第5話おかしい、何かが違う
翌日、秤は教室で授業を受けていた。
前日の失敗は痛かったが、まだ行動を開始していない。個人的な意欲を削がれただけで、問題は起きていないのだ。やり直せばいいだけのこと。それに既に次の手は考えている。
秤はぼんやりと数学教師の後頭部を見つめていた。
頭頂部は焼け野原、なのに一部天高くそびえ立つ毛髪があった。
気になる。周辺は枯れているのに、なぜ中央部分だけ元気なのか。何かに似ている。何かに……そうか! 栗だ! 栗に似ているのだ!
秤は疑問が氷解したことに快感を抱いた。享楽的な感傷に浸り、ふぅっと小さく嘆息した。そこには満足感がありありと浮かんでいた。
気づくと、玲李が板書していた。どうやら教師に回答するように言われたらしい。
長ったらしい数列を書き並べていた。文字さえも美麗だ。
「正解です。さすが、桜ヶ丘さんだ」
賞賛の拍手を送る教師だったが、生徒の拍手はない。気にした風もなく、玲李は自分の席に戻った。
教師勢の彼女に対する評価は高い。生活態度も問題ないし、成績もいい。何かしら表彰される機会も多いし、親御さんは有名だ。教師達が媚を売るのも頷ける。ただ、他の連中は面白くないらしい。高校生といえば子供だ。大人の都合や、汚さを受け入れられる人間は少ないだろう。
ぼーっと玲李の姿を観察していると、声で現実に引き戻された。
「時任! 聞いておるのか!」
「あ、はい。聞いてますよ」
「じゃあ、この問題を解いてみろ!」
どうもこの数学教師、秤に対しての風当たりが強いのだ。校則は守っているし生活態度も……よくはないが、一応は校則は守っている。なのに反感を買うのは、内心で馬鹿にしていることが態度に出ているのかもしれない。
秤は黒板まで行くと、さっさと答えを書いた。微分の公式くらい完全に頭に入っている。
「せ、正解だ」
数学教師は焼け野原をプルプルと震わせながら、顔を真っ赤にした。月並みではあるが、タコのように、と追記しておこう。
そうか! タコだ! タコにも似ているのだ!
秤は教師の顔を見て、満面の笑みを浮かべて頷いた。その挙動が癇に障ったのか、教師は秤を睨み付けた。だが秤は涼しい顔で席に戻った。彼には何の問題もない。単なる言いがかりなのだ。ただ、ちょっと馬鹿にしてしまってはいるが。
すでに高校三年までの勉強は余裕で済んでいるし、受験勉強もかなり進んでいる。むしろ終わっている。毎日、こつこつと勉強していればそれくらい簡単なものだ。日々の積み重ねをすればどんなことでもある程度は習得できるものだ。言うは易し、しかし実際に行動できる人間は少ない。
秤は再びぼーっと窓から外を眺めていた。この数学教師の授業は意味がない。中身がなく、教科書通りにしか進まないからだ。それをわかっている秤は、いつも空を見上げる。それだけで時間を過ごしていた。
●●
数日経過し、休日。
秤は動きやすい格好で、桜ヶ丘邸の前で佇んでいた。相変わらず無駄に豪華な門構えだった。不審者扱いされないかと内心ではヒヤヒヤとしたが幸いにも通報はされなかったし、家の人間は誰も出てこなかった。
十五分後の午前八時。薄汚れた軽トラが現れ、運転席からつるっぱげの男性が下車した。厳めしく頑固そうな顔をしている。真っ先に思い浮かぶ単語は職人だった。
事前に聞いた話では拘りが強く、弟子も手伝い程度の新人も長く続かず辞めてしまうらしい。彼を紹介してくれたのは神木野銀二であった。ゆいを家に連れ帰った謝礼がこれだ。
庭師の男は不機嫌そうな顔をして秤を睨み付けた。
「おまえがアレか、手伝いたいって言ってたガキか?」
「はいっ! 本日はおなしゃしゃっす!」
「けっ、挨拶は悪くねぇがよ、どうせついて来れねぇんだ。てめぇは隅っこで縮こまってな。それと俺のことは親方って呼べや。わかったか!?」
「わかりました、親方! がんばりますっ!」
姿勢を正して秤ははきはきと喋った。
どうやら対応は正解だったらしく、舌打ちをするだけで親方は顎をしゃくり、乗車するように指示した。なるほど、若い連中にはこういう性格の人は苦手だろう。しかし、秤はきびきびと動き、言われた通りに車に乗る。
親方は何やら門横のインターフォンに向かって話し、やがて戻ってきた。無駄に激しくドアを閉めた親方は、門が自動的に開くのを確認してから車を進めた。そして舗装された道を進み、家の近辺にあった駐車場に止めた。
近くで見ると思った以上に広い。ちょっとした公園くらいはありそうだ。
今日は玲李との出会いを演出する作戦その二。『あっるぅぇー? ここ君の家だったのかぁ。いやー、偶然だなぁ』作戦を決行するために来た。内容は簡単というかそのままだ。偶然を装い、玲李と鉢合わせる。そして顔を覚えて貰い、少しずつ話すようになり、絵の話をしたりして、その内『秤君、いつ来るのかしら』とか恋い焦がれるようになるまで親密になるのが目的だ。
