第三話「月夜に導かれ」

 街の西側に位置する廃聖院は、かつて何を信仰していたのか識別できないほどに劣化が進んでいた。よって、今では行き場を失った荒くれ者たちのアジトとして利用されており、影番地と同じく、住民はあまり近寄りたがらない危険領域として認識されている。

 トグの街が寝静まった夜。ラグナとボウゲンは息を潜めながら、物陰に隠れて廃聖院の様子を偵察していた。ふと、ラグナは思い出したように疑問を口にする。


 「ていうか、なんでもっと早く、ここにあるってわからなかったんだろ」


 「いつの世も、真実は意図的に起こされた争いや、まやかしの論弁によって隠されてきたものじゃ」 


 「それどういう意味?」


 「答えは常に側にあるということじゃよ」


 「へぇ~、髪はないのにな! だはははは!」


 「それは関係なかろう」


 ボウゲンのローブを捲り上げて頭をペチペチ叩き、高笑いをするラグナ。満月と同じく見事な丸みを帯びたボウゲンの頭部が月明かりを反射している。

 お決まりのボウゲンいじりに満足したラグナはしたり顔を浮かべながら、再度、廃聖院に視線をやる。どうにも嫌な予感が拭えないボウゲンは、ローブを深く頭に被せながら、ラグナに言葉をかける。


 「本当にやるのか? エディアが本物ならば、もう後戻りはできんぞ」


 「もう決めたんだ。じいやん。盗むのは俺の得意技だし大丈夫さっ! それに、夜は俺のテリトリーだ。いざとなったらじいやんのアニマもあるしなっ!」


 「ふむ……」


 「心配すんなって! さっ! いただきにあがりますか!」


 不敵な笑みを浮かべ、ラグナは、「じゃあなっ! じいやんっ!」と言うや否や、しなやかな動きで夜の闇に姿を消した。ボウゲンはその場で待機し、助太刀することなくラグナが無事に帰還することを願う。


 「……ん?」


 近くの物陰から気配を感じたボウゲンは急ぎ身を隠す。目線を向けた先には、同じく漆黒のローブと布で顔を隠した謎の人物が立っていた。その人物はラグナの背中をしっかりと見据えたのち、同じくして廃聖院へと向かって足を走らせていったのだ。

 わずかに露出していた鼻筋や凛と澄んだ瞳は女性的なものであったが、ラグナに危害を加える可能性を考え、ボウゲンは様子を伺うべく、急ぎその場から身を乗り出し、謎の人物の後を追いかけ始めた。


 一方、トグの街を収めるゴンゴール邸では、泥まみれのデンゼールとワーシントンが、赤黒い絨毯の上で両膝をつき、肩を小刻みに震わせていた。極寒の風が吹き抜けるわけでもないのに、息が白く見えそうなほど、二人の体から熱が失われていく。 頭上では、いくつか灯りの切れたシャンデリアが陰を落としている。その影の向こう、兄弟の視線の先に立つのは、彼らの恐怖の源であり、血を分けた父であり、そしてこの街の悪徳市長――グルーベル・ゴンゴールだった。

 額や眉尻に浮き出る血管が、まるで脈打つ獣のように動いて見える。光を反射して絨毯と同じく赤黒く光るそれが、今にも声を上げそうに膨らんでいるようで、二人はただ黙って震えるしかなかった。

 書斎であるその場所には、支配するトグの街を見渡せる大窓が備え付けられており、グルーベルはその手前にある小さな椅子に鎮座している。正確には、椅子が小さいわけではなく、グルーベルがあまりに巨体であるためそう見えているだけだった。白いカッターシャツと黒のベストは、今にも筋肉ではち切れそうなほど、織り合わされた糸がひっぱりあっている。


 「でぇ? お前らはいつになったらあの泥棒小僧をとっ捕まえることができるんだぁ?」


 剥き出しにしなった眼球は地面を見つめている。地鳴りのように発するグルーベルの声に、兄弟は足の裏から頭のてっぺんに至るまで動きを取ることが許されないような感覚に陥る。一回の呼吸がやけに遅く感じ、胸が焼け焦げる臭いまでしてくるようだった。


 「ご、ご、ご、ごめんパパ……あと少しのところだったんだけど、ワーシントンがどじって……」


 「そ、それを言うならデンゼールが油断してたからで……」


 「なっ、ぼ、ぼくのせいにする気か!?」


 「そ、そ、そ、そっちこそ……!」


 兄弟による罪のなすりつけあいが始まるも、その小さな争いは爆音ですぐに終息を迎えることになる。前に目をやると、いつの間にかグルーベルの右足が床の中にめり込んでいて、折れたフローリングの木々の断面がその姿を無惨な形で露わにしていた。微かに、兄弟が膝をついている絨毯も前に進んでいる。


 「他にぃ……言いたいことはあるかぁ……?」


 まるで初めから瞼など存在していなかったかのようなグルーベルの目が、初めて兄弟へと向けられる。オールバックで光沢を帯びた黒い前髪が、数本前に崩れ落ちる。

 兄弟は「ひいいいい!」と声を上げ、「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」と呪文のように連呼した。


