体育祭 Q ? A ?

 残暑がというよりも真夏。そんな天気の中で実施された体育祭をサボろうと中庭でぼんやり読書をしていたはずなのに、どうしてこんな面倒な事になったのだろうか。自販機でゼリー入りオレンジジュースを購入すると中原雪菜の隣に座った。


 こんなところをクラスメートに見つけられたら、それこそ本当に面倒になるのに随分お人よしだなと自嘲する。


「ごめんなさい、ありがとう。」

「別に。」


 こういう時はどうして泣いていたのかと尋ねるのが正解なのだろうが、首を突っ込んでややこしい事態になりたくなくて俺は沈黙を貫く。一番良いのは隣になんて座らずにこの場を去ってしまうという事なのだが、中原雪菜が彼女の一番仲が良い友人なので、後ろ髪引かれてしまった。


「飲む前に振れよ、それ。」

「ありがとう。これ優子ちゃんが好きでよく飲んでる。いくらだった?」

「別にいい。亮から貰っとく。」


 名前を聞いて赤い目に涙が溜まる。原因は亮かと少しほっとする。友人同士のいざこざで彼女が関わっていたらどういう気持ちで話を聞いてよいのか分からない。


 ああ、話を聞くつもりだったのか俺は、と大きく溜め息を吐いた。日陰のコンクリートの上は座った瞬間は冷たくて気持ちよかったが、もうすでに不快な生ぬるさになっている。左手で持った冷たい缶だけが心地よい。


 長い黒髪を緩く三つ編みに結んだ中原雪菜の首筋に汗が流れた。そういえば彼女の周りの女子は皆揃って三つ編みにしていたなと、どちらかというと似合っていなかった彼女の事を思い出した。


 無言で缶を振る二人というのは中々シュールで、何故普通の飲み物を買わなかったのかと自分にイラついた。彼女が好んで飲んでいるから、つい買ってしまうという気持ち悪さ。携帯電話を取り出して名前を新規メールから名前を探す。それから一旦メニューに戻り受信メールを開く。


 佐藤 優子

 体育祭がんばろうね!


 汗ばむ指が返信ボタンの上で止まったまま動かない。もう一度大きく息を吐くとぐいっとジュースを喉に押し込んだ。柑橘の甘さに粒粒のひんやりしたゼリーの感触が心地よいのにうんざりする。


「意外だな、中原ってあんな風に怒るんだな。」

「見られてたんだ、恥ずかしい……。」


 理由は分からないし聞こえたのはもう「亮君なんて知らない」という大声だけだったが、何となく想像はつく。


どうせ亮が下手な事をしたか、言って、中原雪菜を怒らせたに違いない。聞いてもいないのに四六時中いかに中原雪菜が可愛いかを惚気る亮のせいで、最早自分と中原雪菜は友人なのではないかという錯覚すす。


 黒目がちの丸い目を手の甲で擦ると中原雪菜はぽそっと呟いた。


「羨ましいな。」

「何が?」

「亮君、サトケン君や中山君と居る時ってキラキラしてるから。」


 自信家で子供っぽくてよくコウとわーわー騒いでいる亮が、キラキラしていると評する恋する女子のフィルターが理解できない。中原雪菜はどちらかというと自分に似ていると思う。


大人しくて、あまり騒いだりしないところ、好んで一人で読書をしていること。そんな客観的な部分もそうだが亮から聞いた、親しい人物には少し説教臭くて竹を割ったようにはっきりと意見する、そういうところもだ。


「俺たちじゃなくて、部活の奴となら分かるけど。」

「うーん、部活の人たちと居るときはちょっと違うかな。そっちも良いんだけどね。ギャップかな。」


 弱小サッカー部で熱血する暑苦しくも真っ直ぐな亮と、飄々として調子のよい教室での亮は随分対照的ではある。


「素っぽいからかな。」

「中原の前だと恰好つけてるからな、あいつ。まあ、仕方ないんじゃない。」


 うん、と小さく呟いて中原雪菜が缶に口をつけた。


「恰好つけてるんだ。」

「大分。」

「それ聞いたらちょっと自信つくかも。」

「四六時中、黙ってて欲しいくらい中原の話してる。」


 理由は見当もつかないが恐らくこれが正解のはずだ。何かがあって亮と喧嘩して、それはきっと亮が中原の気を引きたくて女子に絡んでたからなのだろう。


「コウが女子とつるみたがるから、まあ、それでそんななだけだから。」


 昨年の自分なら、一昨年の自分なら、そして入学前の自分ならこんな風にたいして親しくもない女子の相談なんて絶対に無視した。


中原雪菜が亮の彼女であるということと、彼女の友人だということを差し引いても面倒事に巻き込まれるのは御免だった。なのに、どうして立ち上がらずに、見捨てずにこんな話をしているのだろう。


