異変

異変 1

『サキコ。もう会うことはないだろうけど……あなたとお話しできて、楽しかったわ』


 咲子さきこ――美世みよの祖母は今日、何度目かになる寝返りを打った。美世とは昨日からロクに口をきかないままだ。詳しい理由が知りたいと訴えてきたのは久々だったが、また突っぱねたことに腹を立てたのだろう。


「よいしょ……と」


 布団の上でゆっくりと起き上がる。あたりはまだ暗く、しんと静まり返っていた。近くに置いてあった上着を羽織り、何かあたたかいものでも飲もうかと部屋を出る。


『記すことや語ることというのは、この世界とあなたの縁を強くするわ。そして知る人が増えれば、運命がより複雑なものとなっていくの』


 咲子も十代の頃、不思議な夢に悩まされたことがある。日本によく似た、けれども微妙に違う場所の夢だった。

 そこでは、咲子は完全に異分子だった。誰かに声をかけても気づいてもらえず、あるいは恐怖の目で見られることも、訳がわからないまま追いかけ回されることもあった。目覚めれば夢だったのだとわかったが、普段見る夢よりも遥かに生々しく、実際にそこにいたかのような感触と、重い疲労感が残っていたのを覚えている。

 最初はただの悪夢だと気にしなかった。しかしその夢を繰り返し見るたびに咲子の心身は疲弊していき、次第に日常生活にまで支障をきたすようになっていった。夢なのか現実なのかも分からない世界でふらふらと力なくさまよっていた時、出会ったのがあの人だった。

  とても上品な人だった。その大人びた物腰から咲子よりも年上だと思っていたが、もしかしたら同年代だったのかもしれない。彼女は他の人とは違い、咲子へと親しげに話しかけてくれた。


『秘密を知っているの。他の人より、ほんの少しだけ』


 その人は唇の前で人差し指を立てて微笑んだ。その笑みは、まるで暗闇の中に生まれた光のようだった。結局最後まで彼女の名前を知ることはなかった。その方が良いからと、名前をたずねても教えてはくれなかったからだ。咲子だけ先に名乗ってしまったから、自分だけ名前を呼ばれるのは少し納得いかなかったけれど、不思議な友人との会話は純粋に楽しかった。

 悩みを打ち明けた咲子に色々と質問したあと、その人は言った。

 この夢の世界のことを誰にも語らないこと、神社にある離れで寝ること、異能力者には近づかないこと――それを守っていれば、三年後にはこの世界と縁が切れるだろうと。

 藁にもすがる思いで、咲子はそれを守った。すると、夢を見る回数は徐々に減っていき、本当に三年後にはぴたりと見なくなった。それ以降、今に至るまで、他の夢を見ることはあっても、あの世界へ行くことはなくなった。

 もう自分でも忘れかけるくらいの年月が経ったあと、まさか孫の口からその話を聞くことになるとは。よほど、あの世界との因縁が強かったのかもしれない。


 台所で葛湯を飲み、ほっと一息つく。しばらくおとなしかった美世がまた強情になったのは、あの若者たちのせいなのだろう。能力者ではないようだったが、用心に越したことはない。美世にはまた恨まれてしまったが、あと少しの辛抱だ。彼女らが本当に美世の友達になる存在ならば、そのあとでもきっと間に合うはずだ。たったひとりの可愛い孫に嫌われるのは、やはり堪えることだけれども。

 自分の体験を話せば、少しは変わるのかもしれない。けれども『話してはいけない』という言葉が、強く心を縛り付ける。あの人に会って教えを請いたかったが、それももうできないし、してはいけないと思った。関係のない能力者の力にも影響を受けるのに、同じ世界に渡れる力を持つ者同士が影響し合わないとはとても思えなかった。


 ふと、窓の外に見える美世の寝室へと目が向く。入り口に小さい明かりが灯る、あの離れの小屋がいつからあるのかは知らないが、咲子が寝室として使いたいと言い出すまでは物置になっていた。

