第13話

翌朝、十時頃に新見から連絡があった。


これから出て来られるかという問いにYesと答えた紗枝はいつものバリスタカフェまで足を運ぶと、何故かマンションではなく高級ブティックに問答無用で連れて行かれた。


笑顔の女性店員に引き渡されるとあれやこれや着替えさせられ、最終的にブルーグリーンの腰部分に大きなドレープと同色のリボンが付いた膝丈のシフォンワンピースにくすんだベージュのレースボレロ、首元には大きな真珠の連なったネックレスで足元は黒のローヒールパンプスという格好になった。いつの間にか肩には艶のある黒いエナメルバッグがかけられている。


元々着ていた服は紙袋に仕舞われて新見の手に渡された。


それから今度はすぐ傍の美容室へ行って髪を右側頭部で纏めて柔らかく巻かれ、顔には控えめなナチュラルメイクが施され、手の爪もきっちり磨かれたのだ。


何が何だか目を瞬かせているうちに到着したのは高級レストラン。


それも前に入ったところよりも明らかに格式高そうなフレンチの店だ。


新見に促されるまま、その個室に入れば冬木が待っていた。


ネイビーの細かなストライプが入ったスーツに同色のベスト、珍しく淡い青色の光沢が入ったネクタイも大柄な斜めストライプで、髪型は相変わらずピッチリとしたオールバックである。左頬には大きなガーゼが貼られている。


引かれた椅子に腰掛けると冬木の隣に新見も座る。


肩にかけていたバッグは椅子の背もたれと自分の間に置く。


新見はブラックだが同じく細かなストライプの入ったスーツに白いワイシャツ、無地のワインレッド色のネクタイを締めてこちらは普段通りだ。




「これはどういうことですか?」




ちょっと怒って聞く紗枝に冬木が肩を竦めた。




「昨日の礼だ」


「礼って――…でも催涙スプレーは使わなかったんですよね?それに頬のそれも昨日の傷でしょう?」




白い肌に白いガーゼなので案外目立ってないが、左頬をチラと見れば頷きが返される。




「まあ細かい事ぁ言えねぇが催涙スプレーを使うかどうかって場面でテメェから電話が着て、殴り合いにはなったけども結果的には大事にならずに上手い具合に収まりが着いたんだよ」




やはり内容は良く分からないものの、とりあえず危機的状況で何とはなしにかけたあの電話が功を奏したらしく、左頬はその殴り合いの時のものだろう。


それは良いとしても何故ドレスコードでレストランになるんだか。


眼前のテーブルには沢山のフォークやナイフ、スプーンなどのカトラリーに位置皿と呼ばれる皿が綺麗に並べられている。




「もしかしてそのお礼がこれですか」


「ブランドモンには興味なさそうだったしよぉ、前にレストランで飯食った時は嬉しそうだったからもっと美味いモン食わしてやろうと思ってなぁ」


「それでちょっとしたツテのあるこの店に白羽の矢が立った訳です」




二人の平然とした様子に紗枝は思わず額に手を当てて天を仰いだ。


どう考えても完全予約制だろう高級レストラン。十時という早い時間に誘ったのは入店するために必要なドレスコードと化粧の準備をさせるためで、ただ食事をするだけに高級ブティックで値札も付いていない高いワンピースドレス一式を買ってしまうとは。


それをやろうと思う方もすごいが、それをやれるだけの行動力と財力には感服ものである。レストランにブティック、美容室だけでいくらかけたのか。想像するだけで空恐ろしい。


しばしの間、美しいシャンデリアの吊るされた天井を眺めていた紗枝は溜め息を吐き出して顔を戻すと姿勢を正して椅子に座り直す。




「…ありがとうございます。とても嬉しいです。でも今後はこういうサプライズは出来れば止めて欲しいです。こんな高級な場所は生まれて初めてなので緊張し過ぎて今にも口から心臓が飛び出しそうです…」




