銀の残響

 光には、音がある。

 写真の神様が囁くような、かすかな響き。

 暗室でトレイの縁を指で弾くと、メトールとハイドロキノンの匂いに混ざって、紙の繊維が膨らむ音がわずかに立つ。現像液が黒を引き出す速度、停止液の酢の酸味、定着液に沈むときの、あの沈黙の重さ。十年この匂いと音の中で暮らすうち、私は光が布に音を残すことを信じるようになった。


 肩書は「プリンター」。町のギャラリー兼工房「光蔵(ひかりぐら)」で、作家のネガから銀塩のプリントを起こす。カラーマネジメントの現代に、わざわざ暗室で手を濡らす物好きは減ったけれど、ここにはまだ、光と紙が直に握手をする場所があった。


 六月の末、梅雨が一日だけ休んだ夜。

 事件は、赤い安全灯の下で起きた。


 閉館後、最終の水洗を終えて、私は洗い桶に沈むバライタ紙の縁を撫でていた。繊維が吸った水の重さが、指に正直だ。排水の流路を変え、換気扇を「弱」に落としたところで、ドアの向こうに気配を感じた。


 「おつかれ」

 開いた隙間に顔を出したのは、ギャラリーのオーナー、蓮見清史(はすみ・きよし)だ。五十代半ば。銀縁の眼鏡のレンズは薄く、いつも笑っているように見えた。

 「明日の展示、どう?」

 「四番の焼き、もう半号締めたほうがいい。黒の腰が甘い」

 「君に任せるよ。——それと、二十一時から広報の伊那尾(いなお)さんが来る。例の配信の打ち合わせ。残る?」

 「残ります。薬品を落としたくない」

 彼は頷き、ドアの向こうへ消えた。靴の音が階下のギャラリーの床に吸い込まれていく。私は停止液の表面の光の反射に、わずかな泡の列が寄ってくるのを見た。空調が吐く空気がいつもより乾いている。天気予報どおり、今夜は湿度が低い。


 それから二時間後、私は暗室の中で、蓮見が床に倒れているのを見つけた。

 停止液のトレイのそば。顔を横に向け、目は半開き。

 匂いは、ひどく悪かった。酢ではない。卵のような、腐ったような、金属の奥から出る甘さ。

 私は反射的に換気扇を最大にし、ドアを開け放った。安全灯の赤が淡く弱まり、廊下の蛍光灯が白を差し込む。

 呼吸は——なかった。頸動脈は静か。胸の上下動も、ない。私は救急に電話をし、従業員入り口から外へ空気を逃がした。鼻の奥の粘膜が焼ける感覚が残る。

 暗室の床に散った液は、透明ではない。停止液は本来、古いワインのような薄いアンバー色。定着液は白濁する。今、床を濡らすそれは、どちらとも違う、薄い灰色をしていた。


 救急と警察が来た。規制テープが張られる。玄関の近所迷惑を気にする声がひそひそと通りの影に流れた。

 眠たげな声が背中から落ちる。

 「またおまえか」

 御子柴。所轄の刑事で、中学からの知り合いだ。彼がくるたび、私は自分の鼻を信じ直すことになる。


 「御子柴、換気扇は回ってる。けど匂いがひどい」

 「救急の所見だと、窒息——というより中毒だ。気体を吸って倒れた可能性。暗室の薬品が混ざると、危ないものが出ると聞いた」

 「詳しくは言わないでおく。ここは公共だ」

 私は答えながら、棚の上のボトルに目をやった。酢酸の瓶、停止液用の濃縮、現像液の補充ボトル、定着液の粉袋。

 定着液の袋の口が、きれいに閉じていない。閉じたステープルの端が、一本曲がっている。蓮見はこういうところが几帳面で、必ず二本で平行に留める。今は一本が斜め。

 床の灰色の水たまりの縁に、小さな黒い粒が点々とある。指でつまむと、固く、爪で割ると赤茶けた粉を吐いた。

 ——銀の沈殿。

 定着液が銀を抱えて疲れたとき、古い暗室にはよく見えるものだ。

 「定着液が疲れすぎてる。——誰かが停止液に入れた?」

 御子柴が眉を上げる。

 「容疑者は」

 「……三人だ」と彼は手帳をめくる。「広報の伊那尾。今日はスポンサー向けに『暗室生配信』の台本の打ち合わせで来ていた。二十時半に来廊、二十一時半に退出と主張。

 作家の一人、若手のフォトグラファー・佐東(さとう)。蓮見に評価を上げてもらえず、最近は『AI写真』の是非で揉めていた。閉館後に“忘れ物”を取りに来たと言う。

 薬品の卸、堀内。補充液の納入の件でトラブルになっていた。『回収のために寄った』と。三人とも、各自の“記録”を出している。伊那尾はスタジオで『別件の配信』のログ、佐東はコインパーキングの出入庫履歴、堀内は会社のGPS」

