第二章
第九話 からっぽの部屋で
「予想外だった?」
目の前のストロベリーパフェをつつきながら、トウカは上機嫌な笑顔をみせる。
「そうだな、予想外かもしれない」
淡々と答えた有史は、コーヒーを飲みながらその様子を眺めていた。
現在時刻、午後二時半。三時のおやつと言うには早めの時間帯ではあるが、トウカの「パフェ食べたいなー」というひとり言に、有史は快く了承した。なぜなら。
「……疲れた」
人生にとか、そんな大げさなことではなく。
単に休憩をしたかった。
本日、例のごとく五分前にいつもの公園に現れたトウカは、今までのカジュアルな服装ではなく、ピンク地に白の小花柄ワンピースを着ていた。小花柄と同じ白色の丸襟がよく映えている。それで自転車を漕ぐことができるのかという疑問は「ショートパンツ履いてるから大丈夫!」という本人の言葉で解決した。
「そうか。で、今日の行き先は?」
今までは前日のうちに行き先を聞いておくのだが、昨日の水族館のあと、トウカは明日教えるねと言って行き先を教えてくれなかった。ご丁寧にスカートをつまんでジーンズのショートパンツを見せるトウカに改めて行き先を訊ねると、彼女はよくぞ聞いてくれましたとばかりに目を輝かせる。
「今日はね、デートです!」
デート。
小学校一年生と、二十三歳が。
昨晩の昭利が帰り際に投げかけてきた言葉を、嫌でも思い出してしまう。真に受けるつもりはないが、冗談じゃない。
「俺を犯罪者にするつもりか」
「まさかー。仲良く歩くくらいなら、兄妹か従兄妹にしか見えないよ」
心底呆れて意見をしてみるものの、デートという言葉を撤回するつもりはないらしい。有史はげんなりしながらも、公園横の車に向かって歩き出した。
知人に見られて面倒なのはお互い様なので、隣県の街を選んだ。適当に見つけたコインパーキングに車を停めて、そこからはトウカに任せて歩き回る。道行く人々は皆暑いなか汗を流しながらせわしなく行き交い、そのなかに紛れ込んで歩く自分たちも、つられて歩調が早まってしまう。
有史とトウカでは歩幅が違う。はじめは先を行くトウカのあとを、元気だなと思いながら余裕のある足取りでついて行っていた有史であったが、それは最初だけだった。
雑貨屋を眺めたかと思えばクレープ屋で立ち止まり、物言いたげな視線に耐えかねて買ってあげたクレープを食べ終わったかと思えば今度は別の店へ。
昼休憩くらいは挟むだろうと思っていたのだが、色々と食べ歩きをしたことで腹が減ることはなく、そのおかげでゆっくり座る機会など巡ってはこなかった。
この喫茶店に入るまで。
「さすがにバテる。最近まで半月ほど、まともに動いてなかったんだぞ……」
「あはは、いい運動になったね!」
「……そーですね」
川や海では自分はほとんど座っていたし、水族館で歩いたのは午前中だけで、午後は座ってイルカショーを見ただけだった。ここまで長時間歩いたのは本当に久しぶりのことで、炎天下だったこともあって僅かに頭痛を覚える。汗を冷やす店内の冷房が、それに拍車をかけている気がする。
有史は気休めにコーヒーを口にするが、カップの中は既に冷めてしまっていた。
「あ。ユウシさんあのね、明日は施設のみんなで出かけるから、ユウシさんとのお出かけはお休みね。言うの忘れるとこだったー」
「そうか。じゃあ次は明後日だな」
「うん!」
「それ食ったら帰るぞ」
「はーい」
それじゃあ明日は何をしようかと考えを巡らせたところで、自分もあることを忘れていることを思い出した。ポケットを探って小さな紙袋を取り出し、それをトウカに差し出す。
「ほら」
「あれ? この袋、さっきの雑貨屋さんの……」
受け取ったトウカが袋を開ける。逆さまにすると、小さなキーホルダーがころんと小さな手のひらに転がり出た。
それは天使をモチーフにしたもので、顔の部分が円形、体の部分が円錐となっていて、そこに羽がついている。頭の上には天使の輪もついていた。透明なプラスチック素材に淡い着色がされていて、女の子が好みそうなデザインだ。
「これ……」
「あの店で熱心に眺めていただろう」
雑貨屋に寄った際、トウカがずっと眺めていたのがこのキーホルダーだった。財布の中身とにらめっこをした末に諦めていたところを、有史は目撃していた。他に見るものがなかったという理由ではあるが。
「で、でも! 欲しかったけど、施設の人にばれたら大変だよ」
