箱庭世界の調停者

中島 庸介

プロローグ

プロローグ1

 少々狭いがゆったりと落ち着いた雰囲気の店内に、クラシックのBGMが流れていた。

 俺――副島そえじま 文弥ふみや――は手に取っていたグラスをテーブルに戻すと、今日の夕飯の献立を考えるべく携帯端末を取り出した。


 しかし、相変わらず此処のオレンジジュースは絶品だ。口の中に拡がる芳醇な香りと、舌に刺さる爽やかな酸味、そしてくどくならない程度に後味として残る甘味。数種のオレンジとわずかな水が、絶妙のバランスでブレンドされたそれは、喫茶店にも関わらずマスターお薦めの一品である。


 そんなことを考えつつも、俺の手は近隣店舗の商品が掲載されたページを次々に捲っていく。

 二十一世紀に入って二十八年目ともなるこの御時世では、全国展開のスーパーマーケットから複合商業施設の店舗、果ては町の片隅にひっそりと佇む個人経営店に至るまで、ありとあらゆる商品が検索、比較できてしまう。

 その結果値段、品質、サービスの内最低でもひとつは極め、競合他社との差別化を図れた店のみが生き残れる時代となった。

 保存の効かない生鮮食品の分野は特にその流れが顕著で、体力のない個人経営店は次々とその姿を消していった……はずなのだが。

 今俺が開いているのは、その最早絶滅危惧種とまでなった筈の、個人経営店である魚屋のページだ。しかもあろうことか、そこには『国内最安値!』、『世界最高の品揃え!』、『色良し味良し鮮度良し!!』等といった殺し文句が並んでいた……主にレビュー欄に。

 先程もいったが、比較が容易、どころか自動でされてしまうこの御時世、嘘をついてもすぐバレてしまう。事実をありのままに知らせることが、もっとも簡単で効果のあるリスクコントロールなのである。

 そんな訳で、『国内最安値』と書いてあるのなら、それはもう動かしようのない事実なのである。誰もがこの店で買い物をしようとするだろう。

 しかしそこは個人経営店の限界、扱える量にも配達できる範囲にも限りがある。と言いつつも、その範囲は日本の三分の一をカバーし、日々十万世帯の食卓を支えていると言うのだから恐れ入る。それでいて正規従業員が十人しか居ないのだから、世の中何かおかしい。不思議な力が働いているとしか思えない。個人経営店とは何だったのか?


 ともあれ、そんな魚屋『魚光』であるが、個人商店である以上店舗が存在しており、あまり知られていないが通販よりも直に買いに行った方がお得なのだ。

 ちなみに本日のタイムセールは十七時から。旬の秋刀魚が三尾一セットで、お値段がなんと驚きの百円である。これはもう買うしかない。逃したら絶対に後悔する自信がある。――まあ、逃すわけもないのだが。


 魚光のタイムセールは過酷なことで有名で、酷い時は受付開始から一秒で売り切れる。予告は二時間前に行われるのだが、午前四時に告知された時――ちなみに魚光の通販部門は二十四時間営業である――でも十分と持たなかったらしい。

 そんな食卓をかけた生存競争に何故俺が余裕でいられるかと言うと、魚光は直接訪れた客には、予告した時点からタイムセール品を売ってくれるからだ。ちなみに今は十五時三十七分なので、まだまだ余裕がある。


 そんな訳で、残り三分の一程となったオレンジジュースをちびちび舐めながら、秋刀魚の調理方法を考えてみる。取り敢えず塩焼きは外せないだろう。七輪はないが、この前夏休みにバーベキューをやった際の焼き台と、炭の残りがまだ家に置いてある。鮮度が良ければ刺身も良いな。まあ、魚光に限って鮮度が悪いなんて筈もないので、これも確定である。残る一尾は……蒲焼きか煮付けにでもするとしよう。良い酒の肴になりそうだ。

 秋刀魚の使い途も決まったので、俺は端末を鞄にしまい、席を立った。会計は注文した端末経由で自動決済されるので、伝票は存在しない。


「マスター、ごちそうさま」


 俺がカウンターの奥にそう声をかけると、妙に背が高くてがっしりとした男性が、厨房から姿を表した。出てきたのは勿論この喫茶店『時の旅人』のマスターだ。日本人ではないと思うのだが、しっかりとした体つきの割りに顔にはたっぷりと白髭を生やしており、年齢不詳、国籍不詳、さらには氏名不詳の三拍子揃った人物である。

 それだけ聞くと怪しい人にしか思えないが、人柄はしっかりとしており、苔むした大樹を思わせる寡黙で落ち着いた雰囲気、世界各地を旅した経験に裏打ちされた豊富な知識と広い視野、そして何よりも、圧倒的な料理の腕によって、近隣大学の学生を始めとした多くの固定客を有している。

