1.08〈早苗《さなえ》〉
――チッ
パーティーメンバーに聞こえるのも構わず、早苗は舌打ちをした。
わざわざ一人につき往復1,200ジェムも払って、蒸気鉄道の鈍行でやって来た推奨レベル14の鍾乳洞。
依頼を受けて初めて会うパーティーに参加しての冒険だったのだが、前衛の一人が「ごめん! 彼女から連絡来たから!」と、戦闘中にもかかわらずログアウトしたのだ。
(今冒険をやめたら赤字よ。大赤字だわ)
たかがゲーム。そう分かっていても、いや、だからこそ。
ゲームという義務でも何でもないものに、人生の時間という財産を皆でつぎ込んでいるのだ。他人の時間というリソースを共有していながら、自分の勝手な都合でそれを本当の無駄にしてしまう人を早苗は心の底から軽蔑し、嫌っていた。
なんとか戦闘を終え、フル・パーティの5人ではなく、前衛の一人足りない4人でなんとか黒字になる冒険プランを立て直そうと頭をフル回転させていた早苗の目の前で、今度は回復職の頭上に[睡眠]と言うステータスが浮かび上がる。
イマース・コネクターがプレイヤーの睡眠を感知して表示するオートステータス。所謂「寝落ち」と言うやつだ。
この状態で攻撃を受けたりすれば、自動的にログオフされる。
つまり、こいつももう冒険の役には立たないと言うことだ。
「わはは、これじゃあ鍾乳洞の攻略は無理だな。しょうがねぇな。また明日だ」
早苗に冒険を依頼してきた戦士が、悪びれもせずにそう言ってログアウトの準備を始める。
「ちょ……ちょっと待って! こんなところでログアウトされたら、私一人じゃ街まで戻れないわ」
「え? いや、明日にでもまたここから冒険を再開するから」
「無理よ、私この後友達と冒険に行くことになってるもの。それにあなた達とは今日だけの約束よ。せめて[双子の水晶]でも……」
転移アイテム[双子の水晶]は、最初に[カストルの水晶]をセットしておき、対になる[ポルックスの水晶]を割ることで、最初にセットした[カストルの水晶]の場所まで転移する、GFOではよく使用されるアイテムだ。
基本的には課金アイテムだが、モンスターや宝箱からもよく見つかるため、低レベルの冒険者でもそこそこ気軽に使用することができた。
しかし、急に声をかけられた今日は、さすがの早苗も用意していない。
自分でパーティーを作るなら、いざと言う時のために行きと帰りの水晶くらいは用意していて然るべきだと思っている早苗は、パーティーリーダーである戦士に詰め寄った。
「……
まるで「なんだこいつ、めんどくさいな」とでも言いたそうな態度で、その戦士はとっととログアウトする。
最後に残っていた遠距離攻撃職の女性も「みんなリアル優先だから、ごめんね」と笑いながら、早苗のことをまるで『ゲームごときに本気になっている哀れな中学生』を見るような目で見ながらログアウトしていった。
しばし呆然とした後、早苗は我に返る。今日ここまでの冒険で得たアイテムは、HP回復ポーション(小)3つ。手に入れたジェムは245。使ったジェムは蒸気列車のチケット代1,200。
死に戻りで失われる平均の損失アイテムやジェムは3分の1。
計算するまでもなく、最初から割に合わない。
彼女はイラつき、目の前ですやすやと眠る回復職の男に蹴りを入れようとしたが、こんな所で
そう、こんな状況にあっても、彼女は何とか割に合う結果を導き出そうと冷静に考えていた。
(とりあえず、上のフロアの
パーティメニューから[脱退]を選択してパーティーを抜け、眠っている男に向かってあかんべーをすると、早苗は
◇ ◇ ◇
アラート。
(仕方ない、遠回りになるけどこっちの道から……)
アラート。
(こっちもダメか。それなら、まだマッピングしてない道だけど、こっち側から回り込んでみよう)
アラート。
(……)
アラート。
アラート。
アラート。
「……
