第四話 深夜の訪問者

 中途半端な時間に菓子など腹に入れてしまったので、酒も晩飯もなんだか時機(タイミング)を逃してしまった。周辺の地図を眺め、街道の先の情報は明日改めて集めることにしたら、今夜は特にすることもない。

 とりとめない考え事ついでに長椅子の上に転がっていたら、いつの間にかうとうとしてしまったらしい。グランが薄く目をあけると、真上の天井を戦場にして、燭台の灯りと夜の闇が静かに勢力争いをしていた。紙のこすれる音がすると、燭台の灯りが揺らいで天井の闇が色濃くなる。エレムはまだ起きて、本でも読んでいるようだった。

 今更改めて、寝台のある部屋で寝直すのも面倒だ。眠気が覚めないうちに本格的に眠ってしまおうと、もう一度目を閉じたところで、部屋の外にある階段をゆっくりと登ってくる足音が聞こえてきた。

 隣の部屋の利用者だろうか。だが、足音が止まったのは彼らの部屋の前だった。

「あの……」

 控えめに扉を拳で叩く音と一緒に、遠慮がちなか細い声が聞こえてきた。そこでやっとエレムが、外に人がいることに気がついたらしい。驚いた様子で顔を上げて、椅子から立ちあがったのが音で判った。グランは薄目をあけたまま、首だけを扉の方に向けた。

「下の部屋を使ってる者なのですが……」

 どうやら女のようだが、扉越しの低い声なので、若いか年寄りかも判らない。

「夜分遅くにごめんなさい、部屋で急に連れが……。男の人の手をお借りしたくて……」

「お連れの方が、どうかしたんですか?」

 言いながら、エレムが急ぎ足で扉に駆け寄り、内側から錠を外す。

 その瞬間、外の気配が変わったのが、グランにははっきり判った。

 今まで一人しかいないと思っていた人の気配が、急に増えた。一人が無防備に気配を晒して近づいてきたから、その後を足音を殺した何人かがついてきていたのに気付かなかったのだ。

 まずい、と思ったときには、既に扉は勢いよく外側から蹴り開けられていた。グランはとっさに長椅子から床に転がり起きた。

 鈍くなにかを打つ音と、重さのあるものが壁に打ち付けられる音が同時に聞こえた。エレムが背中から壁にたたきつけられるのと、黒いフードをかぶった細身の人物が、鋭い動きで部屋の中になにかを投げつけたのが見えた。

 かつん、とテーブルの上で固い音がして、部屋の中に暗がりが広がる。なにを投げたのか知らないが、燭台の火が潰されたのだ。同時に、増えた気配が足音と一緒に部屋の中になだれ込んできた。

 三人……いや最初に声をかけて来た者を入れて、四人。足音と気配は、明らかにさっきグランがいた場所に向かっている。エレムの気配がしないのは、最初に殴り倒されて気を失っているのだろう。

 剣を手に取る暇はなかった。最後に見た家具の配置の記憶を利用して、グラン自身は既にテーブルの陰まで移している。外の町あかりがわずかに窓から差し込んでいるので、完全な闇というわけではない。わずかではあるが、人の形をした影と気配のおかげで、相手の動きは把握できる。

 それは向こうも同じだろうが、この暗がりの中、まわり全員が敵というのは乱闘には有利だ。仲間を誤って殴り倒す心配がない。

 一番に近づいてきた者が、長椅子に足をとられたのか、均衡(バランス)を崩して大きく踏み込んできた。体勢を立て直そうと伸ばしたその腕をつかみ、そのまま手前に大きく引いてやる。前のめりに転げるその勢いも利用して、グランはみぞおちをひざで蹴り上げ、力を抜かずそのまま横に蹴り倒した。

 すぐに残りの二人がグランを押さえ込もうと肩と腕に触れようとしたが、その時には既にグランはひざを屈めて体を沈ませていた。頭の上で、二つの手は虚しく空を切った。

 近くにいた者が、腕を空振ったせいで体の前ががらあきになった。グランはその懐に背中から潜り込んで襟元をつかみ、立ち上がる勢いも乗せて背負い投げた。もう一人の方へ。

 人一人の体重など、たとえ投げつけられるのが見えていても、簡単に受け止められるものではない。ましてや足下もよく見えない暗がりの中である。投げつけられた方は足をもつれさせ、背中から勢いよく床に倒れ込んだ。これで片付けたのは三人。

 不意に、場違いな花の香りが鼻先をかすめた。グランは反射的に、半歩ほど体を後ろに引いた。

 鋭く風を切る音がして、さっきまで自分の顔があった場所を、靴の踵らしいものが横切った。最初に部屋の扉を破った者に、いつの間にか距離を詰められていたのだ。

 最初の蹴りを空ぶったものの、そいつはその勢いで体をひねり、振り返りざまに左肘をグランの胸元に打ちこんできた。乱闘には不向きな暗い部屋の中なのに、無駄のない素早い動きだ。今までの三人もけして弱くはなかったが、そいつは格が違う。

 肘をよけたら、今度は右の拳が飛んできた。速いが予測できた動きだ。グランは左手で受け止めて腕の動きを上にそらし、右の下腕を相手の胸元に打ち付けた。重い手応えと一緒に、相手の体が一瞬浮く。