玲李の部屋は二階、東側の部屋だ。ただ庭師の手伝いである秤は屋内に入る機会は限られている。タイミングが重要なので逃さないようにしなくては。
まずは、親方にある程度気に入られなくてはならない。仕事があまりにできないと帰れと言われかねない危惧があった。
秤は親方が荷台に向かう姿が見えたので、先回りして荷物を抱えた。
秤が持ったのは脚立だ。足蹴にする道具ならば、職人として他人に触らせたくないという心情が働きにくいと考えたからだった。それに脚立は最も大きく重い。手伝いである秤が持つのは当然だろう。
「僕はこれを持ちます!」
「……好きにしろ」
親方は道具が入った鞄を持ち、庭の奥へと進んで行った。
庭には多種多様な植物が植えられている。家近くには花が植えられており、外周部分には樹木が多い。配置は緻密で門から見ても美しかった。庭師の仕事は植物の手入れだけではない。見目も重要で、専任庭師である親方は腕前を認められているということでもある。
強面だが繊細な技術を持ち合わせているということ。
実際、かなり貴重な体験だ。秤は玲李のことを最優先に考えながらも、親方の職人として姿勢や技術、知識を吸収しようと本腰を入れた。秤の悪い癖である。自分にないものを吸収しようとしてしまうのだ。際限のない向上心は時として毒となる。
「おい、ガキ! 雑草を刈ってろ!」
「はいっ!」
「おい、おまえ、脚立持っとけっ!」
「はいっ!」
「おい、時任! そこの枝を切れっ!」
「はいっ!」
「おい、秤! 接ぎ木は知ってるかっ!?」
「知ってます!」
「やってみろっ!」
「はいっ!」
最初は脚立の運搬と草刈をしていたが、やがて親方は様々な仕事を秤に任せ始めた。高所で作業をし、時にはノコギリやハサミを使った。元々、知識欲が強い秤は、事前に庭師の仕事や、桜ヶ丘邸の庭に植えられている植物に関しても調べていた。そのため、親方の要望に応えることができたのだ。
おかげでなぜか異常に気に入られてしまった。
昼休みに入り、秤達は車内で弁当を食べていた。
最初の印象と裏腹に、上機嫌になった親方は豪快に笑っていた。
「最近のガキにしてはやるじゃねぇか、あぁ?」
「ありがとうございますっ!」
「昼からはもっとしんどいからな、覚悟しとけよっ!」
「はいっ、頑張りますっ!」
最早スポコン物の一場面。舞台は庭だが、コーチと選手、師匠と弟子のような関係性が確立されてしまっていた。そしてそんな状況に秤も入り込んでしまう。
結局、夕方まで必死に働いてしまった。爽やかな汗を掻き、満足そうな表情のまま仕事は終了した。
身体を動かすのは気持ちいいな、と達成感に満ちた心情になっていた。
そして、後片付けを終え、さあ帰るぞ、となった時に思い出した。
「あ」
「あ?」
やっべぇ、マジやっべぇ、作戦忘れてた。
今更、トイレに行きたいとは言えない。このタイミングで言えば親方に悪印象を与えてしまう。もっと早く言え! と言われるに決まっているのだ。作戦ではしばらく庭師のバイトは続けることになっている。親方との関係が良好な現状を覆したくはない。
まあ、別に今日じゃなくてもいいし? と自分に言い訳をした秤は、一縷の迷いを振り払った。
「いえ、何でもないです」
「おう、じゃあ帰るか。送ってってやる」
「あじゃじゃっすっ!」
車に乗り、桜ヶ丘邸を後にした。
そして秤はふと思った。
――これって、計画通りに進んでいないんじゃね?
十三年に及ぶ計画だったが、考えてみれば何事も多少なりとも運が絡むのだ。そのため数百の作戦を考えている。決行順は成功確率が高そうなもので決めていた。今回の庭師バイトは非現実的な部分が強かったが、的場家との縁ができたので遂行できたのだ。
しかし、このまま継続していいものか。
普通に学校で話しかけるというのも手だとは思うが、周囲の邪魔が入る可能性もあるので、できれば学外で関係を築きたい。一先ず、このまま進めてみよう。問題が発生しそうであれば別の手段を考えればいいのだから。
焦るな。元々、人間関係を構築するのは簡単ではないのだ。しかも恋愛となれば特に難しい。手段を考えなければ可能だろうが、秤が望んでいるのは『玲李が結婚することを快諾する』という結末。恋愛でも打算でもいい。とにかく玲李自身が望んで秤と結婚し、家庭を築きたいと思って貰いたいのだ。
恋愛感情はないし、恋愛がしたいとは思わない。けれど、家庭に憧れを抱いてはいる。まだリアリティがないが、いつかは子供ができるだろうし、ドラマで見るような幸せな家族関係を作りたいという焦がれもある。
非道であれば方法はいくらでもあるのだ。だがそれならばこんなに時間をかけなくともよかったし、彼女の情報を集める必要もなかった。そうするつもりは毛頭ないのだ。
秤は思いを馳せる。玲李と結婚した未来を。
彼が目指すのは幸福な将来だ。そこには玲李の幸福も含まれていた。
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