第16話

それから三日、紗枝は冬木からの連絡を待った。


母と会えるようセッティングしたと言う。


一体どんな手を使ったのか疑問に思いながら、いつものバリスタカフェで新見に迎えに来てもらって漆黒のジャガーに乗る。中には冬木がいた。


無地のネイビースーツでノーネクタイ、珍しいことにベストは着ておらず、白いワイシャツがよく見える。前はきちんと閉めてあるが、いつもより白の面積が若干多い。


新見も運転席へ乗り込み、やっぱりいつも通り行き先は告げられない。


でももうそれにも慣れてしまった。




「これ読んどけ」




手渡された大判の封筒の中身は書類だった。


三十代後半くらいの男が写った小さな証明写真が貼られた履歴書に、金銭の借用書、それから誰が調べたのかその男の住所や行動などが書かれている紙の束。


借用書は小さな文字でもっともらしいことを述べているようだったが計算してみると金利は十日で一割という法外なものだった。返済期限は過ぎている。借りた日付と今日までの日付を思わず計算して更に驚く。五十万が今では四百万に跳ね上がっていた。


しかし何故こんな男の書類を自分に見せるのか。


大まかに目を通した紗枝に冬木が理由を述べた。




「ソイツぁ今テメェの母親と暮らしてる男だ。ウチから借金したまま逃げちまって探してたんだが、まさかこんな形で見つかるとは思わなかった」




ククッと心底愉快そうな笑い声が隣から響く。




「テメェの母親もソイツのためにあちこちから金借りてるって話だ」




顔を上げた紗枝の目に冬木と、その向こうの車窓が映り込む。


見覚えのある光景にしばし硬直したものの、それがいつのことか思い出してハッとした。


漆黒のジャガーに冬木と新見の三人で乗って高速を走ったと言えば、この左目が事実がどうか確かめたあの日しかない。




「…捕まえたんですか…?」




紗枝の問いに「ああ」と冬木が頷いた。


目を見開いている紗枝の顔を覗き込んだダークグレーの瞳が細く笑う。




「母親を助けてぇか?」




低い声が今まで聞いたことがないような甘い毒を宿して囁く。


抱えていた書類を握る手に力がこもる。


しかし、それはすぐに抜けてしまった。




「…いいえ、自業自得です」


「そうか。まあ、テメェの母親の方は埋めるほどでもねぇけどなぁ」


「でも逃がすつもりはないんですよね?」


「そりゃあな、ウチから逃げたこと知ってて男を匿ってたんだ。何のお咎めもナシって訳にはいかねぇさ。コッチの面子ってモンに関わるしよ」




懐から出した煙草に自分で火を点け、美味そうに紫煙を燻らせる冬木。


紗枝は自分で自分の母親の首を絞めてしまったのだ。


だが、結局はそれも闇金に手を出すような男と付き合った母親の問題である。


多少寝覚めの悪い思いはするかもしれないが、どっちみちいつかは居場所がバレただろうし、紗枝の預かり知らぬところで勝手に殺されるより少しはマシだった。


ずっと聞きたい疑問があった。


ずっと確かめたい事実があった。


それをようやく知ることが出来るのだ。


封筒に男の書類を仕舞い、冬木へ返すと紗枝は車窓を眺めた。


高速を降りた車は街から離れて人気のない山道へ入っていく。


いつかの‘遊び場’への道のりだった。


冷えた指先を握るように手を合わせて到着するのを待つ。


前回同様、途中で新見が降りて古びた鉄柵の門を動かして車を乗り入れ、また降りて元に戻して鍵をかけるという動作をした。目的地は近い。


しばらくゆっくり走ったジャガーは少し開けた場所で停車する。


傍には黒いハイエースが一台停まっていた。


冬木と新見、紗枝は車から降りて山の中へ細々と続く道へ足を踏み入れた。


一ヵ月半ほど前に通った時と同じく濃い緑と土の臭いが漂っている。


黙々と歩き古い工場跡地へ辿り付くと、やはり見張りだろう二人組の男達が立っていて、冬木達を見ると頭を下げて錆びた扉を引き開けた。


相変わらず埃っぽい工場内を抜けて地下室へと下りる。


新見の持つ懐中電灯だけが頼りである。


冷たい扉の前で新見が立ち止まり、紗枝へ道を開けた。


自分で開けろということだろうか。


丸いドアノブは簡単に回るくせに軽く引いてもビクともせず、体重を後ろへかけるように全身を使って引っ張るとようやく鈍い音を立てて開く。


灰色のタイル張りの部屋は無機質な白の蛍光灯に照らされている。相変わらず何に使うのか分からないような道具がステンレス製の台に載っており、照らし出されなかった部屋の隅は何かが潜んでいそうなほどに暗い。