背後以外の道を全てモンスターのアラートに囲まれ、早苗は覚悟を決めて気配を消す呪文を小声で唱える。
もちろんこの魔法の効果は100%ではないのだ。見つかれば死に戻り。見つからなかったとしても、知らない道を進まなければならない。
分が悪い賭けではあったが、今はこれが最善の策だ。
(なんて無様な冒険プランなのかしら)
自嘲気味に唇の端に笑みを登らせると、見つからずにやり過ごせる確率を数十%上げた早苗は息を殺し運を天に任せ、鍾乳石の影の暗がりに身を潜めた。
「……ク・カ・カ……カ・カ……」
ぞろりぞろりと壁を這う音とともに、皮の緩んだパーカッションを叩いているような鳴き声が聞こえてくる。
その声を聞いた早苗は、血の気の引いた顔でその場に座り込んだ。
これは彼女の苦手な
GFOの世界の
その姿を思い出しただけで早苗の肌には粟が立ち、体から力は抜けていく。彼女は残った力を振り絞って両膝を力いっぱい抱え込み、ただぎゅっと目を瞑って蟲が立ち去るのを祈ることしか出来なかった。
ぞろりぞろり……。
複雑に絡み合う鍾乳石の林の中をムカデの足音が進んでゆく。
ただ音を立てないように、ただ息を殺して、早苗は自分の膝を抱きしめた。
4~5分もそうしていただろうか? いや、時間を確認してみれば、実際はまだ30秒も経過していない。早苗は冷静に時間を確認して立ち上がった。
(死に戻るにしたって、
――カラン……。
自分では落ち着いたつもりでいても、体はそうではないようだった。
無理な力を入れていた右手が[レアリティ2]オーク・ワンドを取り落とし、乾いた音が鍾乳洞の中に響き渡る。
(ダメね、今日はこれ以上冒険は出来そうにないわ。萌花たちには説明して、今日は街で雑談でもしながら……)
無様な自分の姿にため息を付きながら屈んでワンドを拾う彼女の指先を、500mlのペットボトルほどの太さの何かが、軽く触れて横切る。
慌てて顔を上げた彼女の目の前、手を伸ばせば触れられるような距離に、ひっくり返した中華鍋のような顔がツヤツヤで感情のない巨大な目とともに浮かんでいた。
「……ク・カ・カ……」
その顔の天辺から先ほど指先に触れた2本の触覚が伸び、ふらふらと揺れている。
向こう側には3m以上も続く沢山の脚・脚・脚……。
赤紫色の液体が滴る大顎が軋んで開き、逃げることも忘れて立ち尽くす早苗の首筋に向かって、ゆっくりと近づいた。
(ああ……死ぬんだわ、私)
あの時、現実の世界では母親が守ってくれた。
30cmもあるそのムカデを母親は素手で払い飛ばし、早苗を抱えて逃げ出したのだ。
今でも母親には、その時受けた毒によって左腕に灼けただれたような傷が残っていたが、それでもそれだけの犠牲で、時には子猫をも襲うというそのムカデから無事に逃げ出せたのだから、あなたは運が良いのよと母は笑っていた。
しかし、この世界に母親は居ない。
……いや、この世界だけではない。自分でもなんだか分からない反抗心から、中学生になってからは親と距離をとっていたように思う。
現実でも、ゲームの中でも、彼女は強くあろうと、自分でなんでも出来るようになろうとして来た。
早く大人になりたい。自分一人で生きていきたいと思っていいた彼女は、それがただの子供の我侭にすぎないと気づき、自分が両親にとってきた態度を心の底から後悔した。
(……助けて……お母さん……助けて……
「……た……助けて……!」
ひりついた唇から、久しく口にしたことのないそんな言葉が漏れる。
それでも、その言葉に答えてくれる人など居ないことは、彼女には分かっていた。
「
離れた場所から呪文詠唱の声が聞こえ、早苗の周りを淡く輝く金色の障壁が包み込む。
ムカデの大顎はその壁に弾き飛ばされ、蟲は怒りの鳴き声を上げた。
「――助けに来たぞ。倒して良いのか?」
呪文詠唱の声から一瞬の間もおかず、早苗の耳元で楽しげな声が聞こえる。
