鎌倉ゴーストストーリー2 ~バリアント・ヘッド~
SEEMA
第1話「開幕」
曇りガラスの奥で、肌色をした人影が、湯気をまとって揺らめいている。
エリノアは、その動きの中に、不穏な予兆を見出していた。
シャワー室に向かって、一歩一歩近づいて行くたびに、胸の内に生じた波紋が大きく広がっていく。
ドアの前まで達すると、ノブを右手でそっと握った。
さっき、その扉の向こう側に入っていったのは、間違いなく彼女の恋人だった。ならば、そこにいるのは、今でもその彼であろう。当然そのはずなのだ。
しかし、ノブをひねるだけの力が、何故か手首に入らない。
何かが釈然としない。
得体の知れぬ齟齬が彼女の中にあり、それが肉体をためらわせている。
「マーカス……? 何かあったの?」
声の震えに抗いながら、エリノアはガラス越しに呼びかけた。
返事が無い。
矢のようなシャワーの水流が、タイルに叩きつけられる音ばかりが、ひっきりなしに響いてくる。
「ねえ! マーカス!……」
緊張に耐えかねて、エリノアがつい大声を発すると、
「キャッ!」
曇りガラスの向こう側で、人影が突然動いた。
エリノアが握っていたドアノブが、内側から強烈な力でひねられた。
ドアは外側に勢いよく弾かれ、室内に充満していた大量の湯気が外部に放たれた。
エリノアは、目の前に展開された光景の意味を、全く理解できなかった。
シャワー室の中で直立し、彼女と対峙している「その者」は、少なくとも人間の肉体を持った「何か」だ。殆ど全ての点で、一糸まとわぬ全裸の人間そのものだった。
そして、それはマーカスと同じ顔をしていた。
「その者」の顔は、目も鼻も口も……顔の造形の全てが、見間違えようもなく、エリノアの恋人、マーカスそのものだった。
しかし、その首の根元には、横一文字に赤黒い切り傷が走っている。その下から続いているのは、なだらかなラインを持った女性の肉体だ。
(有り得ない……)
最初にエリノアの頭に浮かんだのは、その言葉だった。
しかし、決して見間違えではない。「その者」の胸には、二つの豊かな膨らみがあり、雪のように白い肌の色は、浅黒いマーカスのそれとは全く異なっていた。
「エエエエエエ…………」
「マーカスの頭部」が、口元を震わせて、かすれた声のような音を僅かに発する。それが、麻痺していたエリノアの意識を、現実に引きずり戻した。
しかし、その頭部は、首の切り傷を境に、切断面を露わにしながら、ズルズルと胴体から横へずれていった。
やがて、マーカスの頭部は、重力に負けぐらりと傾くと、まるで熟しきった巨大な果実のように、ボトンと音を立てて、水浸しの床に落下した。
絶叫が、エリノアの喉元までせり上がった。しかし、彼女に更なる衝撃を与える事実が、それを直前で押しとどめる。
頭部を失ったにも関わらず、その裸体は、エリノアの正面に変わらず立ちはだかっていた。
だらりと下げた左手の五本の指が、奇妙な「物体」をつかんでいる。その者は、それをゆっくりと、胸の高さまで持ち上げて、恐るべき解答を明らかにした。
それは「もう一つの人間の頭部」だった。
「その者」は、昨日殺されたはずの、生々しいダグラスの頭部を、頭髪をわしづかみにしてエリノアに見せつけているのだった。
そして、両手でつかまれたダグラスの頭部は、「その者」の首の切断面に載せられると、ゆっくりと正面を向けて、胴体に「接続」された。
かくして、全裸の女性の肉体に、全く「異なる頭部」を乗せた、奇妙な「人間のような者」が完成した。
「ダグラスの顔面」のあちこちが、小さくけいれんを始めた。両目がうっすらと開くと、焦点の定まらない瞳が露わになった。
口元が、何かを言いたげに震える。
「エエエエ……リイイイイ……ノオオオオ……」
かすれた不協和音が、だらしなく開かれたダグラスの口の奥から絞り出された。
ここに至り、理性のたがが遂に消し飛んだ。
今度こそ本当に、エリノアの金切り声が室内を揺るがせた。
