こわいおはなし

かめかめ

走れ、兎のように

 駅からの帰り道。愛美はいつもビクビクしながら歩く。愛美が暮らすアパートは電車の納車場にちかい田舎の駅のそばにあり、残業などで深夜近くまで遅くなってしまうと人通りはなく、街灯も少ない。近所には公園や神社があるため木立が多く、それがなお一層暗さに輪をかけている。

 数日前「痴漢出没!注意!」と言う看板が張り出されているのを見つけて、恐怖のあまり鼻水が垂れた。すび。と鼻をすすり何食わぬ顔で通り過ぎたが、内心ではきゃーきゃーと叫び声を上げつづけていた。

 今日も遅くなってしまった。お世話になった先輩の結婚を祝う会だった。お目出度い会だ。さすがに途中で帰宅するわけにもいかない。二次会は絶対、断るぞ!と決意していたのに。

 料理が無くなり、そろそろお開きかな?と思ったところへケーキバイキングのテーブルが運び込まれた。そこから二時間、ケーキ食べ放題大会に突入した。出席者はほとんど女子という今夜の宴会は最高潮の盛り上がりになり、ケーキは次から次から継ぎ足され、おかげで終電に乗る始末。

 やけになってケーキを食べ過ぎた腹が重いが、気分はもっと重い。終電が行ってしまうと、途端に静寂と暗闇が押し寄せる無人駅の改札をさっと通り過ぎる。

 だから田舎はイヤなのよ!怒りを駆り立てることで恐怖を押さえつけ歩き出す。

 バッグの持ち手を両手で強く握る。ヒールがカツ!カツ!カツ!と勢いよく鳴る。ああ実家暮らしだったら家族に迎えに来てもらうことだって出来たのに。一人暮らしのアパートまで真っ直ぐ一本道だ。角を曲がらなくて良いだけでも有難い。もし何度も角を曲がらねばならないのだったら、曲がり角のたびに変質者が潜んでいるのではないかとおびえねばならなかっただろう。

 ふと自分の靴音の合間に他の音を聞き取り、愛美は身を堅くする。カツ!カツ!という自分の足音。ザザザッザッザザッ!といやに急いでいる乱雑な足音。

 愛美は背筋が冷たくなったのを感じる。

 だれ?なんでそんなに急いでるの?どうしてリズムが狂った歩き方なの?

 たとえどんなに急いでいたとしても自分の歩調というのはそうそう狂わない。歩調が狂うのは他人と一緒に歩いている時。一緒に歩いている人と歩調が合わない時ではないだろうか?

 一緒に歩いている?誰かと?

 耳をすます。カツ、カツ、カツ。ザッザッ、ザザザッ、ザザッザッ、ザザッ。足音は愛美のもの以外には、一つしか聞こえない。後ろから歩いてくるのは一人だけ。

 その人は誰かと歩調を合わせようとして合っていない。

 この道にはその人と愛美しかいない。


 ……私、ツケラレテル?


 頭の中が真っ白になった。ダッと走り出す。家まで残り500メートル。お腹が重い。あんなにケーキ食べなければよかった。

 ザザッ!

 後ろから来る足音も、明らかに走りだした。いやだ、いやだ、怖い!足がもつれ転倒する。膝と手のひらを擦って血が出たが、愛美はそんなことにも気付かない。必死に前へ進もうとする。立ち上がることが出来ない。声も出ない。

 ……コツ、コツ、コツ。

 走って追ってきていた足音が、ゆっくりとした歩調に変わる。愛美が起き上がれないのを見て、じっくりと近づく気になったのだろう。

 全身を耳にして、愛美は必死で足音を聞いている。少しでも前に。少しでも家に向かって進もうと地面を這う。足音はゆっくり、しかし確実に近づいてくる。

 もう、すぐ後ろ。今にも肩を掴まれるほど。

 近く。


「だいじょうぶですか?怪我はありませんか?」

 不意に後ろから声をかけられた。愛美は驚きのあまり恐怖を忘れて振り返る。三十代前半くらいのサラリーマン風の男性が少し息を切らせて歩いてくる。手には傘を持っている。愛美のピンク色の傘だ、バーゲンセールで2980円で買った。愛美は呆気にとられて動きが止まる。

「急に走り出すからビックリしました。大丈夫ですか?」

 男性は愛美のそばに膝をつくと、血が滲んでいる愛美の足にハンカチを巻いてくれ、手を貸して立ち上がらせてくれた。

 男性がニッコリと微笑む。なんて爽やかな笑顔。愛美はぼうっと見つめた。真っ暗な夜なのに太陽に照らされたかのように輝いて見える。

「よかった、ようやく追いつけた。電車に傘を置き忘れたでしょう?はい、これ」

 男性が差し出す傘を愛美はボンヤリと受け取る。

 やだ私、勘違いして。いい人なのに、逃げたりして……。

 愛美は顔が真っ赤になっていくのを自覚した。お礼を言おうと口を開けたが言葉にならず、パクパクと口を開け閉めした。

「いや、でも本当に良かった。追いつけて。 傘を渡せた。やはりハンデは必要ですからね」

 ハンデって?小首をかしげた愛美に男性はニッコリと笑いかける。

 愛美は背中に氷水を浴びせられたように感じた。目の前の男性は優しい笑顔なのに、なぜだろう?こんなに爽やかに笑うのに、なぜだろう。なぜこの人の目は笑っていない?

「追われる者が無力だと、追う気が半減してしまうんですよ」

 男性は笑顔を深くすると、スーツの内ポケットからアーミーナイフを取り出した。するどく尖った刃先がはるか遠くの街灯をうつして光る。

「死ぬ気で逃げてくださいね。立ち止まったら……、死にますよ」

 命をかけた追いかけっこが始まった。

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