 そのまま床に向かって、背中から叩きつけてやる。はずだったのに、そいつは猫のように後ろに飛び退くと、頭の前で腕を交差させ、勢いに全体重を載せてグランの胸元に突っ込んできた。

 予想外の動きと早さだった。よけるのが間に合わず、グランは背中から壁に突き飛ばされた。痛みより先に息が詰まる。背中全体の痺れるような痛みが後から追いかけてきた。

 倒れこそしなかったものの、痛みで上半身を支える力が崩れて体がくの字に折れ曲がった。丸く無防備になったグランの背中に、上から強い衝撃があった。組んだ両手を打ち付けられたのだろう。倒れ込みそうな体を支えようと、無意識に右足が前に出るのと、下からもう一度みぞおちを突き上げられたのはほぼ同時だった。

 その原因は相手のひざか、それとも拳か、それをもうグランには判別はできなかった。覚えているのは口の中に広がった血の味と、闇の中にかすかに漂う花の香りだけだった。



 頬に直に触れる湿った布の感触と、口から鼻に抜けていく鉄の匂い。

 目を開けると、燭台の頼りない灯が、天井の闇を追い払おうと必死に頑張っているのが見える。などとぼけた頭で詩人になってしまったのはほんの一瞬のことで、上半身の裏表に広がる鈍くて強烈な痛みが、すぐにグランの意識を現実に引き戻した。

 声を上げなかったのは、エレムの顔が視界の端に映り込んだからだ。エレムは、床に仰向けに転がったままのグランの口元を、濡れた布で拭っていた。

「よかった目があいた。大丈夫ですか?」

「……なわけねぇだろ」

 喋ろうとするだけで体の痛みが強まって、息が止まりそうになる。打たれたところが熱を持ち始めているのか、痛いだけでなくじんじんと熱い。ここまでぼろぼろにやられたのも久しぶりだった。

 それでも、腕は動く。手の指も動く。どうやらひどいのは背中と胸や腹の打ち身だけで、折れているところはないらしい。グランがひととおり、体の動きを確認するのを見て、エレムはほうっと息をついた。

「お酒使いますか」

「あ、ああ……」

 飲みますか、ではなく『使いますか』なのは、要は口の中をゆすぎますか、という意味だ。荷物袋を取りに立ち上がるエレムの動きがどこかぎこちないのは、最初に殴り倒された時に打たれた場所が痛んでいるのだろう。

 痛みを奥歯で噛み殺し、必死の思いで体を起こし壁に寄りかかると、燭台のおぼろな灯りに照らされた部屋の中が見渡せた。当然ながら、押し入ってきた四人の姿はとうにない。乱闘のせいでひどく散らかってしまったが、なくなったものはなさそうだった。

 出番のないまま終わってしまった剣は、置いた場所にそのまま残っていた。手の届く所においておかなかったのは迂闊だったが、この狭い部屋の中では手に取れても、抜くのは無理だったろう。

 しかし。

 テーブルの上の、確か燭台が置いてあった位置のすぐ側に、小さなナイフが突き刺さっている。その側には、人差し指のつめの長さほどに切り落とされた蝋燭の先端が転がっていた。

 痛みや打ち身の熱からくるのとは違う悪寒が、ぞくりとグランの首筋に走った。最初に燭台を潰したのは、見事なまでの狙いで投げつけられたあのナイフだ。ということは、賊は刃物を持っていたのだ。

 それなのに最後まで素手で、こちらが動けなくなったのにとどめも刺さないまま放置していなくなるなど、彼らは一体なにをしに来たのか。

 疑問を言葉にする前に、戻ってきたエレムがグランの横にかがんで、栓を抜いた火酒の瓶を差し出した。ご丁寧に桶まで持ってきている。火酒を口に含むと、切れたところがじんじんと痛みはしたものの、何度か桶に吐きだしたらだいぶ血の匂いが消えてさっぱりした。

「痛み止めの軟膏があるんですが、熱くなってるようだから先に冷やした方がよさそうですね。脱げますか」

 グランが放り出そうとした酒瓶を慌てて取り上げながら、エレムが聞いてきた。

 ここで痛くて脱げないと言えば、容赦なく布を切られてしまう。どう動けば一番痛みがなく脱げるものか。グランは普段の倍以上の時間をかけて、脂汗を流しながらようやっと上衣を脱いだ。

 脱ぎ終わる頃には、とっくに桶に新しい水を張って布を濡らして待っているかと思っていたが、エレムはさっきと同じ姿勢のままで、グランの横にひざをついていた。

「……どうした?」

 問いかけると、エレムがぎこちなく顔を動かした。その視線の先にあるのは、寝台の置かれた部屋だった。エレムがランジュを寝かしつけたときに閉じたはずの扉が、今は半分開いている。

 そういえば、かなり派手にやっていたのに、ランジュはあの騒ぎに気付かなかったのだろうか。まだ寝ているとしたら、相当な大物なのではないか。グランの疑問を読み取ったかのように、エレムは力なく首を振った。

「ランジュが……いないんです」 

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