第4話 持ちつ持たれつ3 



 無機質で、まっすぐな廊下が見える。窓の外には月の光、天井からはLEDの白い光。真昼の村などではない。

 やっぱり、これが現実。

「おーい、お嬢さん大丈夫か?」

 何が起きたのか分からなかったが、とにかく何かに引き込まれかけたのだけは分かって、奏は崇子に声をかけた。

 奏の隣に立っていた崇子は、青い顔をうつむけて震えていた。手を握り締めて、怯えている。みるみる目に涙がにじみ、体の震えで零れ落ちる。

 だけど、奏が見た光景は、奏にしか意味のないもののはずだ。崇子には何の関係もない、ただの古びた村の光景でしかないはずだ。

 ――違うものが見えている?

「おい、大丈夫か」

 崇子の肩に手をあてると、彼女はいっそう体をこわばらせ、息を飲み込んだ。目の前に奏が立っているのに、視線は彼を通り越している。見えていない。

「お嬢さん。おい、しっかりしろ」

 逃げた崇子を追いかけて、両肩をつかんで揺さぶると、彼女は息を吸い込んだ。揺さぶる奏の手のなすがままで、がくがくと震えていた崇子は、突然目を見開く。

 はるか遠くを眺めていた瞳が、唐突に奏の顔で焦点を結ぶ。首を巡らせて辺りをうかがって、目を瞬く。再び視線が奏に戻ってきた。

「……あ」

 体はこわばったまま、呆けたような声を出す。自分がどこにいるのか、何をしていたのかを懸命に思い出そうとしているようだった。

 それから息を詰めて、さらにもう一度辺りを見回す。冷たい廊下を、教室の白い扉を、すり硝子の教室の窓を見て、ようやく息を長く吐き出した。

「鬼頭さん……」

「だから、奏って呼んでくれってば。ややこしいだろ?」

 のんきに言うと、いぶかしげな表情で崇子が彼を見る。彼女は、こわばったままの顔で、ぎこちなく笑う。明るい口調に誘われるように。――笑おうとした。

 奏は、軽く笑みを返してから、歩きだす。

「今のは一体なんだったのかねえ」

 けれど唐突に後ろからすごい勢いで引っ張られて、止まった。

「ぐえっ」

 襟首を引っ張られて、つぶれたカエルのような声が出た。涙がにじむ。

 非難の眼差しで崇子の方を顧みる。奏のシャツを乱暴に掴んだ彼女は、すがりついているようだった。震える手で、前を指さす。

 廊下に、人影が見えた。

 まだ校内に生徒がいたのか。それとも、肝試しとか言って、隠れていたのだろうか。――いや、それはないか。スウェットなんてラフな格好で登校する生徒はいない。

「忘れものか? 夜は閉鎖だって言われただろ?」

 奏は、相手を驚かせないよう、なるべく明るい声をかけた。

 いや無駄かな。顎に手をあてて考える。

 ついさっきまで、そこに誰もいなかったと断言できる。妙な幻影がちらついた直後、現実を確かめるために辺りを見回したのだから、それも舐めるように見渡したのだから、間違いない。

 なのに、皓々と白い光に照らされて、一人の少女が立っていた。奏の声に応える様子もなく、ぴくりとも動かずに、そこにいた。髪の乱れもなく、呼吸の乱れも見られず、ただ唐突にそこに立ち尽くしていた。

 忽然と現れたとしか考えられない。

 ――霊か?

 崇子との昼の会話を思い出しながら、考える。だが、照らし出された少女の足元には影があり、少女がにそこに存在していることを証明していた。霊ではない。実体がある。

 ――幻覚?

 さっきの光景がよみがえる。高度な幻術ならば、影など再現するのも難しくはない。

 でも、奏自身の感覚が、あれは実体だと告げている。あれは、そこに存在する確かな何かだ。

 人間にしか思えない。でも、何か違う気配も混じっている。

 あれが皆の言っていた怪奇現象の元凶だろうか。ならばさっきの幻も、あれの仕業だろうか。とにかくそれを確かめて――思うと同時、奏は慌てて両手で耳を塞ぐ。

 大きく息を吸い込んだ崇子の口から、盛大な悲鳴が響き渡った。



 肺の空気を悲鳴で使いきってから、崇子はまた大きく息を吸った。

「高天原に神留ります 神漏岐 神漏美命以て 皇御祖神伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原に禊祓ひ給ふ時に 生まれませる祓戸の大神等 諸々の禍事罪穢を祓ひ給ひ清め給へと白す事の由を 天津神 國津神 八百萬神等共に聞こし食せと恐み恐み白す」

 酸欠で倒れるんじゃないかと心配になるくらい、祝詞をまくし立て始める。困ったときの神頼みを彷彿とさせた。

 耳の奥に悲鳴の余韻が響いて、奏は耳に手を当てたまま瞬きをする。びっくりしすぎて頭が働かない。こんな風にまくしたてて、意味あるんだろうか――考えてしまったが、効果はあった。

 廊下の向こうに見える影が揺らいだ。――よろめいたのではなく。確かに、揺らいだ。電波をさえぎられたテレビの画像がゆがむかのように。

 映像……?

