方。


 白点はまだ僅か。だが光は連なれば道となる。

 凌は筆を握り直し、線を描き足した。


(後宮の地図は、まだ未完成だ。だが、私はここに“新しい色”を刻む。数字で、人で、制度で)


 誓珠が胸元で冷たく光った。

 凌の眼差しは、迷宮の奥を越えて、帝都全体を見据えていた。

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