第8章 面倒ごとは金剛石の隣で

第111話 *1* 10月12日土曜日、早朝

 十月十二日土曜日、早朝。

 いつもとは異なる場所で眠ったからか、こうは早くに目が覚めた。ブラインドの隙間から陽射しがこぼれている。三連休の初日は行楽日和と言えそうだ。

 ――お出掛けしたいところだけど、テスト前じゃそうは言っていられないか……。

 〝氷雪の精霊〟探しのために、ろくに勉強は進んでいない。ましてや、宝石知識テストを中間テスト前にこなさなければならないのだ。いろいろな命運がかかっているだけに、少しも手を抜けない。

 紅は抜折羅ばさらが部屋にいない間に着替えを済ませる。習慣で確認したスマートフォンに新着通知はなく、あれから特に連絡が必要なことは起きていないようだ。時刻は七時半を回って、紅は抜折羅の様子を見に行くことにした。

 事務所側に繋がる扉を軽くノックする。少し待つが応答はない。

 ――まだ寝ているのかな?

 抜折羅の寝顔を想像すると、妙にわくわくした。

 ――ってか、あたしってば寝顔見られすぎじゃない?

 気絶したところを抜折羅には何度も助けてもらっているし、蒼衣あおいも同様だ。遊輝ゆうきに至っては寝込みを二度も襲われている。

 ――無防備すぎる……気を付けよう。特に、白浪しらなみ先輩には。

 ため息をつきそうになるのを堪えて、もう一度扉を叩く。扉に耳を付けて中の様子を窺うが、とても静かだ。

「入るよー?」

 鍵を回してそっと中に入る。薄暗い室内、三人掛けのソファーに抜折羅の姿があった。毛布にくるまるようにして、小さく丸まって眠っている。大型犬が寝ているみたいな印象だ。

 ――なんで丸まってるんだろ? 寝にくかったのか、寒かったのかしら?

 物音を立てないように注意して、抜折羅の近くに寄る。しゃがんで、彼の顔を覗き込んだ。

 ――こうして見ると、子どもっぽい感じがするのよねぇ。起きているときは気が張っているのか、そういう感じが薄れるけど。

 身長差のせいで見上げることが多いので、こうして同じ高さでまじまじと顔を見たことがないことに気付く。

 ――なんだか可愛いなぁ。藍染あいぞめ先輩ほどの童顔じゃないけど、ちょっと幼さが滲むくらいがぐっとくるかも。一年生の中で人気になっているのは、こういう部分もあるのかな。星章せいしょう先輩や白浪先輩ともタイプが違うし。

