月影浴1 おつきさま

naka-motoo

第1話 はじまりは今

その1


僕は、小田 かおる(おだ かおる)。県立鷹井高校の一年生男子生徒。「かおる」という平仮名の名前から、女子生徒と間違われることがあり、小学校以来、クラス替えの度に自分の名前が呼ばれるのをなんだか恥ずかしく感じていた。お母さんに、なんで「かおる」なのか聞いたことがあったが、長男である兄の次は女の子が欲しかったので、女の子らしい名前を考えていたからという返答だった。僕が聞きたかったのは、なぜ生まれてきた男の子の顔を見て、それでもこんな可愛らしい名前をそのままつけたのかということだったのだけれど、赤ちゃんの頃はそれはそれは女の子のようなかわいい顔だったからだという、お母さんの言葉を聞いて、恥ずかしくてその場をさっと去ってしまうということしか僕にはできなかった。

 僕は、教室の後方の自席で次の授業の教科書を準備したりする振りをして、斜め前の席の、日向 さつき(ひなた さつき)が、女子生徒たちと話すのを見ていた。日向 さつきは、僕が唯一フルネームを覚えている女子生徒だ。直接訊くことはとてもできないが、以前、彼女が女子生徒同士で話すのを聞くところによると、「私、五月に生まれたから”さつき”なんだよ。」、ということだった。

 僕が彼女を意識する理由は自分でもよく分からない。確かにかわいらしい子なのだけれども、美人ということで言えば、同じクラスの中にももっとたくさんいた。ショートカットに少し浅黒の肌で背は標準よりかなり低い「日向 さつき」という子はきっといい子に違いないという、僕の根拠の無い先入観なのか。それとも、他の男子生徒はきっと彼女が実はかわいらしいということに気づかないだろうという、売れないけれども美しい曲を作り続けるバンドを見つけた時のような気分なのか。けれども、僕が彼女のことをかわいいと感じるということは、男子生徒の何人かは「日向 さつきがかわいいということを見つけたのは俺だけだ」と思っているのだろう。

 日向さつきの自然な笑顔を見ながら、けれども、僕は、今朝の登校途中の別の女性の顔を思い出していた。

 毎朝、僕が登校経路を大きく遠回りして歩いているコースの大通りに建っている古い木造の家がある。

 その家の住人だろう、老婆の笑顔だ。


その2


僕は、高校に入学したひと月前の4月から、徒歩通学を始めた。

 僕のように、家からの距離が比較的近い人間は、自転車通学が認められず、徒歩での通学となる。けれども、実は、僕の実際の通学距離は、自転車通学が認められるくらいの長い距離になる。最短距離で高校に向かった場合、自転車通学がぎりぎり認められない約2kmだが、僕は毎日、その倍ぐらいの約4kmを歩いて通っている。

 僕は、通学の時間だけでも、学校から逃げたいのだ。

 この高校が嫌いな訳ではない。入学して約1か月、中学時代からの友達も何人かいるし、高校で初めて会った友達も何人もできた。日向さんのように、見ているだけでなんとなく心がすっとするような女の子も教室にいる。授業は予習が求められるので大変ではあるが、今のところは何とかなっている。けれども、言いようの無い、漠然とした不安が、僕にはある。僕は、意味もなく、無性に悲しくなることがある。多分、僕のお父さんが病気になったことと関係あるのだろうと思う。僕のお父さんは、僕が中学2年生の時に、うつ病になった。

 

 僕が今朝見た老婆は、古い木造の家の窓で優しくほほ笑んでいた。

 デパート横からこの町の大きな神社にまっすぐに続く大通りの脇にその古い木造の家は建っている。僕は、高校に通い始めて一週間ほどしてから、最短距離ではなく、大きく遠回りし、神社にお参りしてから学校に向かうようになった。神社に行く際に、デパート横の大通りを歩くこともあれば、大通りから何本か奥に入った裏通りをくねくねと歩くこともあった。

 今朝、朝日が、大通り沿いに一本の光を神社に向かって照らすような美しい天気だったので、お日様を背に歩きたくて、大通りを通った。

 この1か月ほど気が付かなかったが、大通り沿いのお寿司屋さんの隣にその古い木造の家は建っていた。前から何人かの幼稚園児たちがはしゃぎながら走って向かってくるな、と思い、ふと右側に視線を移すと、その老婆・・・おばあちゃんが窓を開け、幼稚園児たちの様子を見てにこにことほほ笑んでいたのだ。窓には名も分からない、小さな可愛らしい白い花の鉢が置かれていた。その花の隣で、おばあちゃんは楽しそうに幼稚園児たちの様子を眺めていた。

 僕は、歩きながらだけれども、おばあちゃんの顔と小さな白い花をしばらく見ていた。

 なんだか、少しだけ、胸の中をくすぐったいもの溢れたようで、心の中で僕もほほ笑んでいた。


 今朝のおばあちゃんの笑顔と、今僕がちらちらと見ている日向さんの笑顔を比べてみる。日向さんには失礼かもしれないが、なんとなく、似た笑顔だと思った。見ていてなんだか安心するような笑顔。胸の中にくすぐったいものが溢れ、自分自身の防御態勢が完全に解除されるような、そんな笑顔だな、と思った。僕がなぜ日向さんのことが気になるのか、分かったような気分になった。笑顔が全ての人を安心させる訳ではない。鋭く、緊張を強いられるような笑顔もある。

「かおるちゃん」

 僕が日向さんの笑顔を鑑賞していると、小学校時代からの友達である日野 太一(ひの たいち)が話しかけてきた。慌てて、次の授業の準備をしているふりを再開する。

 「かおるちゃん、今日、旭屋に行かない?」

 旭屋はデパートの中に入っているそこそこ大きな本屋だ。

 「いいけど。」

 僕は、久しぶりに何かいい本が出てないか見たいと思ったので、太一の誘いをOKした。

「旭屋で今日、サイン会があるんだけど。」

 太一がサインを欲しがるような有名人は想像がつかなかったので、僕は太一に誰のサイン会かと訊いた。

「知らないかもしれないけど、村松 悠作っていう作家だよ。若手で、「猫もけ」っていう、猫がいるカレー屋の日常の出来事を書いた小説を読んで、その人の本を割と読むようになったんだ。」

 「‘猫もけ’ってどういう意味?」

僕は太一が唐突に言った不思議な小説のタイトルになんとなく興味を持った。僕が猫好きだということもあるのだけれど。

「説明は難しいなあ。その本を読んでみればなんとなく分かってもらえると思うんだけど。今度、猫もけの続編の「犬ちり」っていう本が出たんでそのサイン会なんだ。」

 僕は太一にもう一つ訊いた。

「部活が終わってからでも大丈夫かな?多分6時頃になると思うけど。」

 「サイン会は夕方から閉店までやってるから大丈夫だよ。こっちも部活は6時頃に終わるから。終わったら校門で待ってて。」

 僕は、‘犬ちり’の意味は訊かなかった。


 

