第十二話 つないで、こわれて

「あのね、わたしが施設に入ったのは、四歳のときでね」落ち着きを取り戻したトウカが、ゆっくりと話し始める。「だからね、お母さんと暮らしていた頃を、なんとなく思い出せるし」


 今は相槌すら挟まないほうがいいと判断した有史は、何も言わずに視線だけをトウカに向けていた。


「……なんで捨てられたのかも、たぶんわかるんだ」


 机の上には、食べ終わったコロッケパンの袋が置いてあった。川に行った日の晩ご飯にしてからなんとなく気に入ってしまい、先程またコンビニで買ってきたものだ。

 トウカが落ち着くのを待つついでに半分ずつ食べ、自分が置きっぱなしにしていたその袋をじっと見つめながら、トウカは続ける。きっと彼女も相槌を必要としていないのだろう。


「三歳になって、いろんな言葉を覚えてからね。わたし、行ったことのない場所のことを話すことがあったみたいで。わたしは行ったことがあると思ってたの。だって、今でもはっきりと思い出せるんだよ。お父さんはわたしが生まれたときからいなかったらしいから、きっとお母さんと行った場所なのかなって。


 でも、どこの景色なのかお母さんにきいたら、知らないって。もしかしたらお母さんが忘れてるだけなのかなって、何回もきいてみたんだけどね。こんな場所だよって、ヘタだけど絵に描いてみせたりして。


 それでもね、知らないって言うの。テレビで見たんじゃないのって。わたし、違うよって言ったんだよ、だって暑かったからきっと夏だとか、風の音とか、ちゃんとわかるの。でもお母さん、それからわたしとあまり喋ってくれなくなっちゃって」


