第3話 無力さを知っている2

 都雅はすばやく腕を上げた。マントを広げて後ろの美佐子を守るように構える。

 マントに隠れていた都雅の腕があらわになった。添木を当てただけの簡素な手当てと、夜の中に目立つ包帯の白。

「都雅ちゃん、その腕……!」

 つぶやいた美佐子の胸を、都雅の腕が遠慮なく後ろに押す。突き倒すように肘が当たり、美佐子はよろけて後ろにさがった。驚いて顔を上げる。菊がかわりに抗議の声をあげるより、都雅の方が早かった。

「とっとと逃げろ」

 その一言で、美佐子の表情が変わる。

「都雅ちゃん、でも!」

「頼むから言うことを聞いてくれ。菊、お前分かるだろう。今回くらいは」

 聞き分けろ、と珍しく、本当に珍しく懇願するように言う。菊にも相手が何者なのか、分かっているはずだ。何者で何をした相手で、自分たちがどれだけの危険にさらされたのか――そして今も、何より美佐子がどれほどの危機に身をさらしているのかを。

「美佐子ちゃん。都雅の言う通りじゃ。わしらでは邪魔にしかならぬ」

 菊にまで言われて、さらに逡巡する気配はほんの少しの間のこと。菊に急かされるまま、駆けていく足音がした。

 都雅は、ただ笑う魔族を睨み続けている。

 ――次の瞬間、ふいに息を呑んだ。



 どさり、と音がした。

 人々の視界の中で、黒マントの少女が、冷たい床の上に倒れる。

 あまりにも唐突で、頭を吊られていた操り人形マリオネットが、突然支えを失ってしまったかのようだった。

 音に気がついて、猫を連れた少女が振り返った。彼女は、友人が床にうつ伏せになっているのを見て、小さく悲鳴を上げた。



「蓮ちゃん」

 成り行きを見守っていた奏が、静かに声を上げた。

 その後ろで、蓮が眉をつり上げる。これから、このお人よしが口にすることなど、予想するまでもなく彼には分かる。蓮が奏に対して、もっとも許しがたいと思っていることだ。あまりにも彼らしくて嫌になることだ。

 猫を連れた少女が駆け戻ってくる。黒マントの少女が意識を失っているのに気付き、懸命に背負いあげようとしていた。

「あの子達を逃がすよ。お嬢さんと一緒に、行って助けてあげてくれないか」

 ――ほぅら、やっぱり。

 また、このバカは、こりもせずにこういうことを言う。

「念のために、とりあえず、お尋ねしてあげるけどね。奏はどうするの」

 尊大に、不機嫌を隠しもせず蓮は言った。問いかけるというより、予想通りの答えを返してきたら承知しない、という不穏さをにじませて。奏も、蓮の言いたいことなど、分かっているはずだ。ちらりと振り返って笑った。

「俺はここに残って、少しでも時間稼ぎしておくよ」

「あのねえっ!」

「蓮ちゃん。時間がないんだ」

「悪い癖だ! いつもいつも言ってるけど、悪い癖だ。どうしていっつもそうなんだ。そこの女と違ってぼくらは組織の権威と責任を背負ってるわけでもないし、生活のための小銭稼ぎなんだから。あれがやばいんだったら、結界に穴でもこじ開けて逃げればいいじゃないか! 依頼なんて他にもいくらだってある。そこまでするほどのことじゃないだろっ?」