その3


授業が終わって着替えると、僕はグラウンドに出て一人でストレッチを始めた。僕は中学と同じ陸上部に入った。高校の部活で驚いたのは、いわゆる全体練習というのがほとんど無いことだ。僕は走り幅跳びを専門にしようとしているので、同じ走り幅跳びを専門とする何人かの先輩方と砂場を共有する程度で、練習メニューはコーチ兼顧問の先生と個人個人で相談して決める。ただ、他の高校が全てこんなやり方をしているのかどうかは分からない。

 先輩方もグラウンドに一人二人とやってきて、それぞれのメニューをこなし始める。練習は短時間で集中して、という感じにならざるを得ない。ナイター設備を毎日使う訳にはいかないので、そろそろ夕暮れという時間には片付けを始めないといけない。先輩方は走り込みは早朝・夜や土日に個人的にやっていると教えてもらったので、自分もそうしている。

「お疲れ様でした。失礼します!」

「おっ、今日は早いな」

 三年生の春日さんが話しかけてきた。

「はい、友達と旭屋に寄っていくんで。」

「友達って、女子じゃないのか?」

 二年生の久我さんからも声をかけられた。

「いえ、残念ながら男子です。」

 こんな、他愛無いやりとりだけでも、自分の高校生活がとても充実したものだと感謝したくなる気持ちはある。それでも、僕は、やっぱり心の中に言いようの無い寂しい小さな塊があるのだ。

 

 僕は太一と並んで旭屋へと歩いた。当然最短距離を移動するため、気にはなったが、今朝のおばあちゃんの家の前は通らない。


その4


旭屋のレジ脇に机が一つ置かれ、そこに白いポロシャツにジーンズを穿いた男の人が座り、本が積まれていた。机の前面には'犬ちり'のチラシがセロテープで貼られている。この男の人が村松 悠作さんなのだろう。太一がその場で僕にした解説によると、村松 悠作さんは、まだ28歳なのだそうだ。僕は太一に訊いた。

「太一は‘犬ちり’を買うの?」

「うん、買ってその本にサインを貰うよ。この人の本を読むのがささやかな楽しみだから。でも、ハードカバーだから高い。ほんとは最初から文庫で出してくれるといいんだけど。」

 僕も欲しい本があっても、文庫になるまで1年か2年か待っていて、忘れかかった本がいくつかある。もっとも、自分の好きな作家の本ということではなくて、その時々で話題になっている本なのだけれど。

 僕は改めて村松 悠作さんの顔を見た。細身で清潔感があり、知的な新進気鋭の作家というのがお世辞を抜きにした印象だ。会場に何十人も人がいるわけではないが、十人ぐらいの人が並んでいるので、それなりに知名度も人気もある作家なんだなと思った。

 並んでいる人たちの先頭の辺りに、鷹井高校のセーラー服を着た子が3人固まって話をしている。

「あれ、うちのクラスの子じゃない?」

 太一がそう言うのと僕が気づくのがほとんど同時だった。

‘あ、日向さん・・・・’

 僕はその3人の女子の3番目に日向さんが並んでいるのを見て、思わず俯いてしまった。残りの2人も同じクラスで、日向さんの席の周りに来てよく話している子達だ。

「遠藤さん、脇坂さんと・・・ええっと、あの背の小さい子は日向さんだったっけ?」

「うん、日向 さつきさん・・・・・」

「ん?かおるちゃん?なんですぐにフルネームが出てくるの?」

「いや、なんとなく知ってたから・・・・」

「なんとなく、なんで知ってるの?もしかして・・・」

隠したいという気持ちと、反対に自分がいいな、と思っている子はあんな子なんだと見せびらかしたいような気持とがせめぎ合い、太一なら言ってもいいかな、と思った。

「いや、前からちょっと気になってたから・・・・」

 僕がそう言うと、太一は満面のにやけた笑みになった。

「そうか、かおるちゃんは日向さんみたいな子がいいんだ。いや、かおるちゃんなら確かにあんな子が好きそうな気がする。」

「好きとかじゃなくて、気になるだけだよ。」

 僕は自分が恥ずかしいとかではなく、なんだか勝手にこんなことを言うのが日向さんに失礼なような気がして言った。太一が間髪入れずに言った。

「それを好きというんじゃないかな。」

 僕と太一がいるのに気付いたのか、先頭の辺に並んでいる3人の女子は揃ってにこっと笑って僕らに会釈した。


その5


僕たちも3人の女子に会釈した。にこっという感じで笑いかけることはできなかったが、軽く頭を下げた。

僕と太一は列の最後尾に並んだ。列は大体20人弱になっていた。旭屋の店員さんが、サインを貰うための色紙や本を用意して待つよう説明した。また、今回出版の'犬ちり'をこの場でも販売するので、購入・サインを貰っていただけるとありがたいと薦めた。

「かおるちゃんは何に書いて貰う?」

太一に訊かれたが、特にサインを貰うつもりもなかったので、何も用意していない。

「ノートに書いて貰うのじゃ失礼かな?」

太一に訊くと、構わないんじゃないかとのこと。鞄から理科のノートを取り出し、右手に持ち、順番に進む。

3人の女子の内、先頭の子は、その場で‘犬ちり’を買ってサインを貰っていた。二番目の子は用意していた文庫本にサインして貰っている。日向さんも用意していた文庫本の後ろの方のページにサインして貰っていた。

3人の女子はサインが終わると、揃ってまた僕たちに会釈して、みんなでおしゃべりしながら本屋の売り場の方へ歩いて行った。

 僕と太一は順番を待ちながら、3人の女子が売り場で本を手に取っている様子を見ていた。しばらくすると3人は、エスカレーターで下の階に降りて行った。

 サインの順番が回ってきた。太一は‘犬ちり’を買ってサインして貰い、握手もした。村松 悠作さんはそれまでクールな印象だったが、太一が握手を求めた時は、少しはにかんだような笑顔になった。多分、自分が心を注ぎ込んで書いた本を読んでくれることが嬉しいと、太一から読者の象徴的な印象を受けたのだろう。僕は恥ずかしく、また、申し訳ないと思ったけれども理科のノートを差し出した。サインを貰うと、僕も太一に倣い、村松さんに敬意を表し、握手を求めた。村松さんは、さっきよりも少しはにかみが取れた表情で僕に握手してくれた。



その6


翌朝、僕は、またあのおばあちゃんの家の前を通ってみた。今日も、おばあちゃんは木造の家の窓から、幼稚園児や小学生が通学する様子を見ながらにこにことほほ笑んでいた。

僕は、ふっと、このおばあちゃんの家族はこの家に一緒に暮らしているのだろうかと気になった。家の古さから、自分の子供夫婦と暮らしているような感じはせず、もし誰かと一緒に暮らしているとしたら、旦那さん、つまりおじいちゃんとではないだろうかと、そんな気がした。一瞬だけ立ち止まって僕はそのおばあちゃんを見つめた。おばあちゃんの笑顔を見ながら昨日とは反対の連想をしていた。おばあちゃんの笑顔から、日向さんの笑顔を思い出したのだ。

昨日、日向さんの笑顔からおばあちゃんの笑顔を思い出した時は、それを日向さんが知ったとしたら、

‘私っておばあちゃんぽいのかな?’