☆ ☆
そして、館嶋佳子は現実世界へと戻って来た。
当然だが、彼女がいる場所は「マサチューセッツ郊外」などではなく、鎌倉市にあるマンションの自室である。
机の上に置かれた原稿は、それが最後の一ページだった。ラストに「完」の一文字は書いていないが、これで小説は完結だったのだろう。ストーリー的にも、明らかにクライマックスの展開だった。
佳子は一つ深いため息をつくと、その最終頁を百ページ以上もあるプリント用紙の束の最後に重ねる。
いつの間にか、窓の外はすっかり明るくなっていた。あちこちから雀の鳴き声も聞こえてくる。
結局、完全に徹夜してしまったのだ。佳子はバスケ部に所属しており、自主練習のために、殆ど毎日早朝に起床することにしている。寝不足にならない程度に切り上げようと思っていたのだが、つい小説の内容に引き込まれてしまった。
右手で握っていたスマホの画面を見ると、時刻は既に7時を回っていた。これでは朝練どころか、急いで家を出ないと遅刻してしまう。
急いでパジャマを脱ぐと、制服に着替えた。原稿の束をA4サイズの封筒に戻すと、学生カバンに詰め、キッチンに向かった。
フライパンに油を敷き、卵を一つ割るとスクランブルエッグをさっさと作った。それをソーセージと共に、買い置きの食パンの上に乗せた。これは佳子の定番朝食メニューなのだ。それを牛乳と共に食べながら、佳子はダイニングキッチンの中を何気なく見回した。
判り切っていることだが、部屋の中には誰もいない。
佳子の母は簡単な手術をするために、二週間前から入院している。手術の経過は順調だが、昨日のメールによれば、退院まではあと一週間ほどかかるらしい。そして、父は半年前から単身赴任をしている。そのため、佳子はこれまでの人生で初めて、この家で一人きりの生活を強いられているのだ。
そして、こんな状況で、よりによってホラー小説を夜中にぶっ通しで読んでしまった。きっと、途中で読むのを止めて寝床に入れなかった理由の一部には、暗い時間帯に部屋の明かりを消すのが怖かったこともあるのだろう。
顔を洗い、歯を磨いた後は、髪を後ろでまとめてポニーテールにした。時間はおしているが、女子として、身だしなみだけはおろそかに出来ない。
そうこうしているうちに、あっという間にタイムリミットが近づいてしまった。
入学以来、無遅刻無欠席の記録だけは途絶えさせたくない。
いそいそと玄関に向かうと、既に新聞がドアの郵便受けから室内に落とされていた。それを拾い上げて、靴箱の上に置いた。
靴を履くとドアチェーンを外し、ドアのロックを開錠した。
ところが、ドアノブを握り、ひねろうとした時、
(キチキチキチキチ……)
奇妙な金属音が耳元で鳴った……いや、鳴ったような気がした。
続いて、頭の中に突然、不可思議な振動が広がる。
視界の全てが真っ白になった。
視覚だけではない。五感の全てが途絶した時間に、佳子の意識は放り込まれた。
……
……
……
……
……
しかし、いつの間にか、外側に向かって開かれた玄関のドアノブを握ったまま、彼女はマンションの廊下に立っていた。
頭の中に、かすかにしびれたような感覚が残っている。さっきの「振動」の余波だろうか。時間と空間の感覚がねじれている。
一体、今のは何だったのだろう……耳鳴りか立ちくらみの一種だろうか……
良くは判らないが、ぐずぐずしていると遅刻してしまう。ともかく登校しなければいけないのだ。佳子は、玄関のドアを閉めると、外側から施錠した。
五階の廊下を左に向かって進み、突き当りにあるエレベーターのボタンを押した。ランプの表示が一階から順番に上がって来る。やがてドアが開いたので、かごの内部に入り、一階のボタンを押すと、間もなく軽い垂直のGが身体にかかった。かごが下階へ動き出したのだ。ランプの表示が一つ一つ下へ降りて行く。
何気なくスマホを手に取って画面を見た。
(……?)