 ゆっくりと、しかし続けて話していたトウカは、そこで一旦息をついた。マグカップを机に置き、コロッケパンの袋を人差し指でいじりはじめる。


「……ある日、いまの施設に連れていかれて。そのときはよく分からなかったけど、たしか、けいざいてきにむずかしい、って話をしてたかな。

 たぶんほんとに、大変だったんだと思う。お父さんいなかったし、わたしはずっと保育園に預けられてて、お母さんはずっと働いていたから」


 ぐしゃりと音がして、見るとコロッケパンの袋はトウカの手の中で潰れていた。


「お母さん、お父さんがいなくて大変だったのに、お仕事で疲れてたのに、わたしが何回も変な話をするから、迷惑かけて」


 握りつぶされた袋と一緒にトウカの顔もくしゃりと歪められて、その瞳から再び大粒の涙が流れた。


「わたしが、いい子じゃなかったから……!」


 それ以上は聞いていられなかった。

 有史は部屋の隅にある畳んだ洗濯物の山からタオルと引っ張り出すと、トウカの顔にあてがう。視界の隅で、他の洗濯物が音もなく崩れた。

 トウカのこんな声は初めて聞いた。絞り出すような、叫びにも似た声。いつも見せる笑顔にこんな一面が隠れていたなんて、自分は思いもしなかったのだ。


 この様子だと、誰にも言ったことがなかったのだろう。先程迷惑をかけたなどと言ったのも、恐らくそんな負い目から出た言葉なのだ。

 施設育ちと聞いた時点で気付くべきだった。

 彼女もまた、母親というひとつの世界を失っているのだと。


 トウカが自分でタオルを押さえたのを確認して、自分はそこから手を離す。くしゃくしゃになったコロッケパンの袋が床に転がっていた。

 なんて声をかけようか数秒の間悩んだ有史は、先程までタオルを押さえていた手をトウカの頭に乗せる。


「……俺はトウカの母親じゃないから、なんで施設に預けたかは知らない。けど、もしかしたら、本当にどうしようもないくらい金銭面でこまっていたのかもしれないだろう」

「うん」

「あとな、ひとつだけは俺にもわかる。トウカは良い子だ」

「……うん」


 あとはもう、トウカの頭を優しく叩きながら、タオルの下から僅かに聞こえるすすり泣きが止むのを待つしかできなかった。

 聞こえるのが雨音だけになった頃、洗濯機が乾燥を終えたことを知らせる電子音が甲高く部屋に響いた。




 着替えたトウカを見送るまで、有史は彼女の話のなかで気付いたひとつの可能性について、問いただすことはしなかった。

 自分のなかでまだ情報が混乱してるということもあるし、今はトウカが落ち着くことが最優先だと考えたためでもあった。今の彼女は酷く不安定に見えたのだ。


 そして夜を迎え、有史はタバコを加えながらひとり、考えを巡らす。


 出会ったときから、どこか不思議な子だとは思っていた。

 その違和感は会うたびに増して、それでも心地よさがあったことも確かだった。

 歳相応な無邪気さから時折落ち着いた言動を覗かせる、不思議な女の子。


 似ているとは思っていた。顔も性格も違うというのに、なぜか似ていると。

 今でも、まさかとは思う。そんな非現実的なことがあり得るのだろうかと。


 決めつけるにはピースが足りなくて。

 否定するには揃いすぎている。

 自分の思考を離れることのない、ひとつの単語。それは。


 生まれ変わり。


 昔からよく物語のなかで語られ、宗教にも用いられ、けれども身の回りで実例を確認したことがある人は少ないだろう。見えるのに掴めない雲のような話だ。

 しかし生まれ変わりにも様々なものがある。ファンタジーの世界でよく見るのが、見た目以外ほぼ同一人物のようになるもの。または、見た目だけ同じになるというものだ。

 そして世界各地で確認されているらしい実例では、実際には体験していないはずのことを知っているというような、つまりは記憶の共有。


 今日のトウカの話を聞く限り、後者のように思える。他に実例があるということは、確かに生まれ変わりだと言える可能性はあるのだ。

 ただ彼女の場合、真澄の生まれ変わりであるとして、どの程度記憶の一致があるのか。

 現時点で分かるのは絵本と夕焼けの景色、それだけだ。記憶を共有しているというには違和感があった。

 他にはないのだろうか。


 もし生まれ変わりならば、出会った日に自分を選んだことに何か理由があるはず。そう考えて、あの日トウカが言った「叶えたいこと」について思考を巡らせる。

 叶えたいことがあると言って彼女がこれまで自分に要求してきたのは、川に行くこと。海に行くこと。水族館に行くこと。そして、デート。

 どう考えても、デートだけ理由がわからない。

 川や海、水族館は単にトウカが行きたかっただけだとしても、デートには水は関係ないのだ。

 誰かとデートをしてみたいという願望があったのなら、なぜ今でなくてはいけないのか。川に入って遊び、雨のなか飛び出すくらいだ。健康面に問題があって余命僅かなんてことは、まずないだろう。

 この先多くの出会いがあるだろう年齢で、相手がいて初めて成り立つデートを望んだ理由。

 誰かとのデートではなく、自分とのデートを望んだのだとしたら。


「俺だからか……?」


 それ以外は思いつかなかった。相手が有史であるからこそ、トウカはデートを望んだ。

 もし、もしそうだとしたなら。

 川や海など、色々な場所に行きたいと言ったのも。ただトウカが行ってみたい場所だったという理由だけではなく「有史と行くこと」に意味があったのだとしたら。


――大人になったら、一緒にいろんな場所へ行きたいね!


 幼い真澄の幻影が、有史の背後を走り抜ける。まだ確定はしていないというのに、答えを出されたような気がした。

 落ち着いて考えなければならない。そうであってほしいという、自分の欲で偏見を生んではいけないのだ。


 ただこの考えが正しいのだとしたら、トウカは記憶の共有だけでなく、感情や意識も共有しているというのだろうか。

 すべて仮定の範囲であるとはいえ、ここまでくるとトウカが真澄の生まれ変わりであること以外の可能性を考えるほうが難しかった。


 しかし、矛盾もある。記憶などを共有しているのなら、歳相応な一面が多すぎるような気もするのだ。気付いてほしくなくて演じていたのか、それとも。それを知る術はなかった。