と、少し気に病むかもしれない。

でも、このおばあちゃんにとっては、日向さんの笑顔と重ねられることは、嬉しくなくとも嫌な気はしないのではないかと勝手に思う。現役の女子高生と比べられるのだから。

僕が立ち止まっておばあちゃんを見たのはほんの数秒。右方向に視線をやりながらそのまま家の前を通り過ぎる。

それから神社に向かった。

神社の前まで歩く間、背中から朝日が自分を後押しするように鳥居の前へと自動的に進められるような気分になる。鳥居の前の横断歩道で信号を待つ間、突然周囲の目が気になり始めた。だんだんと僕は俯き加減になり、アスファルトの地面を眺める。横断歩道の白い横断線の照り返しがまぶしくて、横断線からさらに内側に曲がって視線を落とし、俯き、気が付いたらほぼ直角に首が地面を向いていた。

信号が青になり、右折して曲がって来ようとして横断歩道の手前で待機する車に下を向いたままさらに頭を下げた。


その7


神社の鳥居をくぐる時、軽く一礼し、手水で手を洗い、口をすすぐ。この動きは僕はもう自動的にやるような感じで、うつろな状態でいた。毎日うつろだ。

僕が神社へお参りするようになったのが何故なのか、今ではもうどうでもよくなった。最初は、僕のお父さんがうつ病になった時だった。

うつ病になる前のお父さんは、決してよくしゃべる明るい人間ではなかったが、兄と僕によくくだらない話をして、子供と接しようとしてくれているのがなんとなく分かるような、そんな父親だった。

その父親が少しおかしいなと僕が感じたのは三年前、僕が中学1年生の時だった。

早朝4:00ぐらい、お父さんが便所の中で唸っている声が聞こえてきた。便所のすぐ隣の部屋で寝ている僕は唸り声で毎日早朝に目が覚めた。初めの何日かは、お父さんは便秘でつらいのかな、と思っていたが、一週間くらい経った朝、すすり泣くような声が聞こえてきた。毎日お父さんの唸り声で目を覚ます僕だったが、さすがに、泣いているような声を聞いたときは、自分の父親ではあるものの、幽霊の声でも聞いたように恐ろしく、不気味に感じた。今にして思えば、自分がおかしくなっている様子を見られるのが恥ずかしいという気持ちからだったのかもしれない。それとも、そういうことを意識すらできないようになって、無意識にそうしていたのかもしれない。

それから、僕は一週間の内に何度かは、便所で泣いていたり、倉庫の薄暗い闇の中で夜に一人でうずくまっているお父さんを見るようになった。声をかけられなかった。

会社でどんなことがあるのかは分からない。自分が学校であることとどう違うのかも想像できない。仮に、辛かったとしても、自分も同じだと、特に父親を思いやる気持ちも湧かなかった。その内に僕は中学2年生になり、ある日、お父さんは、早朝に一旦会社へ出かけたが、始業とほぼ同じタイミングで家に戻ってきて、病院へ行った。精神科へ行った。



その8


お父さんは、うつ病と診断された。でも、会社は休まず、翌朝も唸りながら起きて仕事に行った。お医者さんは、本当は休んだ方がいいと言ったのだが、お父さんの会社では病気を理由に仕事に支障を来す人間は降格や解雇の対象になるという規程ができたばかりだった。つまり、病気を言い訳にするような社員は「もう、いい」ということだったのだろう。だから、お父さんは、会社に行き続けた。あれから二年近く経った今も会社に行き続けている。

お医者さんは、それなら仕方ないということで、服薬しながら仕事を続けるという治療法をとった。お父さんがそのような状態で、会社で仕事をこなせていたのかどうかは、僕には分からない。ただ、給料を大幅に下げられたり、クビになったりするのをなんとか避けたいという一心だったのだろう。それはお父さんのプライドなのか、家族の生活を考えてなのか、僕にはやっぱり分からない。ただ一つ分かったことは、大人になったからといって、物事が解決する訳ではないということだ。

僕は、大人の世界は理性的で、文字通り「大人」の集まりなので、弱い人をいたわり助け、責任と思いやりを持った人間たちの集団だと漠然と思っていた。だが、お父さんの病気のいきさつをお母さんから間接的に聞いていると、大人の世界でも理不尽で子供のいじめにも悖る行動を取っている人間が少なからずいるのだろうかと感じざるを得なかった。もちろん、お父さんも理不尽な大人の世界の一員で、お父さん自身にも撒いた種を刈らねばならないということが言えるのかもしれない。でも、僕は、生きていることそのものがとても不安で脆く危ういものなのだと直感してしまった。僕たちがもっと小さい子供の頃から、お父さんが神社へ兄ちゃんと僕をよく連れて行ってくれた理由がなんとなく分かるような気がした。そして、お父さん自身が夢遊病者のように、ほとんど毎日、仕事に行く前に神社へお参りに行っていた理由がなんとなく想像できた。

僕も、なんとも言いようのない寂しさ、なんともたとえようのない不安と悲しみに耐えきれず、小さな子供が学校へ行くのをいやいやするように、通学の途中で遠回りして神社へ寄ったのが最初だった。それは中学2年生の時から少しずつ回数が増え、高校生となった今は、毎日お参りしている。でも何をお願いする訳でもない。ただ、今朝もこの場所に寄せて頂いたことを不思議に感じながら、力なく柏手を打つだけだ。





その9


教室に入ると、いつも通りに自分の席に向かう。途中途中で何人かとおはよう、と挨拶を交わす。僕はこの高校が嫌いな訳ではない。それどころか、小・中学校の時と比べると、皆大人で、それなりに気遣いもお互いにしており、居心地がいいと思う。でも、やっぱり、とても寂しくなる時や、いつまでもこのまま安全に暮らせる訳ではないという漠然とした不安があった。僕と向かい合って仲良く話している相手が、些細なことで次の瞬間に僕のことを「変なヤツ」と仲間に触れ回るかもしれない。本当に心が休まる時がないような気がする。みんなどうなのだろうか、と、席に座って教室をぐるっと眺めまわし、そんなことを考えた。

斜め前の席に視線を遣ると、昨日旭屋であった日向さんたち三人組が、笑いながら何かしら話していた。僕は、日向さんの笑顔を見つめる。すると、一瞬、目が合った。僕は、しまった、見過ぎた、と思ったが、日向さんはにこっと会釈してくれた。僕は自分でも間抜けな感じがしたが、咄嗟にぎこちない会釈を返した。せめて笑顔で会釈すればよかったが、日向さんに笑いかけられてこちらも自然な笑顔になろうとする顔の筋肉を無理にコントロールして真面目な表情を作り、こわばった顔面で軽く頭を下げた。

