第9話【猫】


 ──三日前──


 噂は、村中に広がっている。


 ルヴァントが石畳を歩くたび、視線が集まる。期待と恐怖と希望が混ざり合った視線。誰も声をかけてこない。ただ、見ている。


 正午の陽光が石畳を白く照らし、影が家々の足元に縮こまっている。


    ◇


 小屋の前に、人が並んでいた。


 老婆が震える手で何かを握りしめている。中年の男が黒い喪服に身を包み、若い母親が幼い子供の手を引いている。


 シエノラが扉を開く。


 深い黒衣。銀髪が陽光を受けて、かすかに輝く。夜の海のような瞳が、人々を見渡す。


 空気が、変わった。


「あなた方は、何を望んでいるのでしょう?」


 沈黙。


「失った者を取り戻すことですか?それとも、失ったという事実を、なかったことにすることですか?」


 中年の男が一歩前に出る。


「なぜです!リムスは蘇ったじゃないか!」


「お子様が亡くなってから、どれくらい経ちましたか?」


 男の顔が歪む。


「……三年だ」


「三年という時は、物語をどこまで連れ去るのでしょうね。遠く、遠く──もう、戻れない場所まで」


 男が崩れ落ちる。


 老婆も、母親も、他の人々も──一人、また一人と、頭を下げて去っていく。問いかけに、答えられないまま。


 ルヴァントは、その背中を見送る。


    ◇


 全員が去った後、シエノラは自室に戻る。

 ルヴァントが荷物を片付けていると、扉を叩く音が響いた。


 扉を開けると、若い女性が立っていた。


 ルヴァントと同じくらいの年齢。黒色の髪。質素な服。


 そして──瞳。


 灰色がかった緑。

 翠玉のような、神秘を宿す色彩。

 まるで、深き森の奥で瞬く、獣の瞳のような。


 どこまでも深く。

 どこまでも暗く。

 どんな光も迷い込む森。


 ルヴァントは一瞬、息を呑む。


 その瞳の奥に──何かが潜んでいる。


 深い、深い、静寂。


 灰緑の瞳が、ルヴァントを見つめる。


 光を飲み込む深淵の瞳


 でも──どこか人間の悲しみが、まだ僅かに残っている。


 少女はその腕の中に、小さな布に包まれた何かを抱えている。


「……どうぞ、中へ」


    ◇


 二人は向かい合って座った。


「村の少年、リムスが蘇ったと聞きました」


「はい」


「本当に、蘇ったのですか?」


 灰緑の瞳が、ルヴァントを見つめる。

 深き森の奥から、こちらを覗き込むように。


「はい。最後の別れを告げて──また眠りにつきました」


「私は村のはずれで葬儀屋として生活しています」


 少女の声に、かすかな緊張が走る。


「リムスの葬儀も、私が準備しました」


 布に包まれた首輪を、少し強く握る。


「彼は、確かに死んでいました」


 灰緑の瞳に、何かが宿る。

 職業的な確信。そして──


「冷たくて、硬くて……もう、戻らないと思っていました」


 沈黙。


「でも、蘇ったと聞いて」


 声が、わずかに震える。


「死は、終わりではないのかもしれないと……そう思って、ここに来ました」


 呼吸を整える。


「私は猫と二人で暮らしていました。名前はノクスと言います。夜のように黒い毛並みでした」



 灰緑の瞳に、涙が滲む。

 陽光が涙を捉えるが──

 その瞳は、光を吸い込んでしまう。

 まるで森の地面に、一粒の雨が染み込むように。

 どこまでも深く。

 音もなく。

 戻ってこない。


「二日前、あの子の散歩についていった時……」


 少女の声が、かすれる。


 少女は手に持ったままの布を見つめる。

 震える手が、ゆっくりと布を開く。


 中には──小さな首輪。黒い革。銀色の鈴。


 少女の声が掠れる。


「ノクスは私の目の前で、川に落ちてしまったんです……」

 祈るように、言葉を紡ぐ。


「……川沿いの小道を歩いていたら」

「ノクスが、川に張り出した木の枝に飛び乗って」


 声が、わずかに明るくなる。


「いつもそうでした。高いところに登って、私を見下ろすのが好きで──」


 光景を思い出すように。


「得意げに、鳴くんです。『見て』って」


 陽光が照らし、


「その日も、枝の上で──」

「自慢げに、こっちを見て……」


「鳴いた」


 息を呑むように、言葉が途切れる。


「その瞬間、枝が、折れて」


 何かを掴もうとするように、少女の手が首輪を握りしめる。


「私は手を伸ばしました……」


 焦燥が滲むように、


「走って、川に……」


 声が震える。


「でも、流れが速くて」


 絶望が瞼に宿るように、


「届かなくて……」


 首輪を抱きしめる。


「ノクスは、水の中で私を見て──もう一度……鳴きました」

「助けを求めるように」

「それから──」


 沈黙。


 少女の涙が床を濡らした。