眩しさに閉じた左目はそのままに、右目だけで部屋の中央を見る。


室内には四人いた。男三人に女一人。


内男と女が一人ずつ椅子に縛り付けられいる。


その左右に立っていた男二人は藤堂と松田だった。


入って来た紗枝達に二人は軽く会釈をしたものの、威圧を放って椅子に縛り付けられた男女を無感情に眺め見た。


人が入って来たことにビクリと体を震わせた男女が顔を上げる。


紗枝によく似た女と、先ほど写真で見た男だ。


女は紗枝を見ると最初は怪訝そうな顔をし、しかし自身の子の存在を思い出したのかハッと目を見開いた後にガムテープの向こうで言葉にならない声を漏らした。




「感動のご対面ってか?喋れねぇんじゃ味気ねぇだろ、口んヤツ剥がしてやれ」




壁際のステンレス台に寄り掛かった冬木に松田が頷いて女の口許のガムテープを一気に引き剥がした。所々唇の皮を持っていかれたのか血が滲み出す。


けれども女はガムテープがなくなると途端に口を開いた。




「紗枝っ、紗枝?紗枝でしょアンタ、ねぇ助けてちょうだい!ア、アタシは何にも知らなかったんだよぉ!紗枝ぇ、お願いだからぁっ…!!」




ガタガタと椅子を揺らして騒ぐ女を紗枝は黙って見ていた。


自分とよく似た顔立ちで自分の名前を知る、けれど紗枝にとっては顔も覚えていないような実の母親のその姿は感動の再会を得るには程遠かった。


幼い頃は幸せそうに笑っていた、という記憶はある。


ただしその表情を思い出そうとしても黒く塗り潰されて分からない。


だから紗枝はこの女が本当に実の母親だという実感が湧かなかった。




「ねぇ聞いてるの紗枝?!アタシ達親子じゃないっ、助けてよぉお!」




段々ヒステリックになりつつある声にああ、と声にならない溜め息を零す。


目の前にいるのは紛れもなく実の母だと記憶とほぼ変わらない金切り声に瞼を閉じる。何度も見た夢の中で、母は父とこんな声で口喧嘩を繰り広げていた。




「おかあさん」




紗枝が呼ぶと返事が返ってくる。




「そう、そうよ、お母さんよ紗枝っ」




藁でも縋りたそうな母に自然と笑みが浮かんだ。


馬鹿な人だと心の底から嗤った。


いくら親子でも、いくら血がつながっていても、こんな小娘にこの状況を覆すだけの力があると本気で信じているのだろうか。それに縋ろうとしているのか。


伏せていた瞼を開け、表情を明るくする母親に近付く。


ちょっと手を伸ばせば触れられそうなほどの距離。


カチリ、背後でライターを使うような音がして煙草の香りが漂ってくる。




「十二年ぶりだね、おかあさん。隣の人は彼氏さん?」


「え?ええ、そうよ。でも騙されてたの、アタシはコイツがヤクザから金借りてたなんて知らなかったし、匿ったつもりなんてなかったわ!」


「そうなんだ」




同情も何もない薄っぺらな紗枝の返事に母は何度も頷く。




「でもおかあさんもお金集めてたよね?」




取り繕った笑みが微かに引き攣った。




「それは…コイツがどうしても必要だって言うから…」


「何に使うかも聞かずに渡してたんだ」




歯切れの悪くなる母の隣で男がウーウー唸りながら首を振る。


藤堂に頼んで口のガムテープを剥がしてもらえば、男は獣のよう吼えた。




「てめぇ、自分が何とかするっつったじゃねーか!だからオレは返す金が貯まるまではテメェの家に隠れてるって話だっただろうが!!」


「知らないわよ!元々アンタが借りた金でしょ?!アタシには関係ないわ!!」




罵り合う姿は昔と変わらない。


男が父だったら、どれだけ愉快だろう。


母の肩に手をかけてゆっくり椅子の横を回って背後へ歩く。


紗枝が動き出したことで母と男が示し合わせたように口を閉じた。




「助けてあげよっか?」




両手で母親の肩を優しく撫でながら言う。


視線だけは冬木へ向けていた。


冬木は眉を顰めてダークグレーの瞳を眇めている。


勿論、紗枝も本当に母やこの男を助けられるとは思っていないし、実の母親と言っても助けたいと願う気持ちは微塵もない。


あるのはただ自分の知りたい疑問だけ。


母から離れた紗枝は今度は煙草を燻らせている冬木の下へ向かう。


殊更ゆっくり歩いてその前に立つとスーツに包まれた左腕に抱き付くように絡んだ。深い仲に見えるよう、わざとらしく擦り寄って甘えてみせると、クッと冬木の笑う声がして頭に大きな掌が乗る。


それは左の耳朶に触れ、頬を包み込むように伝い、顎を持ち上げられる。


屈んで右の首筋に顔を埋めてくる冬木の吐息のくすぐったさに思わず肩を竦めてしまう。




「おかあさん、わたしの質問にきちんと答えてくれるなら助けてもらえるようこの人にお願いしてあげてもいいよ?」




離れていく冬木から顔を戻して振り向けば、唖然としていた母がハッと我に返る。


何度も答えるから、と言って壊れた玩具のように頷く姿は滑稽だ。

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