第179話 ★2★ 4月6日日曜日、22時

 同日、二十二時。金剛こんごうの家。

 先週に越してきた新居での生活にようやく慣れてきた。

 寝起きはこのマンションで。学校に行って、そのあとは直接事務所へ。業務を終えてからここに戻るのが十九時過ぎ。身の回りの世話をしてくれているトパーズに用意してもらった夕食をいただき、支度をした彼は二十時にはここを出て行く。それから朝六時までは独りきりだ。風呂に入って眠って、朝を迎える。このサイクルならうまくやれるだろうと抜折羅ばさらは確信していた。

 明日は始業式だ。遅刻をするわけにはいかないので、さっさと眠ってしまおうと思った。制服も出してあるし、持ち物の準備も終えている。誰かからの連絡が来ていないかと思ってスマートフォンを手に取った。

 ――新着ゼロ件か。

 平和な証拠だ。恋人であるこうからの連絡は、抜折羅自身がそういうことを面倒がっているのをよく知っているので、もともとそんなにない。むしろ、連絡があるときは彼女の危機であることの方が多いので、新着になにも表示されないことで安心できる。

 枕元の充電器にスマートフォンをセットし、抜折羅はベッドに横になった。寝付きが良いので、すぐにやってきた睡魔を自然に受け入れる。

 ――何事もなく目覚めることができますように。



 抜折羅は滅多に夢を見ない。見ても悪夢ばかりだったのだが、この夜は違った。温かくて心地よい夢――。



 まだ続けば良いのにと感じていたところで、異変を察知した。息苦しい。

 何かに顔が埋もれて鼻を塞いだらしいと理解して、抜折羅は取り除くべく手を伸ばす。

 むにゅ。

 想像以上に柔らかい。どおりでこんなものに顔を埋めてしまったら息苦しくなるはずだ。

 ――しかし、これは何だ?

 部屋にこんな柔らかくて大きなものがあっただろうか。手のひらに余るし、丸くて温かい。

 むにゅむにゅ。

 ――ん? この感触……。

 思い当たるものが脳裏をよぎり、血の気が引いた。はっと目を開けて、頭をひく。枕元に置いたリモコンを掴むと明かりをつけた。

「紅っ!?」

 掛け布団の中に、もう一人いた。上体を起こすと、明るい色のミディアムロングの髪が揺れる。露出度の高いネグリジェから出る肌はほのかに赤く染まっている。立派な胸の谷間に視線が釘付けにされそうになり、慌てて視線を彼女の足元の方にずらした。

「おはよ、抜折羅……いきなり大胆なことしてくるから、声を殺すの、大変だったよ」

 紛れもなく、そこにいるのは火群ほむら紅本人らしい。

「ヒトの布団に入って何してるんだっ!?」

 いろいろと訊きたいことはたくさんあったが、最初に出た疑問はそれだった。

「誕生日の最初に恋人の顔を見られたら嬉しいだろうって言うから……」

 歯切れ悪く言うあたり、誰かの入れ知恵なのだろう。そして、誰に唆されたのかすぐわかった。こういうことをしてくるのは一人しかいない。白浪しらなみ遊輝ゆうきの仕業だ。

「で、その格好は?」

「プレゼント?」

「なんで疑問文なんだよ」

「だ、だって……」

 恥ずかしそうにもじもじしている様は愛らしい。

「……自分で選んだのか?」

 紅は首を横に振る。

「こういう格好なら、男のコは絶対に手を出すって言われて……ほら、抜折羅って触ってくれないじゃない。こういう日くらいは、その……」

「お前なぁ……」

 寂しい想いをさせているだろうとは思っていた。だが、こんなことをするほど思い詰めていたとは。

「ご、ごめん。迷惑だったよね。やりすぎだったね」

 しょんぼりする声が聞こえる。責めているつもりはなかったのに。

「紅?」

 抜折羅は紅にそっと近付く。頬に触れて、見つめ合う。うっすらと濡れた瞳が色っぽい。

「――本物がどうか、確かめさせてもらおうか」

 返事は待たずに唇を奪う。軽く触れるだけにするつもりが、気付けば舌を絡めていた。

 ――いけねぇ。理性が……。

 正気を取り戻して唇を離すと、彼女の息が乱れていることに気付く。

「抜折羅……」

「――本物、だな」

 夢ではない。こんな感触を味わっていたら、夢だったらとっくに覚めているはずだ。

 抜折羅は紅に背を向けた。

「どうせ白浪先輩が迎えに来るんだろ? 変なタイミングで入られたくないし、続きはまた今度だ」

「うふふ」

 嬉しそうな笑い声。そして柔らかな胸が抜折羅の肩にぶつかった。

「どうしたら抜折羅の理性を吹き飛ばせるのかしらね」

 ぎゅうぎゅうと押し付けられる大きな胸は、普通の男ならあっさり落とされるに違いない。何の修行かと思いながら、抜折羅は返す。

「お前、そういう悪戯は悪質だぞ」

「うん。そうだね。白浪先輩に感化されちゃったみたい。――あ。これは白浪先輩から抜折羅への誕生日プレゼントなんだからね! あたしからのプレゼントは、学校が終わったらちゃんと渡すから!」

 なるほど、と抜折羅は思う。昼に唐突にやってきた彼からいろいろ世話を焼かれたのだが、つまりこのための仕込みだったのだろうと理解した。

「別に良いのに」

「良くないっ! 思い出も大事だけど、記念も残さないとね!」

「……そうだな」

 自分の幸せを後回しにする癖がついていることに、彼女は気付かせてくれる。それはとてもありがたいことで、感謝してもしたりない。自分らしく自分のために生きることを思い出させてくれたのは、間違いなく彼女だ。

「なぁ、紅?」

「なぁに……っ!?」

 身体の向きを変えて、紅を下敷きにする。驚きで目を見開いている彼女を見ていると、少し意地悪をしたくなる。

「俺が理性をなくすとどうなるか、教えてやろうか?」

「え?」

 口付け。

「お前がエロすぎるのが悪い」

 少しくらい、関係を進めてみよう――抜折羅ははにかむ紅を見つめながら、行動に移す。


(あたし、プレゼントになります! 〜タリスマン*トーカー 短編~ 終わり)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る