 もう少しして夕飯時ともなれば、お腹を空かせた学生で店内は溢れかえることだろう。


「毎度、文弥はこれから魚光か?」

「ええ、十七時からタイムセールでして。今日の晩ごはんは秋刀魚です」

「秋刀魚か……夜の定食として出すのも良いな」

 ふむ、これは上手くすると晩ごはん代が浮くかもしれないな。

「良ければ俺が買ってきましょうか?」

「すまんな……定食一つでどうだ?」

 さすが、話が早くて助かる。

「それで構わないです。三尾一セットで百円ですけど、幾つ買ってきますか?」

「千円分買ってきてくれ」


 そう言うと、マスターは会計の端末を操作した。入金を確認した俺の端末が小さく音を鳴らす。


「了解しました。四十分程で戻ると思います。因みにどんなメニューにする御予定で?」

「そうだな……今からでは仕込みの時間も取れないだろうから、塩焼きか刺身……もしくは竜田揚げの三択だな。今日の和定食は、客に選ばせる形にするか」

 そう言えば竜田揚げもあったな。

「なら竜田揚げ一つ、予約でお願いします」

「ああ、そっちも頼むぞ」


 端末をポケットにしまい、俺は時の旅人を後にした。


 店から出ると、十月も半ばに差し掛かったとは思えない日射しが俺を照りつけた。日陰に入って時計を見ると、時刻は十五時五十分だった。此処から魚光までは歩いて十五分。さっさと用事を済ませる事としよう。



 大学へと続く大通りから脇道に入り、住宅街を暫く歩くと、立派な塀と純和風な門構えで囲われた広い敷地が見えてくる。伝え聞く所によると、かつては代々と続く由緒ある武家の御屋敷だったらしいが、数代前の風変わりな当主が学生相手の寮として改装したらしい。

 そしてその当主が学生に魚を、日本の食卓に魚を! と言って趣味で始めたのが魚光だそうな。で、何が言いたいかというと、この魚光、寮の敷地内にあるのである。敷地内は関係者以外立ち入り禁止と言うわけではないのだが、そもそも此処に魚光が在ると知っている人が少なく、また、知っていても警備員付きの重厚な門は生半可な気持ちで潜れるものではないだろう。実際に友人に連れられて初めて此処を訪れたときは、任侠な人達の屋敷かと思った程である。

 これらの理由から、魚光の利益のほとんどは通販によるものであり、店頭販売は寮生の自炊用と割りきっている節がある。

 ともあれ、魚光へ行くには門を潜った先に待ち構える、威圧感すら漂う立派な日本庭園をさらに五分ほど渡っていかなければならない。友人が言うには慣れれば散歩にも鍛練にも使える良い庭らしいが、慣れるまでに何度か遭難しかける庭なんぞ遠慮願いたい。噂では、迷って出られなくなった盗人の白骨遺体が転がっているとか。ソースは大学新聞における近隣七不思議特集である。


 そんな何が出てくるかわからない学生寮、『斑鳩寮』であるが、魚光までは案内の看板が用意されているので、俺でも行くことが出来る。

 最近ようやく顔を覚えることのできた警備員に挨拶をして門をくぐり、整然と並べられた石畳を歩いていく。

 暫く歩くと、左手に案内板と共に飛び石が見えてくる。石畳から見て正面と右側には寮を始めとした建築物が見てとれるが、左側は七不思議にも数えられる迷いの庭。見渡す限りに林と築山が広がっており、敷地の果てが見えない有り様である。

 そんな中を、ともすれば見失いかねない飛び石だけを便りに先へ先へと進んでいく。たった五分ほどの道のりの筈なのだが、見事な石灯籠や色とりどりの草花に目を奪われて気を抜くと、ぐねぐねと蛇行する飛び石のどちらから来たか忘れそうになってしまう。

 途中二回ほど迷いつつも歩き続けると、開けた空間へとたどり着いた。目の前には商店街の一角にでもありそうな魚屋が、そのまま切り取られたかのように鎮座していた。『魚光』と書かれた看板の下にある庇からは渡り廊下が延びており、右奥に見える建物に繋がっている。

 店頭で和服を着流した中年男性――魚光の店主にして斑鳩寮の大家である――が、今では珍しくなったデスクトップ型のパソコンに向き合っていた。おやっさんの姿を確認出来たことに安堵すると、用事を済ませるためにも店に向かって歩くことにした。