 私は暗室の天井にある小さな換気扇のベルトの音を聞いた。いつもと違う、わずかな音程の低さ。

 ファンのベルトは湿度で音が変わる。今夜の乾き方なら、自分で知っている音になるはず。

 少し、遅い。

——混ざっている。


 私は薬品棚の在庫表を開いた。蓮見は在庫に厳しい。定着液は「補充型」ではなく「一槽ごとに作り替える」主義だ。作り置きはしない。

 今夜の表は、蓮見の字で「定着・新液、18:40」とある。使用枚数の欄は私の字で「20×3」。

 この数字は、バライタ紙の八ツ切りを三十枚、という意味。定着は二槽。一槽目で二分、二槽目でもう二分。

 床の灰色の水たまりに、赤い安全灯の光が薄く揺れ、表面に虹色の油膜のようなものが出た。

 「——虹」

 私はつぶやいた。

 定着液に現像液が持ち込まれると、表面に薄い油膜のような「虹」が出ることがある。トングの持ち替えが雑だったか、トレイの位置が入れ替わったか。

 けれど、今夜は私しか暗室に入っていない。

 つまり——誰かが、私の不在のすきに、トレイに触った。


 暗室には、内側からしか押せない「焼き込み」の扉が一つある。開くと光が漏れるから、作業中は誰も触らない。鍵は蓮見と私だけ。

 ドアの下の床、赤い光でもわかる小さな「輪」が残っていた。水滴の乾いた跡。円形。

 暗室の床に円形の水滴跡を作るのは、小さな蓋だ。停止液の濃縮ボトルの蓋は平らではなく、角が丸い。

 蓮見は仕事中、蓋を直置きしない。金属の小皿に置く癖がある。

 今夜、その小皿は棚の上に乾いたままだった。


 私は御子柴に言った。

 「誰かが停止液の蓋を床に置いた。——蓋の裏についた液体が、床に輪を残してる。

 それから、定着に現像が混ざった虹。

 蓮見が倒れたのは停止の前。普通、停止液の匂いが一番強い。けど今夜、匂いの“主”は別。

 匂いの指紋が違う」

 御子柴は頷き、三人の聴取の場を整えた。


 広報の伊那尾は、映える声を持っていた。

 「配信、観られます? 今日の二十一時は別件のスタジオで『光と影のSNS講座』。チャットも走ってます」

 彼女のスマホの画面に、白い部屋、リングライト、いいねの雨。

 私は耳を澄ませた。

 ——環境音が、薄すぎる。

 配信の空調音はスタジオの大きさを伝える。彼女の動画には、エアコンの風の「しろさ」がない。ノイズリダクションで消した音だ。リアルタイムにそこまで処理するには、準備が要る。

 「テロップのフォント、昨日の配信と同じ。時刻だけ差し替えた?」

 伊那尾は笑い、肩をすくめた。

 「プロは素材を大事にするの」

 「暗室には」

 「入ってないわ。匂いが衣装に付くでしょう?」

 彼女のカバンの口の金具が、うっすらと黒ずんでいた。指で触ると、粉がわずかについた。——沈殿銀の粉は、こんな薄い黒を残す。


 佐東は、眼差しが刺さる青年だ。

 「AIは、道具です。あなたたちが薬品を使うように、僕はモデルを使う。蓮見さんは『展示には出せない』の一点張りだった。——でも、ここに来てはいない。駐車場の出庫履歴。二十一時五十分が出庫。ここから歩いて十五分」