「何度も探しました。川を、ずっと下まで」

「でも、ノクスは見つからなくて」


 首輪を見つめる。


「これだけが、翌朝、下流の岸に流れ着いていました……ノクスの、においがまだ残っています」


 少女が頭を下げる。


「お願いします。ノクスを、蘇生してください」


 風で窓枠が、小さく音を立てる。


「──師匠に、相談してみます。待っていてください」


    ◇


 シエノラは書斎にいた。


「師匠。村の女性が、猫の蘇生を依頼に来ました」


 シエノラの表情が変わる。わずかに。でも、確かに。


「遺体は?」


「川に流されて、見つかっていません」


 沈黙。


 シエノラは窓辺へと移動する。


「ソウルの再構築には、十分な要素が必要です」


 窓の外を見つめる。


「他者の記憶」

「接触していた物」

「そして、物語」

「これらが揃って初めて、試みることができる」


「はい」


「では、器のない物語を、どこに注ぐのでしょう?」


「それは──」


「土に注げば、染み込んで消える。空に注げば、霧散する」


 シエノラは振り返る。


「遺体のない蘇生は、術者の主観で物語を『創作』してしまいます」


 その声に、かすかな痛みが混じる。


「不十分な要素で行えば──」


 左半身の灰色の痕跡に、かすかに触れる。


「それは、と言えるでしょうか?」


 ルヴァントは息を呑む。


「お断りください」


 シエノラの声が、部屋に響く。


「でも──」


 ルヴァントは自分の中で明確になっていないものを口にしようとするが、言葉にできず、踵を返す。


「ルヴァント」


 シエノラの声が、背中に届く。


「はい」


「死者に、何を語りますか?生者の言葉でしょうか?それとも──死者の沈黙でしょうか?」


 ルヴァントは振り返る。


 シエノラは窓の外を見つめている。


「彼女の愛の物語です」


「その物語は──」

「──彼女が愛する者を、二度失う結末になります」


 扉が閉まる。


 静寂だけが、残った。


    ◇


 少女は、首輪を握りしめたまま、じっと座っている。


「お待たせしました」


 ルヴァントが声をかける。


 少女が顔を上げる。


「師匠の答えは──お断りする、とのことです」


 少女の表情が、ゆっくりと崩れていく。


「そう、ですか」


 涙が、頬を伝う。


「やはり、遺体がないと、蘇生は不可能だそうです」


「わかりました」


 少女は立ち上がる。首輪を布で包み、胸に抱きしめる。


「ありがとうございました」


 その声は、もう震えていなかった。諦めた者だけが持つ、静かな強さがあった。


「本当に、すみません」


 ルヴァントは頭を下げる。


「いいえ。期待した私が、間違っていたんです」


「そんなことは──」


「でも、ありがとうございました」


 少女は扉に向かう。


 ルヴァントは、その背中を見送る。


 扉が開く。午後の陽光が差し込み、少女の姿を照らす。黒い髪が、光を受けて輝く。

 でも──その瞳だけは、光を拒む。


「あの」


 少女が振り返る。


「何でしょう?」


「ノクスは、あなたにとって、どんな子でしたか?」


 少女は少し考える。


「人懐っこくて、よく膝の上で寝て、お肉が大好きで──いつも、私の帰りを待っていてくれました」


 涙が、また一粒、頬を伝う。


「あの子は私の、大切な家族でした」


 少女は深く頭を下げ、扉を出る。


 足音が遠ざかる。

 一歩、また一歩。


 石畳を踏む音が、やがて土の道に変わる。

 柔らかく。

 深く。


 森が、彼女を呑み込んでいく。


 窓の外。

 黒い髪が木々の影に溶け、

 やがて見えなくなった。


 首輪の鈴の音だけが、

 風に乗って──


 消えた。


    ◇


 ルヴァントは、その場に立ち尽くしていた。


 窓から、少女の後ろ姿が見える。森の小路を歩く、小さな影。一人。家族を失った、孤独な影。


 あの瞳を、忘れられない気がした。光を飲み込む、深き森のような瞳。


 ルヴァントは、その場に立ち尽くしていた。


 あの少女にとって、猫は家族だった。


 かけがえのない、たった一つの。


 それを失った悲しみを、僕は本当に理解しているのか?


 いや。


 理解なんてできない。


 でも──


 理解できないから、何もしないでいいのか?


 ルヴァントは拳を握りしめる。


 窓の外、陽光が傾き始める。

 影が長く伸び、部屋の隅を這う。


 ルヴァントの胸に、温度が芽生える。


 問いを抱えたまま、足は前に出る。


 それでいいと、誰かが言った気がした。​​​​​​​

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