 そんなはずはないのに。手を降ろして、奏は眉をしかめて少女を見た。

 ――俺の感覚が鈍ったか。あれはやっぱり、幻の類かと、思うが。否。少し違う。

 揺らいだのは少女自身ではなかった。それ自身に重なっている波動が苦しげにゆがんで、まるで少女自身がねじれたように見えただけ。錯覚だ。

 だが変化があったという事は、やはり人ではあり得ない。

「……術者か」

 少女の高い声が、場に切り込むように発せられた。ゆらぎも元に戻っている。利いたと思ったのはわずかの間。

 ――祝詞が利かない?

 それに気づいて、崇子は混乱したようだった。がくがくと震えている。祝詞を唱える声も消えてしまった。

「ようやっと術者が来やったか。術者の血肉は良い糧だ。ずっと待っておったのだよ」

 幻術でも何でもない、あまりに普通の少女の声だった。少し時代かかってはいるが。

 自分を排除しようとする相手がいるのに、少しも気に留めた様子もなく、少女は笑う。

「ついでに、少し腕試しがしたい。付き合うてもらおうかの」

 続けて――ひた、と音がする。

 ひた、ひた、ひた。……裸足で、歩いてくる音。

 祝詞が利かないならば、やはり霊の類ではない。そして魔族であったとしても、怯えて不意をつかれた巫女程度の祝詞では効果がないほどの強者という事になる。

「祝詞が利かないとなると俺の出番かな」

 近づいてくる少女に対し、奏は軽く言った。怯えきっている崇子に反して気負いもてらいもない。相手は少し顔をしかめたようだった。

「恐れぬか」

 不満と同時に、不快だ、という響きもこめられた声。その瞬間。

 ぴくりともしなかった少女の近くに、ただならない気配が生まれた。大きな光。蛍光灯の光など圧してしまう巨大なもの。力に押しのけられて、教室のドアが外れて倒れる。廊下のガラスが砕け、サッシがゆがむ。壁を、天井を削り、蛍光灯を割りながら、唐突に放たれたその強大な力。

 ――なんだこれ。

 奏は内心、毒づいていた。こんなに強大な力を持つ相手がいるとは、聞いてなかった。奇妙な事件の調査をしに来ただけのはずだ。魔族がいるとしても、こんな相手だなんて聞いていない。それをうかがわせるような要素はなかったはずだ。

 ――そうか、隠していたのか。

 今まで慎重に活動してきた『何か』は、術者が来たことで、隠れきれないのを悟った。だから実力行使をしようとしている。そしてよく分からないが――腕試し、と。

 協会が崇子のサポートに奏たちをよこしたのは、この可能性も考えていたからか。見えない物に対応する巫女と、見えるものになら対応できる奏と。

 崇子が震えながら柏手を打って、祝詞を唱えようとする。守りの技は、彼女の分野だろう。あの様子で無茶だなと思ったが、しないわけにも、せずにもいられないのも人間の性だろう。

「はいはいちょっとごめんよ」

 奏は、のんびりとした声で、崇子の肩を軽く押しのける。奏は彼女のかわりに、目前に迫った力の塊の前に立った。同時、無造作に片手を伸ばす。

「そんな、無茶……奏さん!」

 崇子が驚愕の声を上げる。



 奏は、放たれた害意の塊を、キャッチボールのように受け止めて、素手で握りつぶした。光の塊が霧散する。

 辺りには静寂と闇が戻っている。驚きのあまりに崇子は恐怖を忘れていた。

「大丈夫なんですか……」

 声が震える。

 普通なら吹き飛ばされたり、圧死してもおかしくない。コンクリートの壁を軽く押しのけるほどの圧力があったのだから。

「ああ、平気平気。俺、作りが頑丈なんだよ」

 飄々と崇子を見ると、奏は手をひらひらさせて笑った。あまりに平然としていつも通り。骨が鋼鉄ででも出来てるんじゃないだろうか。

「この辺で起きてる怪奇現象とやらの元凶って、あいつだと思う? あれを倒せば終わりかな?」

 しかも彼は平気な顔で相手を指さして、崇子に問う。答えられずにいると、かわりに向こうにいた少女が応えた。

「倒すと言うか。昨今の人の子というものは、我らへの恐れの心をなくしたと見える」

 苦々しいその言葉、やはりその者が人でないことを示していた。その人ならざるものは、続けて言う。

「これは我が肉体ではない。あくまで借り物だ。隠れ蓑としてまとっていたに過ぎぬ、ただの人間だ。この人間の精神も肉体もまだ生きている。お前たちに、殺せるか?」

 隠れ蓑、とは同時に、人質のようなものだ。

 道理で違和感があったはずだ。崇子の祝詞に反応して揺らいだのは少女の体ではなく、少女にとり憑いた魔族の波動だったのだから。

 ――人間の弱いところを突いてくる。

 これを排除するには、少女の体から魔族を追い出さないといけない。そうでなければ少女を殺してしまう。

「うっわ、やらしーなぁ」

 奏が声をあげる。相手の脅しなどまるで利いていない顔と口調だった。

「俺、あんまり器用なことは得意じゃないんだけど、お嬢さん何とかできる?」

「え……」

 崇子は、何も言えなかった。立っているのがやっとで、状況を見ているのがやっとで。――協会から派遣されてきた者として、逃げ出さずにいるのがやっとで。

 彼女を見て、奏はぽりぽりと頭を掻く。それから突然、崇子の腕をひっつかんで一目散に逃げ出した。

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