ごくごく平凡な男子高校生による異世界冒険譚と、その旅行記録。
蒼蟲夕也
その1 プロローグ(前篇)
* * *
――まず、この場所が創られたという。
話によると、ここの大地はおおよそ半球状になっていて、半端なく馬鹿でかい、亀の化け物みたいな生命体の背中に乗っかってできているらしい。
世界が安定しているのは、件の亀氏が、長い午睡から起きないでくれているためだそうだ。
それが真実であるかどうかは、世界の果てまで行ったことがないので、わからない。
生まれてこの方、地動説と進化論を信じて生きてきた身にしてみれば、少しばかり信じがたい事実だ。
だが、この奇妙な世界に住まう人々は違う。
彼らは、自分たちがどこから来て、どこへ行くのか、はっきりと識しっており、巨大亀の存在を、その眼で見たことがあるかのように信じているのだ。
この世界に点在する村々が集まって、年に数度、小さなお祭りを開くことがある。
亀が昼寝から起きないよう、子守歌を歌うためだ。
その子守歌たるや、数分も聴いていれば眠気を誘うほどに退屈で、ひどく間延びしており、彼らはこれを、一晩中でも歌い続ける。最後の一人が眠りについた時点で儀式は終わり。次の日は夕方まで眠って、天と地の安定を祝福するのだという。
この世界に住まう人々の名前を、“木人”。
この場所のことは、“はじまりの世界”と呼ばれている。
(2015年2月6日 記)
* * *
――恋をせねばなるまい。
そう感じていた。脅迫的なまでに。
二月の上旬。
冬の日のできごとだった。
▼
自転車の進行方向を変えて、西武池袋線の線路沿いに走り出すと、刺すような冷風が頬を刺す。
向かい風だ。ええい、かまうものか。
ペダルを踏む足に力を込める。
学校をサボって冬の海に行こう。
そんな風に考えながら。
特別な理由はない。そこに行けば恋ができるという保証もない。
中高一貫の男子校に通い始めてから、五年目。
溜まりに溜まったごにょごにょは、異常な行動力を喚起していて。
凍てつくように冷たいはずの指先も、その日ばかりは感覚を置き去りにしている。
とある友人の言葉が、頭の中をぐるぐると回っていた。
彼曰く、我々が“女子”と呼んでいる生き物の正体は、狂った妄想が生み出した幻想の産物であるという。
もちろんこの説には、仲間うちでもいくつかの反駁があった。
テレビで見たことがある。街で歩いているのを見たことがある。友達の友達が女子だという噂を耳にしたことがある。
――”女子”は実在する。
……と。
だがその友人は、怯まず、動じず、こう応えたものだ。
「考えてもみろ。この五年間、触れたことも話したこともない存在の実在を、どうやって証明する?」
全てはまやかし。あるいは政府か宇宙人の巧妙なトリックなのだ。
――触れたことも、話したこともない存在。……その証明。
なぜだか、今さらになってこの言葉が思い出される。
現実が苦痛に満ちているとは思わない。
だが、味気ない青春にも、一匙の隠し味が欲しい。
できれば、角砂糖のように甘い隠し味を。
それが幻想に過ぎなくても構わない。
冬の海に行こう。
急げば二時間。のんびりで三時間。
光久はひたすらに自転車をこぐ。見慣れた道を抜けて、見慣れない道を進む。
東へ向かえばいい。簡単だ。
――そこで、自分と同じような悩みを抱えた女の子と偶然に出会い、自分と同じような考え方をする女の子と仲良くなり、お互いに望まれるタイミングでキスをしよう。
実現できるかどうかは問題ではない。奇跡は信じることで産まれるのだ。
アニメで言っていたから間違いない。
合原光久は、正気を失っていた。
* * *
すべてのはじまりの日。
俺の鞄の中に入っていたのは、現金千二百五円。ポケットサイズの辞書、各教科のノート五冊。携帯電話に、学生証。それと、筆箱。筆箱の中には、鉛筆が四本とシャーペンが一本。シャーペンの芯が二十二本(わざわざ数えた)に、消しゴム。
それだけだった。
十分な用意が出来ていたとは、とても思えない。
せめて、北海道旅行の時に買った木刀と、替えのパンツぐらいは用意すべきだったか。
今更悔やんでも、もう遅いけどな。
(2015年3月8日 記)
* * *
光久の知能指数が、ごく一般的な男子高校生の水準を取り戻したのは、実際に冬の海を目の前にした、およそ五分後のことであった。
「……ふうっ」
何も起こらないな。と、ぼんやり考えながら、肺の中の空気を吐き出す。
目の前には、夢も希望もない、ただただ寂れているだけの港があった。
そういえば、アニメではこんなことも言っていた。
現実はそんなに甘くない、とか。なんとか。
光久は、行きがけに買った缶コーヒーを取り出す。
産まれて始めて買ってみた無糖コーヒーは、舌を刺すように苦い。
――現実は甘くない。コーヒーも甘くない。
このことに関連づけた、含蓄のある作詩を試みる。
が、あいにくその手の才能には恵まれなかったらしい。
言葉は生まれず、虚無だけが胸の中に広がっていく。
携帯電話を取り出し、現在時刻を確認。
もうそろそろ、始業時刻だった。
今頃、クラスの野郎どもはそろって「おはよーございまーす」と野太く合唱し、担任の谷口先生に向かって、学校指定のカリアゲ頭を下げていることだろう。
谷口先生は出席簿を広げ、いつものボソボソとした不景気な口調で、あいうえお順に名前を呼ぶに違いない。
最初に呼ばれるのは、――合原光久。自分の名前だ。
だが、そこに合原光久はいない。
ここでコーヒーを飲んでいるからである。
今更ながらこみ上げてきた罪悪感を噛みしめつつ、コーヒーの残りを飲み干す。
明日、友人に今日のことを話してみよう。
きっと、馬鹿なやつだと笑われるに違いない。
それで良いと思った。
男子高校生の生活には、人から笑われるような愚かしさがつきものなのだ。
全てを諦めて、海に背を向けた、その時だった。
「どうもみなさん。“造物主”です」
凛とした、――それでもどこか幼さの残る、舌足らずな声。
少女がいた。
陽光を一身に受けたその娘は、ここからだと後光が差しているように見える。
「今日は君らに、一つの提案を持ってきた。――どうかね? この中に、”神”になりたいと思う者はおらぬか?」
それが始まりだった。
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