「かおるちゃん」

 太一が僕の机の前に立って笑っていた。

「‘犬ちり’読み終わったから貸してあげようか?」

 僕は少し考えてから太一に訊いた。

「もう、読んだの?」

太一は自慢げにこう言う。

「昨日夜遅くまでかかって読み終わったよ。本当に面白いよ。」

「じゃあ、‘犬ちり’よりも先に‘猫もけ’を貸してくれない」

太一はそうだよねそうだよね、といった顔をした

「そうだね。昨日、日向さんがサインして貰ってたのは‘猫もけ’の方だったもんね。まずは同じものを読みたいってことだね」

僕は、そこまで深く考えていた訳でもないし、昨日確かに日向さんがサインして貰っていたのは‘猫もけ’の文庫本だったのだろうが、太一のような発想はなかった。だが、確かに、そう言われると、なんだか本当に‘猫もけ’を読めば、日向さんと時間を共有できるような不思議な気分になる。

「かおるちゃんが心配しなくても、ちゃんと猫もけを貸してあげるよ。」

僕は太一から目を離し、もう一度日向さんの方に視線を向けた。

日向さんは笑顔のままだ。僕は何でだか分からないけれども、日向さんの姿を見ていると、自分自身の体の内側が、すうっと安心感に満たされていくのを感じていた。


その10


朝、古い木造のおばあちゃんの家の前を通り、神社でお参りをし、学校に行き、授業を受け、日向さんの姿を見、部活をし、家に帰り、予習をし、テレビを観、音楽を聞き、小説を読み、疲れて寝る。こういう毎日を、僕はしばらく続けた。日向さんの誕生日があるはずの5月は過ぎ、6月になっていた。そろそろじっとりする湿度の高さと、その反面、肌寒さがある毎日だ。僕は、少し背が伸びたようだ。お母さんの背を越したのは中学2年生の時だったが、高校1年の今は、お父さんの背をそろそろ追い越しそうだ。もっとも、お父さんはあまり背が高い方ではないので、僕自身もそんなに背が高い訳ではない。クラスの男子では真ん中ら辺だ。

あの旭屋で日向さん達3人組と会った日以来、僕と日向さんは、会釈を交わすようになった。にこっと会釈する日向さんに、僕は真面目な顔で会釈を返す。会釈は交わすけれども、言葉は交わさない。それでも僕にしてみたらここ1か月で急速な進化だと思っている。

もともと、僕は女子と話をすることがほとんど無かった。何かクラスの用事があるとか、相手が話しかけてきて、やむを得ず返事をしなくてはならいない時だけ、しゃべった。挨拶を交わすこともなかった。これは中学生の時からそうだ。

僕は日向さんが自分に笑いかけてくれるのは、義理の付き合いだったとしても、別に構わないと半ば割り切っている。それでもし、日向さんが僕に笑いかけてくれなかったとしても、僕は日向さんの笑顔を自分で別途追うだろう。


今日も朝から曇りと雨の繰り返しになっている。今日は部活は練習スペースと天候の関係でお休みだと先輩方が言っていた。授業が終わったら旭屋に寄ろうと思っている。



その11


旭屋の文庫本コーナーには、とても美しい表紙の本が棚に飾られるようにして並べられている。平台に積まれている本や、背表紙ではなく、表紙を前面にして棚にレイアウトされている本。ハードカバーよりも手ごろな価格の文庫本とは言え、学生の分際では買ってしまってから「間違った」では済まないので、表紙だけで判断することはできるだけ避けるようにしている。もちろん、表紙や書店員さんが書いたポップや、著者のこれまでの作品紹介や経歴、といったものも参考にするが、僕が比較的頼りにするのは、「あとがき」や「解説」だ。著者本人の書いたあとがきもあれば、同業者や別の作家が書いたあとがきもある。「解説」はほぼ著者以外が書いたものしか無いはずだ。

そして更に頼りにするのは、その本の書き出しだ。

僕が小説は素晴らしいと感じるのは、日常と非日常を瞬時に行き来できるという部分だ。衝撃的な書き出しで始まる小説は確かに人を引き付けるのかもしれないが、僕はもっと普通の方がリアリティを感じられる。リアリティを感じる方が小説という非日常の中に入りやすい。あまり衝撃的な内容のものだと、「こんなことが都合よく(都合悪く)起こる(起こらない)はずがない」と感じ、常に醒めた状態で作品という非日常の中に溶け込んでいけない。また、それだと、瞬時に日常に戻ってこれない。文庫本を開いたり閉じたりした瞬間に日常と非日常を行き来できる、というのが僕の思い描く小説像だ。これは単に僕自身の好みだというだけで、他の人はまた違うだろう。

「小田!」

背中がびくっとして振り向こうとした瞬間に、後頭部をぱんとはたかれたようだ。高校入学以来、忘れかけていたこの嫌な感覚が、瞬間的に脳から体全体に伝わった。



その12


「小田、全然変わらんな」

久木田が僕の後ろに立っていた。久木田は市の南側にある高校に入学したと聞いていた。もう一人久木田の横にいる男は初めて見る人だったが、久木田と同じ高校の制服を着ている。

僕と久木田とは、久木田の側から言えば、久木田はいじめっ子ではなく僕がいじめられっ子なのであって、僕の側から言えば、僕がいじめられっ子なのではなく、久木田がいじめっ子なのだという関係だった。小学校の時は1年から6年まで、中学生の時は、久木田とは2、3年生と同じクラスだった。実際、僕は自分がいじめられていたのかどうかもよく分からない。中学の時は何回かトイレに連れ込まれて鉄パイプで腹を殴られたことはあった。鉄パイプで僕を殴るのが楽しいのが半分、鉄パイプをどこからか入手してきたことをその時傍らにいた仲間に見せたかったのが半分だと思う。それから、げんこつでなく、掌の一番硬い部分で胸を力まかせにパンチするように殴られたことがあった。その時、胸の痛みが1か月以上続き、呼吸の度に激痛が走り、陸上部の部活や大会で息が苦しくて思うように走れないようになった。医者にも行かなかったけれども、今思えば肋骨にヒビでも入っていたのかもしれない。こういったことは確かにいじめだったのかもしれない。けれども、僕は、久木田という男は、情けない男だと思った。人を殴るのに、自分の拳すら痛めようとしない。鉄パイプや掌で殴る。もっとも、僕がちょろい奴で馬鹿にされていただけなのだろうけれども。

今、中学卒業以来で僕の目の前にいる久木田は、今度は後頭部ではなく、僕の頭頂部を向かい合わせから力まかせにはたいた。僕は、自分の歯がはたかれた衝激でカチンと音が立てるのを口の中で聞いた。それを横で見ている久木田の高校での同級生と思われる男は、特に表情を変えることもなく、見るともなく見ている。

僕は、早くこの場から立ち去りたいと思ったが、久木田がどう思っているのかは分からなかった。

「小田は、鷹井高校に行ったから、もう俺からいじめられないな。」

そう言って、向こうのほうへ歩いて行ってしまった。

僕はなんだか馬鹿らしくなった。自分が情けなくもなった。久木田やその他何人かからこういう扱いを受けていた僕が、高校に入ったからといって、人並みに充実した高校生活を送ってもいいのか。ましてや誰か女の子を好きになったりすることなど分不相応なことなのではないかと思ってしまう。

