第61話 *4* 9月7日土曜日、昼
「やっ……」
あっさりと押し倒される。受け身を取ることはなんとかできたようで、痛みは少ない。
上に乗り掛かる抜折羅は虚ろな目のまま見下ろしてくる。
「抜折羅、じゃないみたいね……」
〝フレイムブラッド〟を握り締める。覚悟を決めるときが来たのかも知れない。ゴクリと唾を飲み込む。
『死んでもらうぞ、娘。この少年に出逢ってしまったことを、死後の世界で恨むんだな』
直接、頭に響く声。それは以前聞いたホープのものとは違う。
「あなた、誰?」
『死にゆく者に名乗る趣味はない』
抜折羅の手が首に伸びる。すぐに力が込められた。
――苦しいっ……。
緩まないかと彼の腕に爪を立ててみるが、変化はない。一方で、紅は自分の手に力が入りにくくなってきているのを実感した。時間がない。
――覚悟を決めるのよ、紅。抜折羅は悲しむかも知れないけど、ここであたしが死ぬわけにはいかない。〝フレイムブラッド〟があたしの命を求めたとしても、ここでおとなしく殺されるよりはマシだわ。
手のひらから転がり落ちそうになるフレイムブラッドを、紅はやっとのことで自身の右肩に当てた。
――お願い、フレイムブラッド。あたしに力を貸してっ!!
『我が主、ホムラコウ。ワタシの力を求める者となる決意ができましたか?』
――あなたの〝使命〟を受け入れるわ。だから、力を貸してっ!! 彼を――抜折羅を助けたいのっ!!
『承知致しました。――ワタシは勝利へと導く石。必ずやあなたの力となりましょう。ワタシのもたらす〝使命〟は奉仕の心。あなたを求める者に惜しむことなく力を貸し与え、勝利へと導きなさい。ワタシとの
声が遠退いていくのに呼応するかのように、身体に力が
――ありがとう、フレイムブラッド。あたし、頑張るよ。
息苦しさが少しだけ薄れ、紅は抜折羅の手首を掴む。そして祈りを捧げた。
――炎と戦いの神マルスよ、我が前に立ちふさがる邪なる心を燃やし滅せよ!
燃え盛る炎のビジョン。掴んだ手首から炎は広がり、抜折羅を包み込む。
『くっ……無駄な抵抗をっ! 我は屈しない
手に込められた力は僅かに緩む。一呼吸するが、首を絞められた状態から脱したわけではない。
――あたしだけの力じゃ勝てないのっ……!?
フレイムブラッドから力を送り込んでいる感覚はある。だが、相手のダメージになっているようには見えない。
再び抜折羅の両手に力が入った。
「がぁっ!?」
フレイムブラッドと契約をしたからか、脳への血の巡りが確保できていたようだが、それも限界を迎えたらしい。意識が徐々に薄れていく。
――諦めたくない……あたしは諦めたくないっ……。
そのとき、かすかに声が聞こえてきた。聞き覚えのあるか細い声。
『〝フレイムブラッド〟の娘よ、貴様の諦めの悪さは評価に値するぞ』
――ホープ?
『私とて、小さいながらも青のダイヤモンド。そう簡単に主を奪われてなるものか。我が願いに賛同する、ようやっと見つけた主なのだからな』
真っ赤だった炎のビジョンが青白い光に変わる。流れる力はフレイムブラッドだけのものではない。
『そんなバカなっ!! このボクがお前ごときに喰われるなどっ!?』
その悲鳴のような台詞の後に抜折羅の瞳に青白い光が宿った。まもなく手が首から離れる。
「ダイヤモンドは他の石の力も引き出す。フレイムブラッドの力を目一杯引っ張り出したんだ。もう観念しろ」
抜折羅は自身の左手薬指に右手の人差し指と中指をあてがう。そして指輪を一気に引き抜いた。勢いで飛んだ青い指輪は、廊下の中央に落下する。
「けほっけほっ」
「ぶ、無事か?」
上体を起こして首をさする紅に、不安げな気持ちが全面的に表れた顔で抜折羅が訊ねる。
「なんとか、ね」
締め付けられた箇所が痛い。痕になっているのかもと思うと、気が重い。
「紅のおかげで助かった。礼を言う」
抜折羅は紅の上からどいて立ち上がると、手を差し出した。紅は彼の手を取る。
「どういたしまして。あなたを失わずに済んで良かったわ」
安心してもらうために、紅は努めて笑顔を作ると立ち上がる。
「……しかし、俺はお前に酷いことをした」
「気にしないで、仕方のないことだもの。傷はすぐに
「違う。首の怪我のことじゃない。フレイムブラッドのことだ」
申し訳なさと怒りが入り混じったような声で抜折羅は叫ぶ。
「心配いらないわよ。あたしの〝使命〟は命を取られるようなものじゃない。盟約を破れば災厄を撒き散らすとは言われたけど、それだけだから」
深刻にならないように、紅は明るく振る舞う。抜折羅の
「解除条件はないのか?」
「まだ聞いてないけど……当分は外すつもりもないから大丈夫」
「そっか……だが、念のため聞いておけよ? 場合によっては、俺が取り外してやらなきゃいけないかも知れないし」
「うん、了解」
もっと責められるんじゃないかと警戒していたが、
「――となれば、撤収準備だな。あれだけ騒いでいたのに家の人が見に来ないとは、オパールの魔術効果はすごいな。
独り言らしきことをぶつぶつ
――終わり……か。仕事が片付いたのだから、抜折羅はアメリカに帰っちゃうのかな……?
抜折羅を見つめていると、彼は紅に振り向いた。
「紅、石神ルイを運ぶのを手伝ってくれ」
「わかったわ」
こうして撤収準備を始め、紅と抜折羅は石神邸を後にしたのだった。
(第6章 ヒトの心を捉えし魔物は 完)
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