現在時刻の表示を見て、佳子は首をかしげた。
(おかしい……)
理屈ではなく、まず直感的にそう感じた。
その違和感の正体が、どうしても判らなかった。しかし、時刻の表示を見つめているうちに、じわじわと居心地の悪さが増幅して来る。
(これは……一体、何なのだろう……)
漠然とした疑問を、ぐるぐると頭の中でかき回しているうちに、かごは一階フロアに到着し、眼前でドアが開いた。
(そうか……)
それが何かの引き金になったのか、不意に佳子は正解を見つけたと感じた。
(この「現在時刻」はおかしいのだ……)
室内で、最後に壁掛け時計で時間を確認した時から考えると、僅かに時刻が進みすぎている……?
さっき、玄関で耳鳴りのような事が起こった時に、立った状態のまま意識を失い、数分間の時間を喪失しているのではないか?
もちろんそれは、ずいぶんと馬鹿げた推測ではあるのだが……
そんなことを考えながら、佳子は速足でエレベーターホールを横切っていった。
ガラス製の両開きドアを押して開くと、「サンフラワーマンション」と刻まれた銘板がしつらえられた正面玄関から外へ出た。
これでは、本当に遅刻してしまうかもしれない。佳子は、カツカツと小気味よい靴音を立てて、可能な限りの速足で駅へと向かった。
通いなれた通学路だ。
向かいから吹いてくる初夏の風が、心地よく両頬を撫で、すり抜けていく。
やがて、前方に湘南モノレールの線路が見えて来た。再び、時刻を確認するためにスマホの画面を見た。
そして佳子は、再度違和感を覚える。
(いや……それは違う……やっぱりおかしい……)
そう思った。今度は、さっきよりもずっと明確に。
仮に、時刻に数分のずれがあるのが事実だったとしても、この「違和感」の正体は、そんなことではない。
恐らくは、もっと根本的なレベルで存在する、大きな齟齬に自分は気が付いていないのだ。
しかし、それが何なのかは、どうしても判らない。
やがて、湘南モノレール「湘南深沢」駅が近づいてきた。佳子は、ひとまずその疑問を封印することにした。今、最も重要な関心事は、自分が無事遅刻せずに登校できるかどうかだからだ。
☆ ☆
佳子が改札をくぐり、駅の階段を上り切ると、ホームには先客が立っていた。
スマホを片手に持ち、学生服を着た男子だ。
「あ、比呂! お早う!」
館嶋比呂はスマホの画面から目を離すと、佳子の方へ振り向いた。
「あれ、佳子! 何で?」
比呂が何を言いたいのかは判っていた。普段、朝練で比呂よりも遥かに早く登校する佳子が、この時間にホームにいることに驚いたのだ。
比呂は、佳子の義父である浩太の兄の一人息子、すなわち、彼女が八歳の時に突然現れた、血が繋がっていない戸籍上の従兄弟なのだ。
「うん……ちょっとね。遅くなっちゃったの! 別に自主練だからサボっても問題ないのよ」
「ふーん、そうなんだ……」
さほど興味も無さそうにそれだけを言うと、比呂は再びスマホで文字を打つ作業に移ってしまった。
佳子の胸の内が、僅かにざわめく。
「スマホ買ったの? なんだか、らしくないわね」
「え? そうかな……」
比呂は、視線をスマホの画面から外さないまま答えた。
真横からなので良く見えないが、メールを打っているのだろう。確か少し前までは、比呂は殆ど携帯を使わない、現代人としては珍しい生活をしていたはずだ。なのに、いつの間にか、こうしてメールを駅のホームで打つようになっているのだ。
その理由ははっきりしている。一か月ほど前、比呂は別の高校に通う下級生の女子と知り合ったのだ。彼女と「特別な関係」になったわけではないと比呂は明言している。嘘をつくのが大の苦手な比呂の言う事だから、それは恐らく正しいのだろう。が、彼が送るメールのほとんどの送信相手は、その彼女なのだろうと佳子は想像した。
ゴロゴロと独特の走行音を立てて、モノレールがホームに入って来た。ドアが開き、数人の乗客が出てくるのと入れ替わりに、二人は車両に乗り込んだ。佳子は、普段の時間帯よりは随分客が多いことに驚いた。