さっきまで、美しい小説を探そうとしていたことにも何の意味も感じられなくなってしまい、僕はエスカレーターで旭屋のある7階の売り場から1階へと降りて行った。



その13


旭屋で久木田に頭をはたかれてから数日間、僕は何だか何をするにも虚しさばかり感じていた。土曜日の今日、午前中部活だったので、学校に行って、平日はなかなかできない走り込みをしたが、足が重くてだらだらとした走りになってしまった。さすがに先輩方からも、しゃんとしろ、と声がかかった。梅雨の時期の晴れ間に、かなりの部員が走り込みをしていた。陸上部だけでなく、テニス部やバドミントン部の部員たちもグラウンドの大外や、学校の敷地の周りを黙々と走っていた。

部活から家に帰って、昼ごはんを食べてからしばらくベランダでぼーっとしていた。僕は高校に入る少し前から、寂しいことがあるとベランダに出て空を眺めるようになった。本当は夕方あたりに雲を眺めるのが好きなのだけれども、今日のように青空がのぞいている空を見上げてまぶしく感じるのも好きになった。思わず涙があふれそうになることもある。

英語の課題をやらなくてはいけないのだけれども、家に居てはなかなかやる気力が湧いてこない。図書館ならばある程度「やらなければ」という拘束力が働くので、少しははかどるだろうと、自転車に勉強道具を入れて出かけた。

市立図書館は土曜日の午後の割に意外とすいていた。本当は学生用の自習スペースがあるのだけれども、今日は人が少ないので他人に迷惑をかけることも無いだろうと、一般の閲覧コーナーで課題にとりかかった。とても集中でき、思うように課題が進んだ。周りの音も気にならないくらいに課題の内容に入り込んでいたので、ふっと顔を上げて窓の外を見て、ちょっと驚いた。いつのまにか土砂降りになっていた。今日の朝からの天気で雨が降るとは全く考えていなかった。自転車には雨具は積んでいない。ただ、どう見てもすぐに上がるような雨ではなかったので、おとなしく課題に再び集中することにした。


課題が終わったところで閉館10分前。まもなくの閉館を告げるクラッシクの静かな曲と、録音の館内アナウンスが流れてきた。4階の閲覧室からエレベーターで1階に下り、エントランスで自動ドア越しに外の雨の強さを確認した。さすがにこの雨の中を雨具なしの自転車で家に帰るのは無理だとぼんやりと考えていた。館内にいた学生や一般の利用者たちが、ぽつぽつと携帯用の傘をさして外へ出ていく。駐車場に止めてある車に乗り込む人や、そのまま歩いて駅の方へ向かう人、近くのコンビニに入る人。このエントランスも施錠されるので、とりあえず自動ドアをくぐり、入口の屋根のところへ出てしばらくここで雨宿りしようと考えていた。

「小田くん」

ふっと、後ろから声をかけられた。女の人の声だ。この間、久木田に背後から声をかけられた時の嫌な思いが残っていたので、女の人の声にもかかわらず、僕は身構えた。そして、少しゆっくりした動きで後ろを振り返った。

立っていたのは、日向さんだった。

ワイシャツのような白いブラウスに青いジーンズを穿いて、足元は薄い水色のスニーカーを履き、微笑んで立っていた。

僕は、これが日常の風景なのか、それとも、非日常の風景なのか、一瞬、どちらでもいいと思ってしばらく日向さんの姿に見とれていた。




その14


「小田くんも図書館で勉強してたの?」

こちらから何か言おうと考えている間に、日向さんの方から更に声をかけられた。

「うん」

たった一言答えて、また言葉が出てこない。

「すごい土砂降りだね」

「うん、自転車で来たから帰れなくて」

ようやく、複数の単語を並べて答えることができた。

「わたしも自転車で来たから。どうしようかなって」

2人で同時に土砂降りの雨に視線を向け、空を見上げた。

僕は、何だかこうして2人で並んで立っているのが不思議で仕方なかった。とにかく何か喋らないといけないと思うけれども、どうにも言葉が出てこない。頭をフル回転させて考えるが、気が利いた言葉が出ない。

「小田くんはどうする?雨が止むまで待つ?」

本当はこんな天気の話なんかをするより、もっと日向さんと話したいことがいっぱいあるのにともどかしくなる。以前、サイン会で旭屋で会って以来、学校で会釈は交わしていたけれども、話をすることは、授業や何かで用事があるときの二言三言ぐらいしかなかった。

「うん、仕方ないから雨が弱まるまで待つつもり。」

「わたしも。それまでここで話してようか。」

僕は、雨がしばらく収まらなければいいと思った。こんな機会がこの先訪れるかどうか分からない。僕は、気合を入れて、自分の方から話題を振ることにした。

「日向さんは、何の勉強をしてたの?」

「英語の課題。でも、お昼過ぎに終わらせてから、ずっと本を読んでたよ」

「何の本?」

ここまでは順調に会話が続いている。

「小説だけど、軽い感じの本だよ。」

「前、サイン会で、「猫もけ」にサイン貰ってたよね」

僕は、日向さんがその時のことをどの程度意識して覚えているのかは微妙だと思ったが、話を何とか膨らませようと自分なりに精一杯のことを言ったつもりだ。

「うん、わたし、猫もけがすごく好きで。本当は犬ちりを買ってサインして貰えばいいのかもしれないけれど、文庫本よりもお金がかかるから」




その15


「僕もこの間、日野(太一)から猫もけを借りて読んだよ。」

「あっ、初めて読んだんだ。小田くんは村松さんのファンっていう訳でもなかったの?」

僕は村松 悠作のファンでないことを後悔したが、こうしてにわか仕込みながらも日向さんとの接点をもつきっかけを与えてくれた太一に心の中で感謝した。

「うん、この間、日野に誘われてよく知らないまま旭屋に行ったんだ。でも、猫もけは面白かったよ。僕、猫が好きだから。」

日向さんは僕がそう言うのを聞いてにこっと微笑んだ。僕はその顔を見て自分もつられて微笑んでいた。しかし、不自然な笑顔でないかと慌てて表情を元に戻した。

もう一度日向さんの姿をよく見てみる。元々ショートカットだった髪だが、昨日学校で見たよりも、もう少し短くなっているようだ。髪を切ったんだな、と思った。少し浅黒い肌が、余計に滑らかに見える。雨空で日の光は弱いながらも日向さんの横顔を逆光が照らし、顔の肌のうぶ毛がきらきら光って見えて、少し緊張した。