 最初の頃は心配で、美世が寝るたびこっそり様子をうかがいに行っていたが、今は起きてきた時の表情であの夢を見ていないのは明らかだ。

 だが――今日は妙な胸騒ぎがした。


 勝手口に置いてあるサンダルを履き、表へと出る。冷たいはずの冬の空気は、離れの小屋へと近づくたびに何故か生あたたかく、湿り気を帯びていく。全身の皮膚が粟立つ感覚に咲子の足取りはどんどんと重くなり、まるで小屋が何キロも先にあるかのような錯覚におちいった。


「はぁ……はぁ……」


 いつの間にか荒い呼吸を繰り返している。ようやくたどり着いた小屋の前、あと扉まで数歩という距離で足がすくみ、動けなくなった。得体のしれない恐怖と、美世への心配がせめぎ合う。呼びかけてみようと思っても、喉がカラカラになって上手く声が出せない。

 何とかもう一歩――そうして近づくと、深夜の闇よりも濃い影のようなものが小屋の周囲からぶわりと伸び、咲子の頬を撫でた。


「ひぃっ!」


 声にならない声が漏れ、後ろへとよろける。とっさに地面へと突いた手と、打った腰に痛みが走った。黒い影は巨大な手のひらのように拡がり、咲子の視界を覆い尽くす――


「『不屈の雨傘アンフリンチング・アンブレラ』!」


 その時、声が聞こえた。――と同時に目の前へと金色の光が傘のように開く。それは得体のしれない闇を跳ね飛ばした。地面へと落ちた闇は何度か痙攣すると、空気に溶けるかのように姿を消す。

 恐る恐る周りに目を向けると、あの若者たちが立っていた。


「『ブロット』ですね。あたしたちがこの前会ったのより凶暴な感じがします!」

「とにかくマスターに連絡……って『コンダクター』繋がんねー! スマホも普通にダメだ! たぶんこいつらのせいだからまずは何とかしねーと」

「とりあえずこれ、どこ飛ばしたらいい? 連絡つかないってことは『アパート』に飛ばしちゃダメだよね?」


 普通の人間が、こんなところまで一瞬にして入ってこられるはずかない。ましてや不気味な闇へ平然と立ち向かい、退けるなど。

 そんなことを考える間にも、禍々しい存在はどこからともなく現れ、庭へとあふれていく。今までのことが脳裏に浮かんでは消え、そして腑に落ちていった。――中心に居るのは、明らかに美世だ。


「あなたたちのせいなのね……美世が……美世が……」


 湧いてきたのは怒りとは違う感情、『やはり』という諦めのような感覚だった。大切なものを守ろうと小さな手で必死に積み上げたものは、大きな流れというものにいとも容易くさらわれてしまう。


「ごめんなさい。――きっとわたしにだけは、話してはいけなかったのに」


 つぶやくようなその言葉に、思わず覆っていた手から顔を上げた。少女の表情はよく見えなかったが、彼女は、小屋の方を向いたままで力強く続ける。


「でも、わたしたちが必ず、ミヨを助けるから!」


 ◇


 暗い部屋に響く軽やかな音でマスターは目覚める。『コンダクター』だった。急いで通信をつなぐと、画面に憔悴した表情で映っているのはゼロだった。


『マスター! 予知が急に変わって――この案件はぼくが思ってたよりずっと、世界にとって重要だったんだ!』

「ゼロくん、まずは落ち着いて。順序立てて説明して欲しい。その方がこちらも素早く対処できる」


 努めて穏やかな声で言うと、ゼロははっとして何度もうなずく。それから大きく呼吸をし、再び話し始めた。


『作戦を実行に移すって連絡をもらってから、予知の修正が必要になるかもしれないと思ってチェックしてた。今まではなんともなかったんだけど、さっき急に大きな変化があって……修正力が働いたんだ。世界がこの作戦を拒絶しようとしてる』

「つまり?」


 食い気味に問いかけたのは、彼の言うことが理解できなかったからではない。確かめずにはいられなかったからだ。


『このままだと、「大干渉」が起こるのがずっと早まることになる。才にも連絡がつかないんだ。マスター、どうか助けてあげて……!』

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