 「街もめちゃくちゃにしやがってぇ……俺の息子だからって甘えてんじゃねぇぞぉ……?」


  『は、はいいい!!!』


  「なぁ……お前らぁ……」


  グルーベルの低音が、さらにワントーン下がる。


 「は好きかぁ……?」


 全身を針で突かれるように兄弟が身構えた時。後ろから聞こえた男の声が、その戦慄を静止する。


 「グルーベル市長」


 「ああん?」


 艶のある冷静な呼び声が、兄弟にとっては救世主に思えた。怒りの導火線が一時、爆発寸前で火花を散らすことをやめ、グルーベルがその声の主に顔を向ける。兄弟が振り返ると、そこには夜の骨が衣を纏っているかのように、幾重にも折り重なった漆黒の外套がいえんを着た青年が立っていた。微笑みを忘れた口元は、風の流れを確かめるように丁寧に調べを始める。


 「ラグナ・フェルドの居場所がわかりました」


 「カエルス…」


 カエルスという男を例えるなら、一切の光を受け付けないだろう。端正な顔立ちだが、すべての闇を繋ぎ止めているかのような冷気を漂わせる。青年の姿は、恐怖の権化とも呼べるグルーベルを相手にしても氷の如く動じない。粛々と、マニュアル通りに事を進めていく。


 「ったく、この屋敷で唯一まともに使えるのはテメェくらいだ。で、奴ぁどこだ?」


 「西側にある廃聖院のようです」


 「廃聖院だぁ? あんなところに何の用があるってんだ?」


 「ねぐらの一つか、仲間が隠れているのか。もしくは、また何かよからぬことでも企んでいるかですね」


 「ふんっ!」


 グルーベルは椅子を蹴飛ばすように立ち上がった。瞬間、小さな椅子は乾いた悲鳴をあげるように砕け散り、その破片が床を転がる音が、兄弟の背骨を撫でて冷やした。

 そのまま大地を踏み割るような足音で、グルーベルはカエルスのいる部屋の入り口まで歩を進める。すれ違いざま、彼はカエルスの横で唐突に立ち止まった。まるで、森に棲む銀背の獣と、細枝を渡る猿ほどの体格差だ。


 「あの小僧の悪巧みも今夜で終わりにしてやるぅ。俺の街でこれ以上邪魔だてするこたぁ許さねぇ」


 「しかし、刻は夜です。を相手にするには、少々不利ではありませんか?」


 グルーベルは滑らかに口角を吊り上げ、隣にいるカエルスをギョロリと見下ろす。


 「そのためにテメェがいるんじゃねぇか。なぁ? 


 冷酷な表情のまま、輝きのない瞳で一点を見つめるカエルス。彼の足元の影が、水面に広がる波紋のように揺れ動いたのを、双子は見逃さなかった。


 ラグナが盗みを働く時は、デンゼールとワーシントンの時のように挑発しない限り、不思議と争い事は起こらない。影を利用し、自由自在に姿を暗ますことができる技術を持っているため、被害者はラグナの存在どころか、盗まれたことにすら気がつかないからだ。わかった時には後の祭り。ただただ慌てふためき、やり場のない憤りが心を蝕むのを耐える他、道はない。それがと呼ばれるようになった所以となっている。


 仄暗い廃聖院を照らすのは、限られたエリアに配置されている僅かな松明の灯のみ。おまけに夜となれば、ラグナにとってこれほど都合の良い条件はない。

 入り口には、酒をひっかけ、朧げな状態で見張りをしている杜撰ずさんな門番が二人いるだけだ。そんな状態でラグナの侵入を見破れるはずもなかった。

 荘厳そうごんで格式が高かったであろう元・大聖堂の壁一面には蔦が血管のように張り巡らされているも、最早もはや、血は通っていない。朽ちた像は原型をとどめておらず、何であったかを確認する術はなく、高い天井から垂れ下がっているボロボロの幕の一部には、星のような紋章が姿をちらつかせている。地面には荒くれ者たちが飲んで食い散らかした残飯や酒瓶などが無造作に捨てられ、聖域として機能していないことは明らかだった。中央の礼拝堂では焚き火を囲う者たちの下品な笑い声が、荒れた空間で揺れ動く退廃感を助長させている。


 ラグナは近くに落ちていた酒瓶を手に取り、空中でくるっと回転させて再びキャッチすると、その瓶を割れた窓ガラス目掛けて放って投げてみせた。瓶は曲線をなぞりながら車輪のように輪を描き、割れた窓ガラスから聖院外へと飛び出していく。ひとたび瓶の割れる音が屋内にまで入り込んでくると、大聖堂がその音をさらに反響させ、荒くれ者たちの耳を妖しく撫で回した。


 「あんだぁ?」


 「外からだな」


 「見張は何やってんだよ畜生が」


 ラグナの目論見通り、大聖堂にいた荒くれ者たちは、油を刺されていないブリキのような動作で何事かと偵察に出かけてゆく。出かけたところで何の役にも立たなさそうだが、ラグナにとってはここにいられるよりマシだった。