訳も分からず何度もうなずいた早苗の頭を軽くぽんっと叩いて、男は立ち上がった。
「古の盟約により
左手の銀のガントレットで拳を振り上げ、空中の何かを掴んで投げ飛ばすようにムカデへと伸ばす。
呪文詠唱に伴って男の髪とマントがはためき、突風が発生する。
しかし、その風が蟲へと襲いかかるより早く、男は右手の金のガントレットを振り上げ、もう一つの呪文を詠唱した。
「
白色の炎と、それを巻き込み更に燃え上がらせる透明な風がムカデの体をズタズタに切り裂く。
[999,999,999]
[999,999,999]
ありえないダメージを表す数字を2度発し、巨大な光の粒子となって消え去った蟲を背にして、頭上に[
「どうだ?」
「え? ……あぁ、ありがとう。大丈夫、怪我はないわ」
おずおずと伸ばした早苗の手をぐいっと引き寄せ、男は眉根を寄せる。
「そうじゃなくてさ、俺の呪文詠唱がかっこ良かったかって聞いてんの」
早苗はこの男が何を言っているのか、真意を図りかねて言葉を失う。立ち上がった彼女が大丈夫そうだと判断したシユウはしばらく早苗の顔を見つめていたが、反応が無かったのに首をひねると幾つかのウィンドウを開いて何かを調べ始めた。
「……やっぱ『古の契約により』ってのはありきたりだったかな……もういっそのこともっと短く『来たれ! 暴風の王!』でもいいか……いや、そもそも『暴風の王』ってのがイケてないのか……?」
何らかの辞書的なもの、たぶんネットに繋いでかっこいい言葉を探しているのだろうと早苗は理解し、くすっと笑う。
そもそもGFOに「呪文詠唱」などというシステムはない。
呪文の名前を正確に口にすれば、その前後にどんな言葉を並べようが、威力にも成功率にも何ら関係はないのだ。
それなのにこの……たぶん単なる不正プログラムであり、人格は持っていないはずのボットは、小学生の男の子がヒーローの前口上を暗記するように、かっこいい呪文詠唱を模索している。
萌花たちと見た本当に機械的なボットとは全く違うこの男に、強くて子供みたいで、問答無用で自分を守ってくれるその存在に、早苗は急激に好意を寄せていった。
「……かっこ良かったわ」
ぶつぶつとまだ呪文詠唱の言葉を悩んでいるシユウに向かって、早苗は伏し目がちにそう言った。
「うーん……『暴風の王』はやめて『風神』にするか? いや、でもそれじゃ……あ? なに?」
「……かっこ良かったって言ってるの。すごく強かったし、呪文もすごかったわ」
早苗の言葉を噛みしめるように聞いたシユウの表情が、みるみるうちにニヘっと緩む。
ウィンドウを全て閉じ、両腕を脇の下に引き寄せてガッツポーズを取ると、シユウは「よっし!」と気合を入れ、にこにこ顔のまま早苗の肩に腕を回した。
「だろ? かっこいいんだよ。何しろ3日かけて考えた呪文だからな。あ、もちろんお前も可愛いぞ。かっこいい俺の半分くらい、な。シャミラム」
普段、初対面の男の子にそんなことをされたら、その後の対応如何によっては警察沙汰にでもしてしまう勢いの早苗だったが、今は素直に肩を抱かれ、それどころか頬を赤らめて、シユウの胸にコツンと頭を寄せた。
(可愛いだって……私が……)
「あの、私……シャミラムじゃなくて早苗って呼んで欲しい」
「ん? [魔術師]シャミラムじゃないのか? まぁいい、分かった早苗。どうせ街に戻れなくて困ってたんだろ? 俺に任せておけばちゃんと守ってやる」
満面の笑顔でシユウに向かって頷くと、早苗は彼の腕の中で、きゅっと衣服の裾を握りしめる。
不正プログラムであるボットとこんなに接近してはいけないと言う頭の中の警告は、強く凝り固まっていた彼女の心の壁を溶かす温かい何かに飲み込まれ、全て体の外に流れ出てしまったのだった。
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