ほんの5秒ほど、沈黙があった。

さあっと空が晴れてきて、急に雨が止んだ。途端に空気が温かさを増してきた。

日向さんは、空を見上げて、言った。

「晴れてきたね、今のうちに帰ろう?」

僕は、突然にこの時間が終わることを知り、とても惜しくなった。この間、久木田に頭をはたかれた後の、自分ごときが女の子を好きになっていいのかどうかというもやもやした気持ちも、今、この瞬間には本当に些細なくだらないことのように思えた。今、この瞬間に、本当に必要な、大事なことをなすべきだと僕は思った。

「日向さん」

「はい?」

僕はもうあとはほとんど自動的に口を動かしていた。

「日向さんのことが、前からすごく気になってたんだ」

僕がそう言うと、日向さんは動きが完全に停まってしまった。

僕は、話を続けるかどうか、迷ったが、反射的に判断して、続けた。

「日向さんが、好きだ」

日向さんはまだ停まったままだった。とてもとても長い時間に感じられた。ものすごい緊張感が持続していた。できればこのまま目をつぶってしまいたかったが、なんとか開いたままでじっと次の動きを待っていた。

日向さんは、それから更に長い時間、じっとしたままいた。頭の中で僕のさっき聞いた図書館の閉館のクラシックが二回鳴り終わるまで待った後、日向さんはうつむいて、小さな声で言った。

「ごめんね、少し、時間をください」

日向さんはそう言ってから、今度は、晴れてるうちに帰ろ、と小さな声で言った。僕はそのまま何も喋らずに一緒に駐輪場に向かった。



その16


駐輪場まで日向さんと歩いた距離の記憶がはっきりしない。多分、何か挨拶は交わしたと思うし、日向さんの表情もちらっと確認しようとしていたはずなのだけれども。

家まで自転車をこいでいる途中で、少し雨が降ってきた。髪の毛が湿っぽくなった程度でずぶ濡れになった訳ではないが、気持ちはとても沈み込んだ。

僕は夕ご飯を食べ終わって、ベランダに置いてある折りたたみ椅子に腰かけ、ぼんやりと月を見上げていた。夕方の土砂降りの後、急速に雲が流れて行ってしまったようで、まだまばらに残っている雲の隙間から、半月の月が光っている。僕は、嫌なことがあった日には、月を見上げる。その日あったのがちょっと嫌なことであれば、月を見ている内に自分の表情が普段の表情に徐々に戻っていくのが、鏡を見なくても分かる。

ものすごく嫌な、悲しいことがあった日には月を見ていると、目がじわっとして、涙が浮かんでくる。そして、その目のままで明るさは高照度のそのままだが、滲んだ月を見るのが好きだ。

今日の夕方の出来事は、決して嫌なことではない。むしろ、今まで満足に会話もなかった日向さんと話し、日向さんの横顔を見、日向さんに思わず自分の思いを打ち明けたことは自分という人間の枠を超えた快挙とも言えることだったと思っている。つまり、僕は、今日の出来事が嫌なのではなく、これからどんなことが起こるのだろうとビビり続けていることが嫌なのだ。



その17


次の日の日曜日はあっという間に過ぎていく一日だった。朝から昼まで、自室の机の前でぼーっとたたずんでいた。好きなバンドの曲で、日曜日には何をしようかと算段をしている内に結局何もせずに暮れてしまったというものがあるが、本当にそんな状態だった。さすがに翌日の授業の準備もあるので、昼からはぱらぱらと教科書を開いて予習を少しした。ああ、このままもう月曜日になってしまうんだな、と、もの悲しくなり始めたのは夕方のごはん前の時間帯だった。そのまま晩御飯を食べたらもう、後は月曜日を待つだけだ。日向さんにはどんな顔をすればいいのか。それだけでなく、また月曜から現実に戻るのが辛くもあった。

晩御飯の後片付けを手伝っているとき、固定電話が鳴った。僕が洗った食器をふきんで拭いて、食器棚に仕舞っていたお母さんが、作業を中断して電話を取った。はい、小田です・・・いつもありがとうございます、今代わりますね、という受け答えの後、お母さんは僕にコードレスの子機を渡した。

「同じクラスの、日向さんていう子から電話」

お母さんは、ちょっと不審な顔をして子機を受け取った僕のその後の会話を確認しようとしている。

電話口で待っているであろう日向さんが何を僕に言おうと電話してきたのか?

僕は日向さんと、目の前のお母さんに対して、どのような反応をすればよいのか、判断しかねていた。

考えがまとまらないまま、「もしもし」と僕は日向さんに話しかけた。



その18


「こんばんは」

日向さんは、小さな声で僕に挨拶を言った。

「こんばんは・・・」 僕も同じ言葉で答える。

「昨日はごめんね、なんか、急いで帰って・・・」

本当は日向さんが謝るのではなく、僕が謝るべきなのだが、まさか、日向さんが電話をかけてくれると思っていなかったので、動揺してしまっており、なんとなくそのまま会話を続けてしまった。日向さんは更に続ける。



その19


「あの・・・小田くん、晩ごはんはもう食べた?」

予想しなかった質問なので、却って考える間もなく、反射で答えてしまう。

「うん、さっき食べ終わったところ」

お母さんは、完全に作業の手を止めて、僕の背後で電話のやりとりを聞き漏らすまいとしている気配が伝わってくる。僕は、段々と声が小さくなっていく。そんな僕の電話口の様子を日向さんは知る由もないだろうが、更に予想もしない質問が続く。

「じゃあ、もし、時間があればなんだけれど・・・わたしの家の近くで少し話したいんだけれど、どうかな・・・?」

「え・・・今から?」

「呼び出すなんて失礼だとは思うけど、できれば話したくて・・・雨は多分降ってこないと思うけれど・・・」

僕の背後に立つお母さんの顔が険しくなっているだろうと僕は感じ、どうしようかと迷い始める。けれど、今行かなかったら後悔するだろうなと強く感じたので、

「うん、行く・・・・場所はどの辺なの?」 僕は普通の声で答えた。

僕たちのクラスの連絡網の表には個人情報の関係もあるのだろうが、電話番号しか記載されておらず、日向さんの家の住所を僕は知らない。ちなみに、連絡網の表に携帯電話でなく固定電話の番号が記載されているのは、僕と日向さんの他は2~3人くらいしかいない。 僕も日向さんも携帯電話を持っていない希少種だ。

「駅の北口の親水公園の駐車場の場所、分かる?」

「うん、電車通りから公園に向かって左に曲がって行ったところだよね」

「その駐車場の向かい側に、小さな児童公園がまた別にあって。わたしの家はその児童公園の斜め向かいのところ」

「うん」

「その児童公園のところで、わたし待ってるから・・・・」

「うん、じゃあ、今から自転車で行くよ。多分10分か15分くらいで行けると思う」

「うん、じゃあ、待ってるね」

僕は、電話を切ると、お母さんに頼んだ。

「ちょっと、出かけてきたいんだけど」

お母さんは明らかに警戒した顔をしている。僕のところに電話をかけてくる女の子なんて、今までいなかったので。

「もう、夜だよ。それに、今の電話の女の子に会いに行くんでしょ?私はあまりそういうのは好きじゃないよ」

お母さんの反応で普通だと思う。僕は日向さんが電話をかけてくれた時点でとても意外な感じがしたし、その上、理由はともかく、僕に「来てくれ」と言ったのだ。なんで明日学校で会った時ではなく、今でなくてはならないのかも、はっきり言って分からない。ただ、日向さんにしてみれば、僕が昨日の夕方、日向さんのことが好きだと言ったことの方が、意外で、それに対してどう反応・行動すればよいか、とことん悩んだことだろう。その上で、日向さんは、今、来て欲しいと言ったのだから、僕がその通りにすることは、むしろ礼儀だろう。僕はお母さんに、もう一度頼んだ。