「お年玉でもなんでも貯めて買いました、とか言えばいいだろ」
「でも」
言葉では渋りながらも、やはり子供なのだ。トウカの視線は先ほどから、手のひらの天使に釘付けだった。
この歳で物欲に勝つのは難しいだろうと、有史は頬杖をついて苦笑する。
「それに、今日はデートなんだろう」
この言葉に、トウカはようやくキーホルダーから目を離して顔をあげた。驚きに大きく開かれた目が、ゆっくりと喜びに輝いていく。
「……ありがとう!」
「どういたしまして」
「あのね、明日出かけるのはね、夏生まれの子たちの誕生日祝いでね。じつは、わたしもそうなんだ」
「へえ、いつ?」
「先月だよ、夏のはじめ。他の夏生まれの子は先週にひとりと、来週にひとり」
「そうか、おめでとう」
「えへへ、ありがとう」
どうやら、キーホルダーはいい誕生日プレゼントになったらしい。
さっそくそれを鞄につけるトウカの頬は、先程から緩んだままだ。余程嬉しかったのだろう。
「その天使モチーフって、学校とかで流行ってるのか?」
「ううん、わたしね、天使が好きなんだ」
「へぇ」
「よく読んでた大好きな絵本に、天使が出てくるのがあったの」
トウカはその内容を思い出すように、キーホルダーを見つめていた目を閉じる。指先で天使の頭をひと撫でして、それから手のひらで優しく包んだ。
「森のなかにある、綺麗な泉の天使さまのお話。なんて名前の絵本だったかは思い出せないんだけど……そこに迷い込んだ人が、心から願うことだけを叶えてくれるの」
それを聞いて、有史のコーヒーカップを持つ手が震えた。
――まさか。
目を閉じているトウカは有史の様子に気付かないようで、そのまま懐かしそうに、大事な思い出を紐解くようにゆっくりと続ける。
「疲れ切った旅人がそこに迷い込んでね、天使さまのおかげで旅を続けることができたんだよ」
「……それは」
「その絵本、確か施設で読んだ気がするんだけど……まだあるかなぁ。きれいで優しい天使さまが住んでる泉、すてきだよね! 本当にあったらいいのに」
眩暈がする。持っていたカップをソーサーに置くと、思ったよりも大きい音が響いた。しかしそれを気にする余裕もなく、有史は手のひらを額に当てる。
今年の夏は、よく眩暈がおきる。暑さにやられたという訳ではないことが、今となってよくわかった。
勘違いでなければ、自分はその絵本を知っている。だって、その絵本は。
「もし本当にあの泉があるなら、天使さまに会ってみたいな」
「その絵本は、俺も知ってる」
「ほんと? ユウシさんも知ってたんだ!」
「昔、読んだことがある」
同じ絵本を知っていることに喜んでいるトウカから視線を外した有史は、カップに再び口をつけながら窓の外をちらと見遣る。
相変わらず、暑そうな午後の日差しのなかを、大勢の人が行き交っていた。
なんということだろう。偶然と呼ぶには、あまりにも。
――有史、いつかいっしょに行けたらいいね!
脳裏をかすめた懐かしい声は、冷めたコーヒーの最後のひとくちを飲み下す音で、ふつりと消えた。
公園でトウカを見送ったあと、有史は近所のコンビニで大量の酒を購入した。
全身を支配する気持ち悪さをどうにかしたくて、アパートに帰ってすぐにその酒を飲む。
自分は、なにを浮かれていたんだろう。
真澄の夢を見なくなって、なぜ安心していた?
どんなにつらい夢だろうと、もう夢でしか会えないというのに。
昭利に話したことで、なにを救われた気になっている?
真澄のいない世界で楽しんでも仕方がないというのに。
明日トウカとの用事がなくなって、何をしようかと考えてしまった。
普通の生活をしようとしていた自分に、恐怖を覚える。気持ちが悪くて仕方がなかった。
視界がぐるぐると回る。猛烈な吐き気がこみ上げ、有史はトイレに駆け込んで吐いた。喉が焼けるような感覚に、何回か咳き込む。
覚束ない足取りでトイレから出ると、焦点の合わない視界にワンルームが映った。
約束を果たすために自立しようと借りた、ちっぽけな部屋だ。
かつては夢が詰まっていたはずのこの部屋は、今はからっぽだ。
それなのに、想いが、思い出ばかりが、浮かんでは消えていく。
もう、なにも分からなかった。
夢も、希望も、なにが正しいのかも。
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