ドアが閉まると、牽引式のレールにぶら下がった車両が、再びぎこちなく滑り出した。
比呂は佳子の隣に立ち、左手で吊革につかまり、右手で再びスマホをいじりはじめた。自分の存在が無視されているように感じ、佳子は微妙に居心地が悪かった。
「ねえ、前に会ったのいつだっけ。私が髪型変えたのって知ってる?」
「え? 何? 髪型って?」
「髪を伸ばし始めたのよ。大分伸びて来たから、一週間前からポニーテールにしたの」
「ああ、前は違う髪型だっけ。ごめん……気が付かなかったよ」
比呂は全く悪びれずにそう言うと、再びスマホの操作に専念してしまった。佳子は何でもいいから話題を振ってみたのだが、そんな比呂の態度によって、かえって苛立ちが増幅している自分を発見する羽目になった。
車両はギリギリと音を立てて「富士見町」駅に止まり、二人の身体は進行方向へ軽く倒れこんだ。佳子は、話題を切り替えることにした。
「実はね。今日徹夜しちゃったのよ。それでこんなに遅くなったの」
「え、佳子が徹夜? 何で?」
これには比呂もかなり驚いたようだった。心身ともに、絵に描いたような健康優良児である佳子には、徹夜という行為は全然似つかわしくないと感じられたのだろう。
比呂の関心が自分に向いたことに気を良くして、佳子はカバンを開けると、原稿の束が入った茶封筒を取り出して見せた。
「これ読み終わったら、丁度朝になっちゃったのよ。ホラー小説よ」
比呂は目を見張って、
「え? 小説って? だって、それプリントアウトした物だろ?」
と言った。
「そうよ。これアキラ君が書いた、オリジナルの小説なんだって」
「アキラって? あのアキラ? あの人、そんな特技があったのか?」
「そうよ。それも凄く面白かったの! まるでプロが書いたみたいに! 夢中で最後まで読んじゃった!」
「ふーん。あの人も、お前やペータの同類なのは知ってたけど、まさか小説書くほど好きとはね……」
佳子は、マニアとまではいかないまでも、小学生の頃から怪談、怖い話、ホラー好きだったのだ。最近は、同種の「悪友」と知り合いになったおかげで、その度合いが急速に進行していた所だった。佳子のクラスメートのアキラが「同類」というのもそういう意味だ。
アキラは、クラブこそ柔道部所属で体格もがっしりしており、第一印象ではいかにも健全な体育会系の人間に見えるだろう。しかし、その中身は全くの正反対であって、恐らくは「学年一の変人」だと断言してもよかろう。
怪談、オカルトにとどまらず、アキラの興味は、世界の未解決事件、猟奇殺人事件、死刑の歴史、拷問方法など、「ありとあらゆる悪趣味な物」に及んでいる。暇さえあれば、ネットを使ってその手の情報を調べまくっているような人間だ。当然そんなアキラは、女子からも男子からも「キモ」がられている。本人は、それを全く意に介していないようであるのだが。
やがて、モノレールは「大船」駅に到着した。二人は一度改札を出て横須賀線に乗りかえると、一駅先の「北鎌倉」駅で降りた。
殆どの同級生達は「大船」駅からバスに乗り替えているようだが、バスが大の苦手な比呂は、あえて「北鎌倉」から曲がりくねった細い坂道を登って行くことを選んでいるのだ。そして、佳子もまた、運動もかねて比呂と同じ登校路を使っている。
二人は、ハルジオンやドクダミの花が傍らに咲く、長い石段を登って行った。
「それで、その小説ってどんな内容? 怖いの?」
やや唐突に、比呂は先ほどの話題を掘り返した。
「アメリカを舞台にした、スプラッターっぽいホラーよ。怖いっていうより気持ち悪いかも」
「う~ん、悪趣味だな。アキラらしいっていうか」
「でも、凄く面白かったわ。みんなの評判もいいのよ」
「え、みんな? それじゃクラスで回し読みしてるってこと?」
「そうよ。私より前に、こんなに大勢読んでるみたい」
そう言いながら、佳子はカバンから四つ折りにした紙を取り出した。そこには、ワープロで打った名前のリストが並んでいた。かなりの人数がボールペンで横線を引かれ、読み終わった日付も書き込んである。
「小説を読んだ人から名前を消してるんだって。もう何十人も読んでるのね」