「今の子はすごく真面目で、僕が頼み事をしてたのを気にして電話してくれたんだよ。僕の方からその子に迷惑をかけたことだから、こちらから出向くのが礼儀だと思うから。」

「・・・話し終わったら、すぐに帰ってくるんだよ」

お母さんは、僕が、‘話をしに行く’ことを、電話の内容から聞き取っていたようだ。玄関に向かい、外に停めてある自転車を僕はこぎだした。立ちこぎで、300m程一気にこぎ、それからサドルに腰を下ろしてからそのままのスピードで駅の北口へ向かうガード下を潜り抜けた。本当は日向さんのところに着くまでに色々考えたかったのだけれど、10分かからずに行ってしまいそうだ。日向さんの家が意外と自分の家から近いことも何だか少し嬉しい感じはする。

親水公園の交差点を左に曲がって少し走ると駐車場が見え、確かにその向かいに、大きな親水公園とは別の、小さな児童公園があった。ブランコやシーソーや小さなベンチがあるその小さな公園の電灯の下に日向さんが立っているのが見えた。僕は、日向さんの近くまで行き、少し手前のところで自転車を下りてそのまま押して歩いた。日向さんの表情は、電灯から離れたところからはよく分からない。本当に日向さんの至近距離まで歩いたところで、初めて日向さんが、恥ずかしそうにほほ笑んでいることが分かった。日向さんは、僕に声をかけてきた。

「ごめんね、来てもらって」

僕は、こんばんは、とできるだけ普通の声で挨拶した後、自転車のハンドルを持って押してきたそのままの状態で、日向さんの次の言葉を待っていた。

「そこのベンチ、乾いてるから、座って話してもいい?」

地面は昨日の土砂降りと梅雨の湿度のせいか、湿り気を帯びてところどころ小さな水たまりもあった。だが、ベンチの板は乾いてしまっている。ベンチの横にはやはり電灯が立っており、その電灯の灯りが、ベンチだけを照らしているような感じだった。日向さんはベンチに向かって歩き出した。僕も自転車を押してベンチの方に行き、ベンチの横で自転車のスタンドを下ろしてそこに停めた。日向さんと僕はベンチに並んで座った。




その20


僕は、日向さんの言葉を待った。こちらから話しかけるのは正直ためらわれた。

日向さんは、しばらくうつむいたまま言葉を選んでいる真っ最中のように見える。 僕は、時間がかかっても、日向さんの思考を妨げないようにとしばらく黙っていた。けれども、そんな僕の考えとはまったく違う様子で日向さんは顔を少しまっすぐ前に向けて割と明るい感じで話し始めた。

「小田くん、昨日はごめんね。わたし、なんだかよく分からないまま帰ってしまって」

日向さんは自分の手の指をちらちら見つめるようなしぐさで、少し、目が笑みを浮かべているような感じで、なんだか僕はとても不思議な感じがした。

「わたし、あの後、家に帰ってから、お母さんに相談したんだ」

僕は驚いた。まさか、家族に相談しているなんて。それにしても、僕が言った言葉をどの程度の精度でお母さんに話したのかは分からないが、なんだか段々と恥ずかしく、気が重くなってきた。

「そしたらね、あなたは学生なんだから、好きとか嫌いとかいうのは、もう少し先の話にしなさい、って言われてね」

僕は黙って、日向さんの言葉をひと言ひと言聞いていた。少なくとも、全校集会で校長先生が話すのを聞く時よりも真剣に、聞き漏らさないようにしていた。日向さんは前を向いたまま、僕に顔を少しだけ向けて話し続けた。

「でも、男の人と話をして、お互いに理解し合うことも必要だってお母さんが言ってくれた」

僕は、日向さんが言っている言葉の意味がよく分からなくて、頭の中でその言葉を繰り返しながら続けて聞いた。

「だから、家の近くまで来てもらって、話をしたいな、と思って」




その21


日向さんの顔は、決して深刻ではない。むしろ、楽しんで話しているように見える。僕は、昨日、自分が日向さんに取った態度、日向さんに話した言葉をとても深刻に、やってはならない恥ずかしいことをしたように後悔もしていたのだが、何だか日向さんの様子を見ていると、少し拍子抜けする。

日向さんが話す間、僕はひと言も喋らず、日向さんが一方的に話す形になる。日向さんの独白、といった趣を感じる。

「わたし、その・・・小田くんがわたしに言ってくれたことは、多分、'彼'と'彼女'というか、恋人というか、そんな感じのことを言ってると思ったけど、違う?」

僕は、ようやくひと言声を出す。

「・・・・違わない」

日向さんは、やはり、少し明るい感じで僕に顔をもう少し向けて話し続けた。

「あの、・・・小田くんが思っているような、‘彼女’みたいな感じには、わたしはなれない」

「うん・・・・」

「でも、なんていうか、友達とか、そういうのとも違って・・・・」

「?」

僕はだんだん焦ってきた。昨日、何も言わずに、世間話だけしていれば、もしかしたら今までのように、会釈を返してくれる関係でいられたかもしれないのに、それをも僕は手放してしまったのだろうか。

「‘彼女’とか、友達とかいうのと違う感じは、駄目?」

僕はやっぱり日向さんの言っている意味がよく分からずに、ついつい、言葉を発してしまった。

「どういう‘感じ’のこと?」

日向さんは、もっとはっきりした笑顔で僕にくるっと顔を向けた。

「たとえば、下の名前で呼ぶとか・・・・・」

下の名前で呼び合うというのはどういう関係なのだろうか。でも、彼・彼女ではなく、下の名前で呼び合うという日向さんの感覚は、なんとなく伝わってきた。

「それは、なんていうか、真面目なクラスメート同士の間柄、とか、そういうこと?」

日向さんは、にこにこしている。

「わたし、小田くんと色々な話がしたいし、男の人の目から、わたしに色んなアドバイスとかをして貰えたらな、とかそんな感じ・・・・どうかな?」

どうかな、と言われても、僕には答えることもできない。ただ、日向さんの笑顔を見ていると、重たい気持ちは徐々に取り除かれていく。

「小田くんが思っていたような関係じゃないかもしれないけど、その代わり、‘特別な間柄’だとお互い分かるように、下の名前で呼ぶとどうかな、と思ったんだけれど、いい?」