 いつものように缶ビールを片手に、終わりのない思考を巡らせ続ける。

 やはり、何かが足りない。足りないものが何なのかすらも、わからなかった。

 残り少なくなったタバコを取り出して、火をつける。思考の合間に何本消費しただろうか。

 しばらく頭を休ませよう――そう思い、無心で煙をくゆらせた。


 部屋のどこを見るでもなく虚空に視線を彷徨わせ、ふと手元に視線を戻せば、タバコの先にある灰はいまにも落ちそうになっていた。

 腕を伸ばして、テーブルの上にある灰皿に灰を落とす。そのとき灰と共に小さな火種も落ちて、積み重なった吸殻のうちのひとつに燃え移った。

 二本分の煙は細く立ち昇り、やがて目の前で溶けあうように混ざる。


 それを何気なく見つめていた有史のなかで、まだ頭を休ませるなと、何かが告げた。


 考えろ。脳内をかき分けるようにヒントを探す。思考が急速に回転を始め、徐々にピースが合わさっていく。




 やがて有史は、ひとつの可能性に気付いた。

 この考えで合っているのかはわからない。これこそ非現実としか言いようがないからだ。

 しかし、これなら説明がつくのではないか。

 確かめるには直接聞くしかなさそうだが、彼女が自覚しているとは思えなかった。だが、聞けば「出てくる」のではないか、という期待もある。


「……無理か」溜息をついてタバコをもみ消した。これ以上、トウカの心に負担をかけるわけにはいかなかった。

 まだ幼いのだ。施設に行くことになった原因かもしれないことに関して追求して、もし彼女の心が壊れてしまったら。

 ここまで自分を引っ張ってきてくれた彼女に、そんな仕打ちなど――


「――なんだ……」


 有史はビールの中身を飲み干して、机に突っ伏した。自分に呆れすぎて、乾いた笑いがこみ上げる。

 可笑しくてたまらなかった。

 自分がここまで滑稽だとは思わなかった。

 たった、数日で。僅かながらとはいえ、こんなにも簡単に。自覚もせずに。


「救われて、いたんだな……」




 明日は公園で待ち合わせができるといい、雨は小降りになっただろうか。そんな疑問に、点けっぱなしのテレビから深夜ニュースのアナウンサーが明日は晴れだと答えた。

 どうしようか。晴れるなら、きっとトウカは今日のことなどなかったかのように公園に来るだろう。

 いつものベンチ、いつもの笑顔で、いつものように約束の五分前に。


 望むのならいくらでも叶えてやろうと、有史は思う。自分と共に行動することで、満足してくれるのなら。

 一度は捨てようとさえ思った命だ。それを預けたのだから。

 気が済むまで、一緒にいてあげよう。


 目覚ましをセットして、そのまま微睡のなかに意識を放り込む。これが鳴る頃までに、先程考えていたことを一度忘れてしまえばいい。

 そして、いつも通りに会いにいけたらいい。




 しかし翌朝、有史の意識を引きずり上げたのは目覚ましの音ではなく、玄関の呼び鈴だった。重い瞼を持ち上げて時計を見ると、朝の四時半。夏とはいえ、まだ外は明るくなっていない。

 呼び鈴は断続的に鳴らされ、有史は顔をしかめる。こんな時間に、一体誰なのだろうか。

 額に滲んだ寝汗を袖で拭って、眠気でふらつきながらも玄関へと向かい、ドアを開けた。


「はい、どちらさま……」


 それ以上声を出すことができなかった。眠気は、一瞬にして吹き飛んだ。


 そこに立っていたのはトウカだった。

 このアパートは公園から近い位置にある。昨日来たばかりなのだから、迷わずに来ることは容易だろう。

 しかし、理由が全くわからなかった。

 いつも通りの時間に公園で待ち合わせればいいのではないか。ここに来たかっただけだとしても、なぜこんな時間に。


 次々と浮かぶ疑問をなにひとつ口にできないまま立ち尽くしていると、俯いていたトウカが顔をあげた。その表情は呆然とした様子で、なにかかあったということだけは理解できた。


「ユウシさん、どうしよう……わたし」


――ひとを、ころしてしまったかもしれない。

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