「何十人も? あのアキラが書いた悪趣味小説がそれだけ読まれてるってことは、本当に評判がいいってことか……」
「そうよ、私はスプラッターとか苦手だから、最初あらすじ聞いた時は抵抗あったんだけど、みんなが面白がってるから読んでみたの」
そこまで話したところで、二人はようやく坂を昇りきり、鎌倉市が遠方まで見通せる、やや広い車道へと出た。
彼らが通う「北鎌倉高校」通称「キタ高」は、そこからすぐ近くにあるのだ。
下駄箱で上履きに履き替えると、二人は北校舎の東側の階段を昇って行った。
二階のフロアに着くと、一番東側に教室がある二年A組の佳子は廊下を右に進み、左側にあるD組の比呂とはそこで別れることになった。
A組の教室に入ると、談笑していた友人の数人が佳子の方を向き、一斉に声を上げた。
「あ、佳子! お早う! どうしたの? 遅いね~!」
友人の麻衣が、大げさに驚いて見せた。ほとんど毎日早朝から登校している佳子が、遅刻寸前に姿を見せたことが余程珍しかったのだ。
「アハハ……徹夜しちゃったのよ。例の小説読んでるうちに」
「あ、佳子も読んだの? え~っ! 夜中に? あれ、怖かったでしょ~!」
今度は、別の友人の優奈が声を張り上げた。
「その話止めてよ~! 思い出しちゃうじゃない~!」
「あたしも! 読み終わった日、夜眠れなかった~!」
友人たちは、興奮気味にアキラ作のホラー小説の感想を口にした。佳子が想像していた以上の「大ヒット」だ。
その時、彼女らの会話を聞きつけた一人の人物が、獲物を見つけた鷹のように、猛スピードで割り込んで来た。黒縁眼鏡をかけた、眉がやや太い、アクの強い顔つきの男子生徒だ。
「え? 何々! 怖いって? 何の話だよ? 怪談?」
「あ、ペータ君? 君も読んだんでしょ? これの話よ!」
佳子は、その男子の側へ向き直り、手にした茶封筒を見せながら言った。
「ペータ」とは、佳子と比呂の共通の友人である、楠一平太の愛称だ。彼もまた、 無類の怪談マニアであり、最近になって佳子の怪談ファンぶりを急速に深化させた張本人でもあった。
「ああ、何だ。『V.H.』の話か。佳子も読んだわけね」
一平太は、途端に落胆した表情を見せた。女子達の話題が、彼が期待していたような内容でなかったのは明らかだった。
一平太は、アキラが「ホラー」小説を書いたと知るや、いち早く原稿を持ち帰り、一日で読破してしまった読者第一号である。しかし、彼のテリトリーは、あくまでも実話怪談、つまり知人や友人が体験した、起承転結が存在しない体験談に特化している。大前提として創作であり、非現実的な設定で書かれたホラー「小説」は、どこまで行っても彼の本分ではないのだろう。よって、これまで小説を読んだ人間の中では、最も冷ややかな感想を持っている人間が一平太だった。
「あれ? 館嶋さん、もう読んだんだ? どうだった?」
今度は、一平太に便乗して、色白で線の細い男子が会話に加わった。
「あ、桐谷君。今日の朝読み終わったのよ! 凄くゾワゾワしちゃった~!」
2年A組には、一般的には奇特な趣味であるホラー、怪談好きがどういう訳か集中している。桐谷修二もまた、佳子、一平太、アキラと並び、最近命名された「A組ホラー四天王」の一人なのだった。そして、文芸部所属の彼は、アキラが今回のホラー小説を執筆するにあたって、多岐に渡りアドバイザーを務めていたため、作品に対する反応に興味津々なのだ。
佳子は教室内を見回した。読み終わった原稿をアキラに返却しなければならない。これだけ評判がいいなら、出来るだけ早く、まだ読んでいない人達に回さなければならないのだろう。
「あれ? アキラ君は?」
「ああ、そう言えば……いないかも? 欠席かな?」
一平太も教室内を見回してから言った。
始業時間寸前の教室内は、既に殆どの生徒が出揃っていた。しかし、アキラの姿はどこにも見当たらず、机にカバンもかかっていなかった。
「じゃあ、これ次の人に回さないといけないね、ええと……」
