第五話「始まりの鍵穴」

 グルーベルの長く太い腕が襲いかかり、ラグナはその身をかがめてかわす。地下室内にある障害をすべて一掃する豪快さは、まるで横に大ぶりされた大木のようだ。


 次の一撃をお見舞いすべく、再びラグナに照準を合わせにかかるグルーベルだったが、そこにいたはずのラグナの姿を目視できない。


 「はっ! テメェお得意のってやつか」


 物陰から様子を伺うラグナは、「どうする、どうする、どうする……」と、エディアに望んでいた期待を裏切られたこともあってか、いつものように精神状態にゆとりが持てず、呼吸も荒い。それに、これまで双子とやり合うことはあっても、父親であるグルーベル・ゴンゴールと戦うことはなかった。そのため、まだ彼の性質を脳内で処理しきれていなかったのも、心をコントロールできない一つの理由だった。


 グルーベルは目を瞑り、高級肉で仕上がったソテーの香りを嗅ぐように鼻で音を立てる。


 「匂うぜぇ? テメェのの匂いがよぉ。俺ぁ恐怖の匂いがたまらなく好きなんだぁ。小僧ぉ……テメェがどこに隠れようが、俺から逃げるこたぁできねぇ。この街で誰を敵に回してんのか、今ここで思い知らせてやらぁ……!」


 大きな握り拳を作ると、グルーベルの周りに真紅の糸が現れ始める。


 「《血怨皇(ブラッド・バロール)》流!《呪紅穿咬(ジュコウセンコウ)》!」


 グルーベル・ゴンゴールの感情型のアニマ《血怨皇(ブラッド・バロール)》が発動し、無数の血の狼が幻影のように現れ地下室内を駆け巡った。赤い狼は室内に点在していた物を次々と破壊し、影に潜んでいたラグナをいとも簡単に見つけ、容赦なく牙を剥く。


 「マジかよっ!」


 居場所を勘づかれたラグナはすぐさまグルーベルのアニマを回避し、迫り来る赤い魔の手から死に物狂いに逃げ惑う。破壊音がラグナの恐怖心をさらに煽り、その度にグルーベルのアニマが活気だっていくように思えた。


 「俺のアニマ《血怨皇(ブラッド・バロール)》はを餌にして発動するぅ! おまけに《呪紅穿咬(ジュコウセンコウ)》は相手の恐怖心を嗅ぎつけて攻撃する技……だぁ! 要するによぉ……」


 グルーベルは、血の狼たちが狙い続けている方向を見定める。


 「テメェの居場所はバレバレだってこったぁ!!」


 逃げていたラグナを庇っていた障害物諸共、大きな右拳で破壊するグルーベル。ラグナはその攻撃を防ぎきれず、破片と共に宙を舞い、石壁に叩きつけられ倒れる。


 「ううぅ……」


 痛みでうずくまるラグナ。これまでも厳しい場面が何度も経験してきたが、と体の節々で感じ取っていた。


 重みのある足音をゆっくりと石に記憶させながら、グルーベルはラグナの元へ歩いてゆく。


 「バカ息子どもがギャーギャーほざいてたからどんな奴かと思って楽しみにしてたんだがぁ……てんで大したことねぇガキじゃねぇかぁ? 影走りのラグナぁ!」


 グルーベルは声を荒げながらラグナの腹部を高く蹴り上げる。体重の軽さからか、蹴られたラグナの体は羽毛のように再び宙を舞い、体を打ちつけ惨たらしい音を鳴らす。身も心も雑巾のように搾り取られたラグナに、立ち上がる余力は残されていない。


 ラグナは心の中で、これまでの記憶を走馬灯のように思い浮かべていた。


 「『あぁーあ……ここで終わりか』」


 視界はぼやけ、かすみゆく世界に移るのは、グルーベルの影だけ。


 「『最期の最期まで、俺には何もなかったな。初めっから、何もできずに、誰も救えずにのたれ死んでいく……そういう運命だったんだ』」


 大きなグルーベルの両足が向かってくるのが見える。意識が遠のき、死が間近に迫っていることをラグナは理解していた。転げ落ちた神の鍵「キーラ」は、物言わずその事象を観測している。


 「ダーハッハッハッハッハ! 街中の恐怖をエネルギーする俺にぁ誰も勝てねぇんだよぉ! 皮肉なもんだよなぁ? 住民が俺を憎めば憎むほど恐怖は増幅され、俺をさらに強くするなんてよぉ? 影走りぃ……冥土の土産にテメェにいいこと教えてやらぁ。この世界は弱肉強食……強ぇ奴だけが生き残ることを許されてんだ。弱ぇ奴らはその時点で罪ぃ! 生きているだけで罪人だぁ! テメェが守ろうとしてんのはなぁ、裁きを受けるために生まれてきたどうしよぉもねぇ連中なんだよぉ。でぇ! テメェもその負け犬の一人だぁ!」


 グルーベルはラグナを何度も何度も思いのままに踏みつけ、しゃがみ込んだ。悦に浸った表情でラグナを見下しながら、弱者が儚く散っていく様を褒美を受け取るように眺めほくそ笑む。その周りには血の狼たちが主人の指示を涎を垂らしながら待っている。