 寝顔を知っているというのは、わずかながら優越感を得られる。仕事で忙しくしていても、授業中にうとうとしているようなことがない彼だ。寝顔はかなり貴重のように思える。

 ――思っていたより睫毛長いんだなぁ。

 あまりにも心地良さそうに眠っているので、そんな抜折羅に触れてみたい衝動を覚える。

 ――頭撫でたらさすがに怒るかしら……? いや、待ちなさい、あたし。

 手を伸ばしかけて引っ込める。

 ――ここで悪戯いたずらしたら、白浪先輩と同類になるわ。自重しないと。

 ぐっと堪えると、抜折羅がもぞもぞっと動いた。唐突さに紅は身体をビクッとさせる。まもなく彼は目を開けた。

 ぼんやりとした眼が紅に向けられている。焦点が合っていないようでうつろだったが、急速に表情が変わった。

「……はぅっ!?」

 瞬時に退いて、抜折羅はソファーの背に背中をしたたかに打ちつけた。

「イテテ……」

「ご、ごめん、抜折羅。驚かすつもりはなかったの。大丈夫?」

 毛布を退かして背中をさすっている抜折羅に、紅は両手を合わせて謝る。こんな大袈裟な反応をされるとは思っていなかったのだ。悪いことをしたな、と紅は素直に反省する。

「あぁ、心配ない。――おはよう」

「うん、おはよう」

「ホープが妙にそわそわしてるから、何事かと思って目を開けたらこれか……何かあったか?」

 もうすっかり覚醒しているようで、普段顔を合わせているときと同じ雰囲気になっていた。なんとなくそれが残念に感じられるのはどうしてだろうか。

 抜折羅の問いに、紅は首を横に振る。

「早く目が覚めたから、様子を見に来ただけなの。起こすつもりもなかったんだけど……ごめんね。気持ちよさそうだったのに」

「気にするな。ぐーたらしている余裕もないしな」

 テキパキと毛布を畳み、抜折羅は背伸びをしている。寝起きは良い方のようだ。

「顔を洗ったら朝ご飯にしよう。飲み物、インスタントコーヒーで構わないか?」

「うん」

 紅は素直に頷く。お腹が空いた頃合だったので、抜折羅の提案は嬉しい。自然と顔が綻ぶ。

「紅はブラック派だよな、俺と同じで」

 毛布を私室に持って行きながらの抜折羅の確認。紅は目を瞬かせた。

「あれ? 確かにブラック派だけど、好みの話ってしたことあったっけ?」

 すぐに事務所側に戻ってきた抜折羅に紅は問う。

「んなの、見てりゃわかるさ」

「覚えるくらい見られていたってこと?」

 しれっと返されたので、紅は不思議に感じる。好みを把握されているとは考えてもみなかった。

「ストーカーみたいに言うなよ。たんに記憶力が良いってだけだ」

 そう答えて視線を外す抜折羅の頬は少し赤い。

「ふぅん、そっかぁ。変な言い方して悪かったわ。抜折羅が覚えてくれていたのは、嬉しかったのよ? あたしが告白するまで、あたし自身に興味がないのかと思ってたから」

 カードキーを持って部屋を出て行く彼の後ろにつきながら、紅は告げる。

「別に、興味がなかったわけじゃない。意識し始めたのは、だいぶ前だと思っているし」

「…………」

 そんな台詞を聞けるとは驚いた。照れくさくて、台詞に困る。

「……こんなふうに、紅を想うようになるとはな」

 ぼそりと聞こえてきた独り言。抜折羅の視線がチラリとこちらに向けられたのが紅にはわかった。

 ――訂正する。今朝の抜折羅は学校で会う抜折羅とはちょっと違う。

 ドキドキしてしまって、紅はぷいっと横を向く。その頭に抜折羅の手が載せられて、少し乱暴に撫でられた。

「ちょっ!?」

 不意打ちだ。こんな調子で触れられるのは初めてで、くすぐったくて、吃驚びっくりして戸惑って、無性に恥ずかしくて、耐えられないとばかりにその手を払う。何をしてくれるんだとばかりに恨めしく睨むと、抜折羅は微かに笑っていた。

「寝顔見られた仕返しだ。これでイーブンだろ?」

「う……そうね。おあいこってことで良いわよ。――ってか、キャラが違うんですけど」

 不器用な笑い方は見慣れている。だが、言動が新鮮でドキドキが収まらない。

「じゃあ、まだ寝ぼけているのかもな。自分を抑えていない俺なんて、こんなもんさ。ちゃんと制御してないと、俺自身も何するかわからんぞ?」

 楽しげに見えるのは気のせいだろうか。紅は髪を整えながら小さく膨れる。

「あたしが悲しむようなことはしないって信じているから、抜折羅は好きなようにすれば良いわよ。制御してるってことは、その辺の分別がつくってことでしょ?」

 ――もっと、素の彼も知りたいな。寝顔だけじゃなくって、もっといろいろな経験をして、たくさんの表情を見てみたいよ。

 紅が告げると、抜折羅は一瞬困ったような顔をして、長く息を吐き出した。頭を掻きながら、彼は口を開く。

「……そういう台詞、他の男の前では言ってくれるなよ? 美味しくいただいてくださいって自分から言っているようなもんだ。俺はホープの呪いの都合上、できるだけ紅に対して欲を感じないように意識しているが、他の連中もそうだとは言えないんだから」

「むっ……抜折羅にしか言わないに決まっているじゃない」

「紅を信用していないわけじゃないんだ。ただ、心配で。――俺はお前を拘束しようとは思わない。好きなように振る舞えば良いと考えている。だが、危険なことだけはしてくれるな。お前をいつでも手助けできるとは限らないんだ。覚えておいてくれ」

 抜折羅に真面目な声色で説得されて、紅は妙に胸が高鳴った。

 ――あたしのこと、そんなふうに考えてくれていたのか……。

「う、うん。了解。気を付ける」

 こくっと頷いて、上目遣いに抜折羅を見つめる。まっすぐ見るのが照れくさかったのだ。

 すると、彼ははっとした表情を浮かべる。

「何か俺、喋りすぎた気がしてきたんだが……」

「良いんじゃない? 自分の気持ちを吐露するくらい。どうせ朝食のあとは勉強の話しかできないでしょうし」

「あぁ、じゃあ、そういうことにしておく」

 とっくに到着していた給湯室。抜折羅は電気ケトルに浄水器の水を差してコーヒーの準備を始める。

「何か手伝うこと、ある?」

「そうだな。だったら、私室から皿を持ってきてくれないか? あと、マグカップも。ダンボールに入れっぱなしになってるはずだ」

「了解ー」

「カードキー、忘れるなよ?」

「わかってるって」

 借りている予備のカードキーは首から下げている。なくすこともないだろう。

 ――ふふ。なんだか幸せだなぁ。好きな人との朝食って、素敵な時間なのね。昨夜なにかあった訳じゃないけど。

 抜折羅との関係に進展は特にない。だが、これほど長く二人きりでいたことはないので、それだけでも充分に舞い上がってしまう。

 ――あとは、試験をどうにかしないと……。

 舞い上がり過ぎないように、現実としっかり向き合う。小さく拳を作って気合いを入れると、カードキーを翳して私室に入ったのだった。

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