佳子は、名前リストをプリントアウトした紙を広げると、まだボールペンで消されていない名前を確認する。
「ええと……これ順番って関係あるの? 次に予約が入ってる人がいるとか」
これには、一平太が、すかさず口を挟んだ。
「ああ、別に順番とか関係ないし、そこに名前が無い人間でもいいらしいぞ。それはあくまでも、アキラと面識がある人間だけが書いてあるんだよ。誰に渡してもいいんじゃないか? とにかく出来るだけ多くの人に読んでもらえれば満足らしいから、あいつは」
「う~ん、それじゃ……」
佳子はひとしきり考えて、次に小説を読ませたい、ある人物を思いついた。メールを打とうとして、鶴岡八幡宮の守り鈴がついたスマホを取り出すと、
「ああ、それじゃ比呂に渡そうぜ! あいつにもホラースピリットを注入してやるんだ!」
ほぼ同時に、一平太が大声を上げた。
「それ、俺がD組に持っていくよ。まだ、ギリギリ間に合うしな」
彼も佳子と同じことを考えていたのだ。
「あ、そう? じゃペータ君、お願いね」
原稿が入った茶封筒を、半ばひったくるように佳子の手から受け取ると、一平太は、教室を出て廊下を走って行った。階段を超え、三つ向こうの教室のD組まで辿り着くと、後ろの出入り口から教室の中へ身を乗り出した。
「おお~い! 比呂! これ、お前が次に読めよ! 佳子から預かってきた!」
名前を突然呼ばれた比呂が驚いて入口の方を見ると、一平太が右手に持った茶封筒を自分の方へ突き出していた。比呂は椅子から立ち上がり、一平太に近づいて行きながら、
「え、僕が? 何で? A組の人から先に読むんじゃなかったの?」
と、露骨に気が進まなそうな表情をして見せた。
「アキラが欠席してるんで、こっちの判断でお前に貸すことになったんだ。別に誰でもいいらしいぜ!」
「う~ん……でも、これって面白いの? ペータも読んだんだろ?」
比呂は、一平太の手から封筒を受け取りながら言った。
「まあな……俺の好みじゃないけど、良く書けてると思うぜ。評判は上々だよ。お前もこれ読んで、少しはホラーの神髄を学ぶといいぜ」
無類の怖い話好きの上、めったに物事を褒めようとしない、皮肉屋の彼がそう言っているのだ。ホラー云々は置いておいて、純粋に娯楽小説として、暇つぶしに読んでみるのも悪くないのかもしれないと比呂は思った。
「判ったよ。じゃあ、時間はかかるかもしれないけどいいのかな?」
「一応、一週間で読まなかったら、次の人に回すみたいだぜ。プリントアウトした原稿は、今はそれだけしか出回ってないみたいだしな」
「ああ、判った。それじゃ、暇見つけて、ぼちぼち読んでいくよ」
比呂がそう言うのと同時に、始業のチャイムが校内に響き渡った。慌ててA組に戻っていく一平太を横目で見ながら、比呂は自分の席に座った。
☆ ☆
その小説の舞台はアメリカ、マサチューセッツ州。主人公はエリノアという女子大生だ。彼女の姉であるブレンダが、交通事故で突然亡くなってしまう場面から、その物語は始まっていた。ブレンダの恋人のダンカンはひどく悲しむ。彼は、ブードゥー教の司祭を探し出し、黒魔術を使って、ブレンダを蘇らせて欲しいと依頼をするのだが……
2年D組では、ホームルームが始まっていた。
担任の岡山先生が退屈極まりない話をしている間に、比呂は一平太から受け取った原稿を巧みに歴史の教科書で隠しつつ、冒頭部分まで読み終わっていた。読書家でならす比呂は、本を読む速さに関しては、人並み外れた物があるのだ。
なるほど、ありふれたストーリーかもしれないが、中々に引き込まれる語り口だ。
そんな感想を抱いた時だった。
(キチキチキチキチ……)
そんな、小さな金属音が、どこかから響いてきたような気がした。
同時に、鈍い振動のような不快感が頭の中に伝播する。
(何だ……?)
比呂は首を傾げた。
続いて、野太い男性の声が、いきなり耳に飛び込んで来た。
「館嶋! 聞いてるか? その将軍は誰だ?」
「え……? ハ……ハイ!」
泡を食った。咄嗟に返事はしたものの、思考は完全に停止状態だった。
(亀岡……? これは、亀岡の声……?)