「ありがとう。小さいことでくよくよしてたんだなあ。」

「別に。」

「そういえば、サトケン君って好きな人とか居るの?」


 急な問いかけに思わずゼリーを吹き出しそうになったが、堪えた。表情を変えないようにと意識してみるが上手く出来ているのか分からない。


「いてもいなくても言うかよ。」

「いないとは言わないんだね。」


 悪戯っぽく笑う中原雪菜はおとなしい女子という枠から外れてくる。意外な一面。下手に受け答えすると火傷するんじゃないだろうか。


「いない。」

「ウソ。」

「なら、いる。」


 適当に答えたつもりが、自身に跳ね返って突き刺さる。いる。好きな人がいる。


 それは禁断の果実のように甘い響きで、胸を焦らす。朝の準備体操からはりきっていた三つ編みの彼女の笑顔がチラつく。


「優子ちゃんさ、最近悩んでるみたいなんだけど知ってる?」


 唐突に話題が変わり面食らう。俺が一体どうして、どういう理由で彼女の事を知っているというのだろうか。


「ユウコって佐藤?三宅?」


 正解を分かっているのに、中原雪菜が仲の良い優子といったら彼女しかありえないというのに俺は興味がない風に尋ねた。


「三宅さんも優子だね。優子ちゃん、こないだ目が腫れてた日があって気になってて。サトケン君、教室から慌てて出てきたでしょ。」


 皮肉っぽい色を込めて中原雪菜が微笑んだ。


「そんな事あったっけ?」

「うん。」


 短いけれど力強い返答に気圧される。夕暮れ時の、椋鳥の騒がしい高積雲の空を背景にした彼女の事を思い浮かべ、やめた。


二人して黙り込んでジュースを飲んだ。冷たく気持ちの良かったオレンジジュースが不愉快な温度に変わっていく。


 校内放送で午前最後のクラス対抗リレーの案内が伝えられる。このままだと学食を利用する同級生の好奇の目に晒されてしまう。俺は立ち上がろうとアスファルトから腰を浮かせた。


「私ね、サトケン君なら…。」

「雪菜いた!」


 息を切らして叫んだのは額に大粒の汗を滲ませた彼女だった。思わず浮かせた腰を下ろしていた。


「心配したよ。ごめんね。私達が気を遣えなくて。」


 彼女と視線がぶつかった。疑問符と何かの混ざった不思議な苦笑いを浮かべた後、彼女は友人に目を向けた。


「ごめんね、勝手にヤキモチ妬いて抜けてきただけなのに探しにきてくれてありがとう。」

「ううん。皆で気を付けるよ。でも雪菜、今帰ったら冷やかされるよ。亮君を皆で慰めてたら雪、菜のやきもちが嬉しいみたいで何か騒いでる。」


 困ったように眉を顰めた笑顔でそう告げると彼女は中原雪菜の隣に腰を下ろした。ポケットから取り出した兎の耳が飛び出しているタオルハンカチで額の汗をぬぐう。


上気して白い頬は桃色に染まっていた。完全に立ち上がるタイミングを失い、俺は目を逸らしてぼんやりと両手で握った空き缶を眺めた。


「ウソ、恥ずかしいよ。」


 ヤキモチに浮かれるのもいいけれど、とりあえず泣いている彼女を探しに来るべきではないだろうかと亮に突っ込みたくなる。


「これからクラス対抗リレーだけど、どうする?」

「私、謝りに行ってくる。応援もしたいから。最後だもん。」


 スッと立ち上がって中原雪菜が携帯電話と取り出し、離れながら耳に当てた。


いってきますといってらっしゃいの意味なのだろう、二人が手を振りあう。てっきり二人でここを去ると思っていたので予想外に二人になって動揺する。


 心臓がやけに煩い。アナウンスがもう一度流れたが耳に入ってこない。


「それ、雪菜も飲んでたね。」


 俺の持っている缶を指をさして彼女は小さく笑った。今日の最高気温は確か25度。体感温度はそれよりもある気がしてならない。


「飲む?」


 返事を待たずに俺は文庫本を持ち上げて自販機へ向かった。ジュースを買って、それからさりげなくこの場を去る。そういう手筈。小銭を入れようとした時、横から白い指が伸びてきた。ゴトンという音がして、白い腕が俺に向かって伸びてくる。


「はい、美味しいけど喉渇くよね。それ。」


 無邪気な笑顔で差し出された緑茶のペットボトルが俺のほっぺたに当たった。反応せずに瞬きを繰り返していると彼女が俺の手を取ってペットボトルを乗せた。


「ありがとう。雪菜の事。」


 ひんやりとする掌。またガタンという音がした。


「それから、ごちそうさま。」


 ゼリー入りオレンジジュースを両手で握りしめて彼女がくしゃりと笑った。


それにしても緩い三つ編みが彼女にあまり似合わない。それを差し引いても眩しく思える笑顔に気後れする。誰といてもこんな風なのだろうか。良く分からないもやもやとした気分が襲ってくる。


「別に。」


 口角を上げたまま、彼女がじっと俺を見つめる。少し色素の薄い透き通った瞳に馬鹿みたいに不機嫌そうな俺が映っている。不健康そうに白くひょろりとしたもやしみたいな俺が立っている。近寄るなと警告し喚く。


「それに買ってないから違くね?」

「そっか。賢輔君、体育祭がんばろうね。」

「ああ。」


 無理やり彼女に背を向けて俺は足を踏み出した。鉛のように重い両足は引きずっているように感じた。どうせこの後昼休憩なのだから教室に向かえば良いのに、どういう訳か中庭を横切り校庭へ向かっていた。そのくらい動揺しているという事なのだが、認めたくない。


 例えば中原雪菜といたのがコウだったら。他の男子だったら。女子だとしても何も変わりはしない。彼女にしたら特別な行動ではなく当たり前の振る舞い。俺でなくても同じ。


気怠い暑さに脳がおかしくなりそうだ。人目についていないといい。勘違いは御免だった。

 

 

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