 「だがぁ……俺に楯突いた根性だけは大ぇしたもんだ。この俺直々に評価してやる。そんなテメェに特別サービスだぁ! その勇気に免じてぇ…」


 グルーベルはただでさえ邪悪な笑みにより拍車をかける。


「まずは影番地の奴らから皆殺しにしてやるよ」


 その言葉に、朧げだった生命力が再び炎をあげたのか、気がつくと、ラグナは自分の手がグルーベルのズボンの布をギュッと握り締めていることに気づいた。だが、その疑問も本能によってやがて潰えてゆき、矛先がグルーベルの顔面を見上げ定められる。ラグナの獄炎を宿した怒りの形相は、心の底から憎悪に侵食された怪物のように燃えていた。


 眉を八の字に傾けるグルーベル。そして、物言わぬ鍵として、キーラは相変わらずその様子を黙認し続けている。


 「俺の仲間に……手出しはさせない……!」


 「あぁ?」


 「俺は力を手に入れて……絶対に……みんなを守る! そして……」


 ラグナは、どうせ今日が最期になるのならと、全身全霊で、魂に秘められたすべての元素を涙と共に押し流し、自分の想い続けてきた夢を剥き出しにして叫んだ。


 「お前らみたいなクズだけが生き残る腐った世界を……終わらせてやるんだ!!」


 その言葉を聞いて、まるで微笑むように表面が優しく光だすキーラ。変わらず侮蔑の顔をこしらえているグルーベルは、ラグナの首根っこを鷲掴みにし、渾身の力で投げ飛ばす。


 「ご託はもぉうんざりだ。次で終わりにしてやらぁ」


 崩れ落ち、瓦礫と化してゆく破壊音が、ラグナや宝物たちの嘆きの声に聞こえてくるようだった。身体中が軋み、口からは鉄の味がじわじわと滲み出ている。精神と肉体が切り離されてゆく感覚にどんどん距離が開き始め、このままだと、完全に戻れなくなってしまうことは、ラグナ本人もわかっていた。


 グルーベルの周辺に真紅の血が集い、再び糸のように取り囲み、何重にも重なり合ってゆく。とどめのアニマを発動するつもりだろう。ラグナの瞼が次第に閉じてゆき、絶望の音が、強かに死の足音を立てて近寄ってくることを、ただ聴いて、待つことしかできなかった。


 〈ラグナ〉


 「……え?」


 そんな時、キーラの声が、遠雷のようにラグナの脳裏を震わせる。


 わずかに残る力を絞り、ラグナは視線を横へと滑らせた。そこに在るのは、指先が届く距離で淡く脈打つだった。


 〈だから、え? とちゃうねん。あんたの名前やろ? ラグナって〉


 「あ、あぁ……」


 「うちを使


 「使うって……どういうこと?」


 〈言葉の通りや。自分の胸元、見てみ〉


 言われるまま、ラグナはゆっくりと自分の胸元へと目を落とした。 そこには、つい先ほどまで確かに肉と骨で満たされていたはずの場所に、ぽっかりと空いたのような黒い空洞が覗いていた。触れると、冷たく、深く、どこまでも落ちていきそうな虚無がそこにあった。


 「……なんだ、これ……?」


 声が震える。その動揺すら予測していたかのように、キーラは揺るぎない声で言葉を継いだ。


 〈うちを使え! そしたら全部わかる!〉


 「………」


 〈はよしぃな! 守りたいもんがあるんやろ!?〉


 「俺が……守りたい……もの……」


 本のページを捲っていくように、ラグナの脳内に鮮やかな記憶が蘇ってゆく。


 慕ってくれる影番地の住人たちの笑顔や、善良な心を持ったトグの街の住人たち。そして、物心がつく前から親となって育ててくれたボウゲンの姿。過酷な世界であっても、そこには確かな幸せはあったことを思い出し、一粒の涙が目に浮かぶ。


 「俺は……俺は……!」


 〈ラグナ、あんたの願いを言え!〉


 ラグナは、持てる力を振り絞り、指先で待つキーラを強く握り締める。


 「この世界を……!」


 祈りに呼応するかのように、鍵を収めるラグナの拳から波動が閃光となって方々に線を描いてゆく。グルーベルは不意を突かれ身構えるも、その力虚しく、人智を超えたエネルギーに対抗できずいとも簡単に弾き飛ばされた。血の狼も一瞬にして紅い塵と化し、存在そのものが消滅する。


 光の最中にいるラグナは、自分の身体中から出ているオーラに、これまでに感じたことのない暖かみを覚えていた。母親に抱かれるとは、こういう感覚なのだろうか? と、限りなく幻想に近い在りし日の記憶を想い返す。


 右手には神の鍵。そして胸元へ視線を下ろすと、小さな鍵穴が、今か、今かと錠を回される瞬間を待ち望んでいる。肉体が、精神が、いや、自然という概念そのものが、その鍵を受け入れることを承認し、ラグナに安心感を与えているのがわかった。


 鍵の先端が底のない闇へ入ってゆく。心を蝕んでいた恐怖や不安が嘘のように祓われ、今のラグナにあるのは「勇気」の二文字のみ。本能に傾れ込む知識の赴くままに、運命の歯車を回すように、鍵を力強くひねった。


 「《解律(カイリツ)》!」


  闇を断つ合図が如く、ラグナの肉声と金属が擦れる音がカチリ、と空間へ響き渡り、細胞全体が変化に備え極限まで稼働。ラグナを躍動へと導き始めた。

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