(ということは、歴史の授業……なのだろうか?)
(何故……いつの間に……? ホームルームは終わった……?)
ようやくそんな疑問が想起したのに続いて、隣の席の女子、中川が小声で話しかけて来た。
「足利義満……」
「ええと、はい! あ、足利義満です!」
「違うだろ! 銀閣寺を作ったのは足利義政。ぼんやりしているな!」
亀岡は苛立ちを隠すことなく怒鳴り散らした。中川は、心底すまなそうな表情をしている。
「間違えちゃった……ごめんね、館嶋君……」
しかし、当の比呂は教師に叱られたこと以上に、自分に起こった事態に当惑していた。
机の上には歴史の教科書とノートが置いてあり、その下には、例の小説の原稿が隠されている。ちらりとのぞいてみると、一番上のページの内容は確かに読んだ記憶があった。
教室の真正面、黒板の左上に掛けてある壁掛け時計を確認すると……
既に、授業が始まって5分ほど経っている。
(おかしい……さっきは、まだホームルームだったはずなのに……)
(ひょっとして……記憶が飛んでいる……?)
そうとしか思えない。しかし、一体なぜ……?
教室内では、亀岡の熱の入った講義が続いていた。
彼は、授業に夢中になると、生徒の動向などは目に入らなくなる癖があるので、それを計算して比呂は授業中に小説を読もうと思っていたのだ。
それでも、亀岡の目に留まってしまったという事は、余程自分は放心していたのだろうか。
余りにも不可解だ。
しかし比呂は、あえてそれ以上は気に留めないことにした。当面、自分の身体に異常はないし、教師に叱られた事以外の実害はなさそうだからだ。
何気なく窓の外を見ると、校庭で女子が体育の授業でバスケをしていた。
その中に、一際機敏な動きでコートを駆け巡る女子の姿が見つかった。
あれは佳子だ。全身の動きに合わせて、頭の後ろで束ねたポニーテールが躍動している。
佳子は、スポーツ全般が得意なのだが、バスケ部でも主力選手である彼女にとっては、今日の授業は独擅場なのだろう。
比呂の胸が、ぎしりと締め付けられた。
あのように、佳子が生き生きとした姿を見せる時には、決まってこの感情に見舞われるのだ。比呂は、嫌というほど、その痛みの正体を理解している。早い話が、これはコンプレックスなのだ。
八歳の時に、突然目の前に現れた、血の繋がっていない従姉妹。
比呂にとって、佳子は常にまぶしい存在で有り続けた。気立てが良く、美人で、誰からも愛される優等生の彼女と比べると、取り立てて特技の一つも無い自分は、何と矮小なのだろうか。比呂の心の奥底に、いつの間にか沈殿していた劣等感は、佳子が女性としてますます美しく成長し、異性として意識せざるを得なくなって行くにつれて顕在化したのだ。
今朝も、彼女が髪型をポニーテールに変えたことに気が付いた時には、危うく感嘆の声を漏らそうになった。しかし、比呂の中にある、従姉妹を異性として見ることに対する、幼い時からしみついた罪悪感が、それを表面上は押し殺したのだ。
これほど非建設的な感情は無いと判ってはいるが、どうしても比呂は、その呪縛から逃れられない。
気を紛らせるために小説の続きを読もうと思い、教科書をずらし、原稿の紙面を露出させた。
依頼したダンカンですら半信半疑だったが、驚くべきことに、ブードゥー司祭の魔術によって、ブレンダは本当に埋葬された墓から蘇った。一見、彼女は生前と全く同じような姿形であり、あたかも事故など無かったかのように会話もできた。しかし、数日が経過した後、エリノアはブレンダの身体から、かすかな異臭が漂っていることに気が付く。そして、さらにその翌日、ブレンダは忽然と失踪してしまう。それを皮切りに、エリノアの周辺で、友人達が一人また一人と、同じような形で失踪する事件が連続していった。
歴史の授業が終わった時点で、小説はそこまで読みおわった。比呂はその先の展開がぼんやりと「読めた」気がした。ふと思い立って、原稿の一番最初、つまりタイトルページを確認してみた。そこには、やや大きめのフォントで、
「バリアント・ヘッド」(VARIANT HEAD)」
と書かれてあった。
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