 大聖堂内にある祭壇の下。そこに、エディアの保管されている地下室への入り口があると聞いている。院内がガラ空きになった事を確認したラグナは、物音一つ立てず、軽快な動きで祭壇の元へと躍り出た。


 「ここか……」


 静かでいて力強く、腰から腕にかけて全筋力を稼働させ、祭壇を前へ、前へと動かしていく。経年劣化の影響か、ラグナ一人でもなんとか動かせる重量だったのが幸いだった。

 あらわになった祭壇の下。そこには石畳の絨毯が変わらず眠っているだけだったが、空気の流れが石の継ぎ目から遠慮がちに口笛を吹いている音をラグナは聴き逃さない。人の指が入るゆとりを持ったそれは、地下室への入り口であることを示唆していた。

 両手の指にすべての願いを託し、ラグナは石の蓋を引きづり上げていく。かくして、永い永い時間、呼吸を止められていた秘密の入り口は、大口を開けて冷ややかな空気を吐き出し、廃聖院のなかに新たな世界を循環させてゆくのだった。だが、ラグナにはそれが、この場所の在るべき流れなのだと直感的に理解できた。

 外では荒くれ者たちの持つ松明の光が揺れ動いている。恐らく、音の出所を探っているのだろう。行くなら、今しかない。


 「ごゆっくり~」


 ラグナは存在しない影と遊び続ける荒くれ者たちに向けて手を振りながら、その身を影の中に馴染ませていった。


 「うわ……ひでぇなこりゃ」


 予想を大きく上回るほどの物量に塗れた地下室の惨状に、ラグナは想定外の動揺を抱く。そもそもにおいて、エディアがどういった箱なのかは書物に記された絵でしか目視したことがない。しかも、その絵に信憑性が在るのかどうかも不明だった。


 「根気よく探すしかない……かっ」


 ラグナは、「待ってろよ~エディアちゃ~ん」と呑気に軽口を叩きながら、自分の運命を大きく変えるであろう、神の箱の捜索に取り掛かった。


 トグの街の夜はさらに深けていくも、今宵はどこか安息を許さないような物々しさが周囲にピリピリと漂っている。こういう時のボウゲンの予感は大抵外れることがない。「確実に、何かが起こる」という未来が、脳内を蝕みながら蛇のように這いずり回っているのだ。

 先ほど、廃聖院の中から放り出された酒瓶が、周辺に大きな割れ音を広げた。かと思えば、中から荒くれ者の一味が松明を持って偵察に現れ右往左往している。ボウゲンはすぐさま、「ラグナの仕業か」と予想を口にする。

 ラグナを追う謎の人物の尾行も継続しているが、ラグナが廃聖院に入ってからというもの、その人物は動きを停止し、しばらく様子を窺っているようだった。


 「エディアが目的か……それともまた別の何かを待っているのか……」


 ボウゲンが思考を巡らせていると、謎の人物の動きに緊迫感がほと走る。僅かに確認できる目元はどこか憎悪に支配されているように見てとれた。その人物が視線を向ける先には、荒くれ者たちとはまた別の影。近づいてくる馬車の音が馬の鼻息と共に止まると、降りてきた巨体がドカドカと闊歩しながら廃聖院へと向かっていった。ボウゲンは、嫌な予感の正体が、すぐに「これだ」とわかった。松明に照らされた顔は、紛れもないグルーベル・ゴンゴールだったからだ。


 「あやつはグルーベル……! よりにもよってなぜこんなときに……それに……」


 ラグナに危険が迫っていることはもちろん、ボウゲンはグルーベルの横にいるもう一人の影、カエルスにも意識が奪われる。


 「あの青年……何者じゃ」


 自分たちより何倍も背丈のある怪物のようなグルーベルの姿に、荒くれ者たちは恐怖で一気に酔いが覚めていた。


 「ぐ、グルーベル市長!?」


 「なんでここに……」


 「俺の街なんだからよぉ。俺がどこにいようがそぉ驚くこたぁねぇだろぉ?」 


 「何かご用でも……?」


 「だぁ…?」


 巨体の先端に位置するグルーベルの顔が、グンッと荒くれ者の一人に近づく。品定めをしているような、獲物に狙いを定めているような眼光だ。


 「ご用も何も、この街のもんはぜんぶ俺の所有物じゃねぇかぁ? なんでテメェらにいちいち言わなきゃならねぇんだぁ?」


 「な、何か問題でもあんのかよ……! 俺たちはあんたに逆らったりしてねぇだろ!」


 「いやまぁ……確かに、テメェらにはなんの恨みもねぇんだがぁ……」


 グルーベルの顔の位置が元に戻ると、月明かりがグルーベルの頭部によって遮断され、荒くれ者たちに影が落ちる。彼らの恐怖は最高潮に達し、それぞれの脳裏には終末の姿が過ぎった。


 「運がよぉ……悪かったよなぁ?」


 まるで恐怖を餌に欲求を満たしていくかのように、グルーベルは特有の不気味な笑みを陰影に乗せて、月夜に狂気を浮かびあげた。

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