 「忘れ物は何」

「露光計」

 彼のポケットの中で、古いスポットメーターが金属の鈍い音を立てた。

 指の腹に、酢の匂いはない。

 ただ、彼の靴底の溝に詰まった白い粉が、暗室の床のと違う粒の形をしていた。暗室の粉は硫酸バリウムの細かい粉(バライタ)。彼の靴についているのは、外の雨上がりの埃。

 ——彼は、暗室には入っていない。


 堀内は、線の細い卸業者だ。

 「定着の配合比、間違えてません? 最近の粉、変わったでしょう」

 「配合は蓮見の癖で二割薄い。今夜は新液だ。——GPSは」

 「会社からまっすぐ来て、まっすぐ戻りました。三十分。ここにいたのは、八分くらい」

 「何を回収」

 「古い薬品。銀の回収のために。——定着の古液、あります?」

 私は心の中で短く舌打ちした。

 「回収は蓮見が立ち会う。今夜は回収の予定はない」

 堀内は目を伏せ、言葉を濁した。


 暗室に戻り、私はトレイの縁を指で弾いた。

 音が薄い。水が疲れている。

 定着液の投棄ボトルの中を覗く。銀が飽和した定着液は乳白に濁り、底に赤茶の泥が溜まる。

 ——赤茶。

 その上に、細い油の帯が浮かぶ。セレン調色液を入れたときの独特の匂いはしないのに、油だけがある。

 セレンを薄く入れると、黒はわずかに冷え、寿命が延びる。今日は使っていない。

 なのに、瓶口に紫がかった薄い縁。

 誰かが、触れた。


 壁の安全灯のフィルターを外し、光源の縁に指を滑らせる。

 ——緑。

 古い赤フィルターの裏に、薄い緑のセロファンが一枚、貼り付けてある。

 銀塩のマルチグレード紙は、緑に反応する。赤安全灯に緑が混ざっていれば、目に見えない微細なカブリが出る。

 数日前、私は四枚、紙の隅に「コインテスト」の円を試し、カブリがないことを確かめている。今夜のプリントの二番、右下の余白に、ごく薄いベールのムラが見えた。

 「安全灯に細工」

 私はつぶやいた。

 この細工は、「事故」に見せるための布石になる。**“暗室は危険”**という物語の下地。


 私は指で唇を拭い、御子柴にメッセージを送った。

 > 「安全灯、細工あり。停止液の蓋の輪、定着に虹、セレンの縁。——“見せ方”がいる」

 返事は短い。

 > 「伊那尾か」


 私は、配線盤の裏に小指の腹を滑らせた。

 粉。

 蛍光体の粉。

 蓄光テープを剥がすときに出る、あの、微細な光る灰。暗室では滅多に使わない。配信で“暗室の見えやすさ”を上げるために、伊那尾が「貼りたい」と持ち込んだのを、蓮見が断った。