 蓮は崇子をはっきりと指差して怒鳴る。びくりとして、動けずにいた崇子が肩を震わせた。

「蓮ちゃん、頼むから」

「じゃあ、ぼくも残る」

「駄目だよ、逃がした先であの子ら守ってあげる人がいなきゃ」

「嫌だ! ――ぼくを逃がそうなんて考えて言ってるんだったら、絶対許さない」

「うん、違うよ。本当は俺だってひとりで残るより蓮ちゃんにいてほしいさ」

 心細いしね? 奏はいつもの笑顔で嘘を吐いた。

 その間にも廊下の向こうでは、ぐったりした友人を背負った少女が、逃げていこうとしている。守るためだった。恐れを忘れるほど、その思いは強いように見えた。

 そして、愉悦を顔に浮かべながら、ゆっくりと魔族が一歩踏み出す。追い詰めて楽しむように。

「蓮」

 前を向いたまま後ろの壁を指差して、奏が強く言う。

「言うこと聞きなさい」

 今までの口調とは違う。なだめるようなものではない。決して押し付けないけれど、強さのこめられた声。

 蓮はその声に、口を閉じた。反論しようとした言葉を飲み込む。

 声を荒げられたわけでもないのに、逆らえない。瞳にだけ凄まじく、自分の意を汲まない奏への怒りを見せることしかできなかった。唐突にくるりと踵を返す。

 口を挟めずにいた崇子になど見向きもせず、廊下の突き当りへ向かう。コンクリートの壁の前に立つと、蓮は怒りに任せて手を振り上げた。華奢な拳を叩きつける。

「蓮さん……!?」

 崇子が驚いて声を上げる。崇子には、ひとりで居残ると言う奏も、蓮も、気が触れたように見えたかもしれないけど、どうでもいい。

 堅く冷たくそびえる壁が、轟音をあげて崩れた。さすがに魔族も足を止めて彼らを振り返った。その間にも蓮は残った壁を蹴りつけて、自分が通り抜けるための穴を広げていた。

 蓮は穴の縁に手をかけると、きつい声で言った。

「終わったら、キルフェボンのタルト、全種類」

「……了解」

 奏が苦笑する。その顔を見もせずに、蓮は穴を抜けて駆けて出した。困惑する崇子に、奏は魔族の方を見たままで、穏やかに言う。

「お嬢さんも、行って」

 崇子はうつむきがちに頷いて、蓮の後を追う。



 魔族は、逃げた少女たちを追おうとしなかった。出ていった蓮たちを気にかける様子もなく、ひとりとどまった奏へ向き直って、立ち尽くしていた。奏なら片手でその首などへし折ってしまえそうな、か弱い少女の姿のままで。

「随分と素直に足を止めていてくれるんだな。俺としては助かるけど」

 奏は変わらず呑気な声で言った。

「わたしにとって人間など、用心すべき相手ではないし、取り逃がすようなものではないからねえ。ただお前は、少し気になってのう……」

「おや、やっぱ気づかれたかな」

「もう一度聞いてやろう。今お前の前にいるのは、ただの人間だ。お前がわたしを害そうとしたところで、傷がつくのはこの娘。わたしを廃する良い方法でもあるのか?」

 さっきは逃げ出したくせに、と揶揄するように言った。馬鹿にされているのなど分かっているが、奏はまったく取り合わない。

 友人を背負って逃げようとしていた少女。懸命に何かをかばおうとする、力ない人の姿。あの姿には、覚えがある。さっき見せられた幻のせいで、余計に鮮明に思い出させられる。――逃がしてやりたいと、思った。それだけだ。

「俺も一応もう一回言っておくよ。俺は大抵の場合、女子供には優しいんだ」

 冗談のように言う。暗に、何の手段も持ち合わせていないのだと。

「ならばどうやってわたしを殺す。たった一人で立ち向かえる相手だとでも侮ったか」

 こだわる相手に、奏は少しだけ肩を持ち上げて笑った。

 皮肉でもなく、悲観的でもなく、いつも通りに。静かというよりは、穏やかに。こんな場面では、愚かとしか言い様のない表情で。

「別に、何も」

「何をしに、わざわざここに残った?」

「だから足止めだよ。どうにかする方法ってのはあるんだろうけど、今のとこ俺には分からない。だから何もしないよ。逃げてったあの子らが、何かいい考え出してくれればいいなあって思うくらいで」

「足止めだとて、抗える力があると、多少なり自信がなければできまい」

「そんなもの、必要ない」

 誇り高い魔族が、苛立ってきているのが分かる。

「そうやって君が俺の話に耳を傾けて、一秒でも二秒でも、とどまっていることが、十分に足止めになるんだよ。俺たちみたいに弱い存在には、たったそれだけの時間ですら、生きながらえる種になることもある」

 人間は弱く愚かだ。けれど生存本能にかけては、狡猾だ。圧倒的に不利でも、ほんの数秒あれば、道を探すことができる。生き延びるために与えられたわずかな隙ですら、見逃さず、生かすことができる。

 穏やかで諭すような口調に、相手は完全に気分を害したようだった。

 少女は、破壊された壁の穴からもれ入る月明かりに照らされて立っている。指一本動かさなかった。だが唐突に空気が動いた。

 見えない力に風が震えた。

 それは、さっきの非ではなかった。情け容赦のない相手の力に、奏は考えるよりも前に、身を守るように手を出す。

 投げつけられた力の塊が右の指先に触れた途端、小気味良い音がして、指がそれぞれあらぬ方を向いた。手首がまくれるように手が跳ね上がる。力の塊は、煎餅でも割るかのように、ばきばきと腕の骨を折りながら迫ってくる。肩の骨を砕かれ、勢いに耐え切れず足が地面を離れた。蓮が開けた壁の穴の横に、背中から激突したところで、放たれた力が霧散する。

 残っていた壁の残骸に亀裂が走った。そのまま壁にもたれるようにして、座りこむ。腕をだらりとぶら下げたまま、顔を上げる。

 いつの間にか、目前に少女が立っていた。

「即死はしない程度にしてやろう。苦しみながら死んでゆけ」

 無慈悲に見下ろす少女の腕が持ち上げられて、掌が彼の方へ向く。夜の闇を払って、空間に光が生まれる。奏は静かな眼差しで、微笑すら浮かべながらその光景を眺めていた。

 片手はぼろ屑のようになってしまって動かせないし、足も動かない。痛みが辛うじて彼を現実につなぎ止めていた。逃げる事もできないほどだったが、はじめから逃げるつもりはなかったから、さしても気に留める事ではないし。

 分かっていたことだ。

 もう自分のいる場所が見えない。光がまばゆくて目の前から、少女の姿も、長く暗い廊下も、月明かりも、消えていた。

 ただ、光が。――――光が。

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