僕は、うん、とうなずいた。

「日野くんは小田くんを‘かおるちゃん’て呼んでるけど、わたしはちょっと恥ずかしいから、‘かおるくん’って呼んでもいい?」

僕は、うん、いいよ、と返事した。僕は、すごく、胸がくすぐったい感じになり、自分の表情が和らいだのが分かった。

「じゃあ、わたしのことは、どう呼んでくれる?」

僕は、少し、考えた。‘さつきさん’ではなんだか文語調だし、‘さつき’というのはあまりにも無礼な感じがした。

「・・・・じゃあ‘さつきちゃん’って呼んでもいい?」

日向さんは、更ににこにこした顔になり、うん、いいよ、と僕とまったく同じ返事をした。

今から日向さんは、さつきちゃんだ。



その22


「かおるくん、わたしのおばあちゃんとお母さんに挨拶していって貰っても、いい?」

「え?」

さつきちゃんは、いたって真面目に僕に言っているようだ。でも、僕は躊躇した。

「でも、おばあちゃんとお母さんは、僕が来てること知らないんじゃ・・・・」

さつきちゃんは、にこにこして僕にこう言った。

「家の前の公園に来てもらいなさい、って言ったのは、お母さんなんだよ。家の目と鼻の先なら安心だからって。だから、話し終わったら、声をかけるように言われてて」

僕は、やたらと緊張してきた。僕がさつきちゃんに好きだと言ったことも知られているだろうし、呼び出されてこうやってのこのことやってきたのも知っているということだ。

さつきちゃんは、僕の返事も聞かないうちに、児童公園の向かい側にある、手入れの行き届いた清潔そうな家に向かって歩いていく。僕は慌ててついて行った。

さつきちゃんは、その家のドアを開けると、ただいま、と言った。その声を聞いて、家の奥から、さつきちゃんのお母さんと、そのまた後ろから、おばあちゃんが玄関に出てきた。 お母さんは、高校生の親とは思えないほど若く見える、さつきちゃんによく似た、かわいらしいお母さんだった。おばあちゃんは、顔が似ている訳ではないのだが、やはりかわいらしい雰囲気は、さつきちゃんのおばあちゃんなんだな、と感じた。

「こんばんは」僕は、思わずそれだけしか言えなかった。自分の名前も素性も何も言えず、ひと言こんばんはと言ったきり、黙ってしまった。僕の代わりに、さつきちゃんが続ける。

「同じクラスの小田くん。かおるくん、わたしのおばあちゃんとお母さん」

いきなりおばあちゃんとお母さんの前で、'かおるくん'と呼ばれ、とても恥ずかしかった。僕はもう一度、何の芸もなく、こんばんは、と頭を下げた。



その23


さつきちゃんのおばあちゃんとお母さんは、さつきちゃんと同じような笑顔で僕を見ている。お母さんが僕に丁寧に挨拶してくれた。

「小田さん、さつきがいつもお世話になっています。今日は、さつきのために、わざわざありがとうございます。」

僕は、え、いや、こちらこそありがとうございます、としどろもどろに返した。

それから少し、僕のことを質問したり、家族のこととか、何やかやと話した。多分、クラスメートという、娘と近い立場にいる僕のことを知っておいた方が、色々と安全だと思っているのだろう。僕は、兄が家から離れて大学に通っていることや、父がサラリーマンであること、母が専業主婦であること、祖母は自分をかわいがってくれたが、3年前に亡くなったこと、などをぽつぽつと話した。




その24


おばあちゃんは僕を見て、にこにこしている。その笑顔はさつきちゃんに似ているのかな、と思った。

僕は、もう遅いので、そろそろ失礼します、と言って、玄関から出ようとした。さつきちゃんが、

「そこまで見送るね」と、出てきてくれた。

僕は自転車を押しながら、2人で少し歩いた。僕は、なんだかとても不思議に思う。さっきまでの日向さんが今はさつきちゃんで、僕はかおるくんになった。さつきちゃんは僕に、恋人にはなれないとはっきり言ったが、でも、考えてみれば、学生の身分で好きとか嫌いとか、そちらの方が変な話なのかもしれない。恋人や彼・彼女でない代わりに、僕たちは「かおるくん」であり「さつきちゃん」なのだという自覚が持てる。なんだか誰彼構わず僕たちの関係を触れ回りたいような気分になる。

さつきちゃんの家を出て最初の曲がり角で僕は、

「ありがとう、もうここでいいよ」

と別れを告げる。さつきちゃんはにこっとして、「かおるくん」、ともう一度僕の名前を呼んでくれた

「かおるくん、じゃあまた明日、学校で。おやすみなさい」

僕も、‘おやすみなさい’、と言って、自転車にまたがり、一度さつきちゃんの方を振り返ってから、力を込めてペダルをこぎ、3秒で相当のスピードに加速した。僕は帰りの道のりを、ほとんど手放し運転した。夜の風が気持ちよかった。梅雨の、湿っぽさと冷たさを含んだ風だが、今の僕の高揚した気持ちをすきっとさせるには非常に適度な空気だった。僕は、さつきちゃんとこういった感じになれたことをとても感謝している。自分も人を好きになっていいのだ、と素直に感じる。好きとか嫌いとかという男女間の感情ではなく、もっと、純粋にさつきちゃんが好きだ。さつきちゃんという人間が好きだ。さつきちゃんのおばあちゃんもお母さんもひっくるめて好きだ。この自分の感情が何なのかは分からない。‘恋愛’という狭い範囲のものでは少なくともない。友情というのもなんだか違う。さつきちゃんの言う、‘特別な関係’としか言いようがない。僕がふっと空を見上げると、ビルの斜め上に、月が見えた。おやすみなさい、と誰に声をかけるのか分からないが、自分は声をかけると、一瞬、目から涙がこぼれ落ちそうになった。自分も人並みのことをしていいんだな、ととても素朴なことを感じた。


次の日の朝、いつものコースで木造の家のおばあちゃんの笑顔を見、神社でお参りして高校にたどり着いた。

教室に入り、自分の席に着くと、太一が声をかけてきた。

「かおるちゃん、おはよう」

僕は、おはよう、といつもどおりの挨拶をしておいた。しばらくすると、教室の前の入口から、さつきちゃんが、クラスメートにおはよう、と言いながら、僕の斜め前の自分の席にやって来た。

さつきちゃんは、太一と僕の2人に向かって、一旦、会釈した。次の瞬間、意を決したように、僕に向かってもう一度挨拶した。

「かおるくん、おはよう。」

僕も意を決してさつきちゃんに言った。

「おはよう、さつきちゃん」

太一がさつきちゃんをちらっと見、僕の方をじっと見た。太一だけではなく、周りの席にいたこういうやりとりに鋭そうな何人かが、僕とさつきちゃんを見ていた。

太一は僕に、ゆっくりと語りかけてきた。

「かおるくん?、さつきちゃん?もしかして、何かあったの?」

僕は太一の問いかけには愛想笑いでその場をにごそうと思った。でも、僕とさつきちゃんが、そんな風に呼び合っていることをもっと知ってもらいたいと思った。







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