 一息つくところだったのか、おやっさんは腰に下げた煙管入れから取り出した煙管の雁首を垂らし、火をつけるところだった。


「こんにちは。休憩中のところお邪魔します」

「おういらっしゃい。タイムセールの品か?」

「そうなんですが、今日はマスターのお使いです」

「そうか、そいつはご苦労さん。いくつ買ってくかい?」

「千円分、十セットお願いします」

「あいよ、まいどあり。領収書はいるかい?」

「お願いします」


 そう言うとおやっさんは煙管を脇の煙草盆に置き、壁際のショーケースから発泡スチロール箱を二つ取り出した。


「こいつの中に十五匹ずつ入っておる。少々かさばるが台車は要るか?」

「これでもあいつに鍛えられてますからね。それくらいなら問題ないです」


 実際に重さを確かめつつ答える。うん、もう二つ三つ追加されても問題ないなく持てるだろう。まあ前が見えなくなるので却下だが。


「分かってはいると思うが、商品だし万が一があっちゃ困る。気をつけて運んでおくれ。領収書の宛名はいつもどおりでかまわんな?」


 おやっさんは領収書を引き出しから取り出しつつ問いかけてくる。これが魚光の端末での買い物であれば領収書など不要であるのだが。まあ立替であるので仕方がない。


「ええ、それでお願いします」


 端末を操作して代金を支払うと、今では珍しくなった手書きの領収書を受け取る。


「今日の晩飯はそっちでとる予定なのでな。俺のためにもしっかりと頼むぞ」

「言われるまでもありません。俺の晩御飯でもあるんです。傷めないように気をつけますとも」


 時計を見ると十六時十五分を過ぎていた。時間も押してきたので箱を持って礼をし、来た道を戻ることにした。


 門を潜るとむっとする熱気が顔にかかった。時刻は十六時二十分、いつものことであるが、帰るときは何故かすんなりと庭を抜けられるのである。

 ともあれ宣言した時間まで後十分しかない。荷物が増えていることを鑑みればあまり余裕はないので、さっさと帰ることにしよう。



 少々季節はずれな蝉の音をBGMに緩やかな坂を下る。時折脇を通る車体が照り返す西日に目を眇めつつ、しばらく歩くこと数分、ようやく店の裏の交差点に差し掛かった。


 左右を確認して、横断歩道の白線に足を掛けた……その瞬間、立ち眩みに似た不快な揺れと共に意識が飛んだ。気がつくと目の前に地面が迫っていた。咄嗟の判断で持っていた箱を向かいの歩道に投げ出す。投げ出した箱の行き先を目で追う間も無く、俺の体は道路に叩きつけられた。空いた手で顔は庇ったが、衝撃で肺の空気が吐き出させられ、痛みと同時に呼吸できない苦しみも味わうことになった。

 アスファルトの熱に頬を焼かれつつも、呼吸を急いで整える。いくら車の通りが少ないといってもこのまま寝ていたら通行の邪魔である。五年ほど前に全ての車へのセンサーの導入が決められてから、交通事故が殆ど無くなったとはいえ、いつまでもここにいたら警察を呼ばれてしまうだろう。

 先ほどからそんなことを考えてはいるのだが、何故か手足が動かない。不審に思っていると頬越しに地面がわずかに揺れていることに気がついた。無理やり首を曲げると、大型トラックがこちらに近づいていた。地面すれすれから見上げるトラックは、遠目にもかなりの威圧感を持っていた。

 轢かれる恐怖にパニックになりかけたが、運転手が気づくなりセンサーが感知して強制停止すると自分に言い聞かせ、運転手に事情を説明して救急車でも読んでもらおうかなどと考える。だが、どうにもトラックが止まる気配がない。

 頬を引きつらせつつも、居眠り運転でもしているのだろうとパニックになりかける自分に言い聞かせる。後で小言のひとつでもいってやる、そう愚痴りつつトラックの動向を見守る。

 静止物に対するセンサーによる強制ブレーキの作動距離は確か二〇メートルだった筈。もしそこで止まらないようなら、もうどうしようもない。先ほどから助けを求めようとしているのだが、手足だけでなく声も出ない有様である。

 距離の目測には昔から自身がある。五〇……四〇……三〇……二〇……

 嫌な予感はしていたが、二〇メートルを切ってもトラックが止まる気配はない。不思議と恐怖はなく、悲しみと申し訳なさで胸がいっぱいになった。

 目前に迫るトラックをぼんやりと見つめ、せめてもの抵抗にと衝撃に備えて歯を食いしばる。


 次の瞬間――俺の体は地面に開いた黒い穴に飲み込まれた。


「は?」


 重力を感じないため上下が良くわからないが、おそらくは上のほうに俺が飲み込まれたと思しき穴が見えた。

 それは急速に遠ざかっていくと共に縮んでいき、ついには消えてしまった。


「それはねーだろっ!!」


 肩透かしをくらった理不尽さ、謎の空間に閉じ込められた恐怖や疑問。諸々の感情を込めたおれの叫びは、無常にも響くことなく周りの闇に消えていった。

 薄れかけていく意識の中、最期に浮かんだのは自分用の秋刀魚を買い忘れたという、割とどうでもいいことだった。

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