 粉は隅に溜まっている。細工は、未遂で残っていた。


 ——匂い、音、粉。

 全部が同じ指を指す。

 けれど、決め手が、まだない。

 私はトレイの中の一枚のプリントを取り出し、余白に硝酸銀試薬を一滴落とした。

 普通、水洗が足りないと、そこに褐色の斑点が出る。

 今、斑点の縁が、かすかに黒紫に滲んだ。セレンの影だ。

 セレン調色は未使用。

 定着の投棄ボトルの上の油の帯と、瓶口の紫。

 誰かが、定着にセレンを混ぜた。

 セレンは、他の薬と反応して、目に見えない何かを呼ぶ。

 私はそこから先を、言葉にしないことにした。

 代わりに、別の、もっと写真の言葉を探した。


 暗室の端のラックに、蓮見の「試験片」の箱がある。彼は何でも試し、端を切ってメモと一緒に残しておく。

 そこに、今日の日付の付いた小片があった。「安全灯テスト/伊那尾」。

 紙片には、コインの影の円が四つ。うち二つは綺麗な白、もう二つはわずかに灰色。

 灰色の方の輪郭が、鈍い。

 コインを置く位置がずれ、二回露光している。

 急ぐ人間の手だ。

 蓮見はこういうテストは丁寧にやる。

 伊那尾だ。


 聴取の二回目。

 伊那尾は、最初から少し疲れた目をしていた。

 「安全灯、触った?」

 「ライトを少し明るくしただけ。——映像で見えないと意味がないから」

 「緑のセロファンを貼ったね。マルチグレード紙は緑に反応する。微細なカブリが出る。コインテストの紙片に、二重の輪が残ってる」

 伊那尾の口元がぴくりとした。

 「それが、何?」

「それだけなら“事故”の演出。

 でも今夜、定着にセレンが入っていた。投棄ボトルの油の帯。瓶口の紫。硝酸銀の黒紫。

 定着が疲れて、停止液の蓋が床に置かれて、虹が出て、匂いがひどい。

 ——それらは全部、『暗室は危ない』という物語のための小道具だ」

 御子柴が、写真を机に置いた。

 定着の袋のステープル。一本が斜め。

 「蓮見は、こんな留め方をしない。おまえが回収に来た堀内の視線の隙に手を伸ばし、定着の袋を触った。

 そして、伊那尾。おまえは、配信のために細工を進めた。安全灯、蓄光、音の消し、台本。

 二十一時の配信は“録画の差し替え”。自由に動けた」


 伊那尾は、数秒沈黙し、やがて、口をひらいた。

 「……“見せ方”がなければ、人は見ないの。

 暗室なんて、黒くて臭くて、古い。スポンサーは数字だけを見る。回る画面と映えるバナー。

 蓮見さんは『匂いを残せ』って言う。紙の端を触れって言う。人は触れないのに。

 今日、一度だけ脅そうと思った。『危ないから』って。

 台本どおり、『安全のための注意』を配信で言わせて、それで飲ませるつもりだった。暗室の演出に蓄光を使って、『ここは危ないけど私たちは安全にやってます』って。

 ——混ぜるつもりはなかった。匂いは出るけど、倒れないと思った」

 御子柴は、低い声のまま言った。

 「人は、匂いで倒れる。見せ方は、人を倒すことがある。

 蓮見は、『匂いのむこうに写真がある』と言った。

 おまえは、『匂いのこちらに数字がある』と言った。

 ——今夜、数分の差で人が死んだ」


 伊那尾は、目を閉じた。

 「……私が、押したわけじゃない。

 堀内が、袋を開けた。ステープルは彼の癖。

 私はライトを置いた。

 蓮見さんが、停止の蓋を落とした。

 全部、少しだけ。

 少しだけの連続が、こうなった」


 事件は、法律の言葉に変換され、場所を移した。

 伊那尾は業務上過失致死と施設管理義務違反で送致。

 堀内は古液の回収記録の虚偽で処分。彼は「銀の回収」目的で疲れた定着液を古いポリタンクに移し替える仕事を請け負っていたが、今夜は回収と称して袋を開け、新液の補填を妨げた。

 佐東は関与なし。彼は翌週、自身の展示で「AIと銀塩」を巡る小さなトークを開き、炎上し、沈んだ。


 私は暗室のルールをいくつか書き換えた。

 ——安全灯のフィルターは封印し、交換時は記録。

 ——薬品の投棄ボトルは二重蓋。

 ——停止・現像・定着のトングは色で完全に分離し、位置を固定。

 ——在室者以外、扉に触れない。

 当たり前のことだ。だが、当たり前はいつも、見せ方に負ける。

 だから私は、匂いと音で見張る。


 葬儀の日、蓮見の棺のそばに、一枚のバライタをそっと立てかけた。彼が私に最初に焼かせた「雨の街角」。

 濃い黒と白の間にある、無数の灰。

 その灰が、光の音をいちばんよく響かせる。


 工房の再開の日、私は一番古い現像液の瓶を手に取り、蓋をゆっくり回した。

 匂いは正しかった。

 現像が紙に触れる最初の三秒で、黒はどこに行くかを決める。

 三秒のあいだ、私は呼吸を止める。

 次の三秒で、停止の酢が眠りを引き受ける。

 次の三十秒で、定着が銀を抱え込む。

 順番は、時間だ。

 時間は、匂いに載る。

 そこに、見せ方の入る余地はない。


 御子柴から、短いメッセージが来た。


「おまえの“光の耳”に助けられた」


 私は指先に水を弾かせながら返した。


「光は嘘をつかない。嘘は、先に匂う」


 送信して、私は暗室のドアを閉めた。赤い安全灯が、正しく赤かった。

 トレイの液面に小さな波紋が走り、音のない音が指に返ってくる。

 外では、SNSが今日も回るだろう。数字は数字であり、人の関心の影である。

 ここでは、紙が乾く。

 銀が鳴る。

 光が、黙って残る。

 それでいい、と私は思った。

 そしてまた、トングで一枚目の端を掴み、液に沈めた。

 黒が、ふっと、浮かび上がる。

 誰の見せ方でもない、ただの黒が。

 その音を、私は、聞いていた。

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