そっと押さえた胸元からはドキドキと早鐘を打つ鼓動が感じ取れる。


普通に暮らしていたら絶対に入らないだろうレストランというだけでも緊張するのに、高いドレスに身を包んで食事だなんて味が分かるか心配だ。それに正直言って自分のテーブルマナーは本でしか読んだことがないので沢山並んだフォークやナイフ、グラスを眺めているだけで手が震えそうだった。


冬木は悪戯が成功した子供のようにニヤリと笑う。




「そりゃ悪かったなぁ、次からは一言かけてやるよ」




全く悪びれた様子はない。むしろ楽しげである。




「個室ですからあまり気負わずに食べてください」




ニコリと笑う新見にそう言われたものの、やって来たウェイター達の手によって注がれたワインや炭酸水を目にした紗枝には土台無理な話だった。


これを飲んだら食事が始まると思うとナプキンを膝に置く手が強張る。


食前酒――新見と紗枝はさっぱりした炭酸水だった――を終えて運ばれてきた前菜は色鮮やかな野菜が鎮座しており、ナイフとフォークを持った紗枝は一瞬躊躇ったものの、ゆっくり手を動かして周りを汚さないよう慎重に食べた。




「…美味しい」




口の中に広がる柔らかな味わいについ声が漏れてしまう。


次に来たスープ。フレンチの場合、スープは奥から手前へ掬ってスプーンごと口へ入れ、すすらないように食べるのがマナー。


それから今度は魚料理がきた。これにはスプーンが付いていて、冬木や新見の手元を見ると柔らかな身をフォークでスプーンに乗せて食べている。


なるほど、スプーンで食べるものなのかと見様見真似で食べてみればこれまた絶品だ。


パンを一つ分けてもらい、一口に千切って少量のバターを塗って食べる。柔らかくて香ばしく、小さいものなので魚料理と共にペロリと平らげてしまった。


そうして今度は生のサラダが出てきたのでこれも少し時間をかけて食べた。


最後のデザートは二等辺三角形のレアチーズのケーキにブルーベリーソースのついたバニラアイス。先に溶けてしまうアイスをソースと共に食べれば、控えめな甘さと冷たさが口いっぱいに広がる。チーズケーキもしっとりして濃厚な味がする。


全て食べ終えて満足した紗枝は食後のコーヒーを飲みながら一息吐いた。




「美味しいものを食べると会話がなくなるって本当ですね」




冬木と新見は何だかんだ話していたが、緊張とあまりの美味しさに紗枝は殆ど会話に加わらず、二人もそれに気付いたのか必要以上会話をふることもなかった。


冬木が上機嫌そうにコーヒーを傾ける。



「そういやこういう店は初めてっつってたよなぁ?」


「はい。以前のお店も初めてでしたけど、ここまで本格的なお店に来る機会があるとは思いもしませんでしたので、今日は良い体験をさせていただきました」


「初めてにしてはテーブルマナーも綺麗でしたよ」


「ありがとうございます」




もし綺麗に見えたというのなら、それは手本にした冬木と新見の食べ方が綺麗だからだろう。


食後の飲み物も終えて余韻を楽しんだ三人は席を立ち、地下駐車場へ下りると、来た時と同様に新見が運転する漆黒のジャガーに乗って冬木のマンションへ向かった。


店を出て気が緩んだのか昼食を食べただけなのにドッと体が重くなる。


レストランという言葉に一瞬、昨夜の義兄の姿が頭を過ぎった。


父も義母も義兄も特別な日はレストランに行くけれども、きっと行ったとしても今日紗枝が呼ばれたほどの高級な店ではないことは確かである。


ドレスコードの店であったとしてもあの父のことだからこんな風にドレスを買ってくれるなんて夢のまた夢、一人だけ制服で行かされるのがオチだ。


それを考えると僅かだが溜飲の下がる思いだった。


いきなりのこととは言えど、連れて来てくれたことに感謝すべきだ。




「冬木さん新見さん、今日は招いてくださって本当にありがとうございました」




車の窓ガラスに映るお嬢様然とした自分の姿を見つめ、ガラス越しに冬木と視線を合わせた紗枝は少しだけ照れ臭そうに微笑んだ。

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