第2話 縁側でお茶1

 学校から帰宅した都雅は、狭い玄関で思わぬものを見つけた。

 子供用の靴だ。よく磨かれたイタリアブランドの皮靴は、気軽に履くようなものではない。埋め込まれたタイルの上に、きちんと揃えて、遠慮がちに隅の方に脱いであった。

 まさかなと思いながらも、少し不機嫌になる。

 靴を脱ぎ捨てて、ずかずかと家に入る。足音も高く和室を通りかかると、開け放した障子の向こう、縁側に座る祖母の姿がある。その隣に、小さな後ろ姿が見えた。そばに置かれた木の器には、昨日都雅が買いに行かされた煎餅が盛られている。大小の背中が眺めるささやかな庭では、祖父が家庭菜園の世話をしていた。

 ――何を呑気なことしてんだよ。

 肩に入っていた力が、一気に抜け落ちる。

「おや、お帰り都雅」

 都雅に気づいた祖母が、振り返ってのんびりと言った。手にした湯呑からは湯気が揺れている。寒くないのか。

「はいはい、ただいま」

 出鼻をくじかれた都雅は、手をひらひらさせながら返事を返す。――いや、そんなことより。

 なんでそいつがここにいるんだ。

 気を取り直して、祖母の隣の少年を見る。不機嫌と不審の入り混じった視線を受けて、少年は振り返った。まっすぐな瞳で都雅を見上げてから、丁寧に頭を下げた。

「お久しぶりです。お邪魔してます」

 よくしつけられた上品な物腰。それから無邪気な笑顔。誰でも思わず微笑み返してしまうようなもの。

 苦い思いが満ちてくる。本当にいい子だよなお前は。都雅は心の中でぞんざいに返す。そういう感情を隠すのは得意でないから、表に出てしまっているだろう。でも、あえて口にしないだけましだと思った。いや、もしかしたら、いつもの仏頂面で分からないかもしれない。どうでもいいけれど。

 都雅は腰に片手をあてつつ言った。

「お前、学校はどうした? 雅毅まさき

 その言葉に、少年の顔が曇った。彼の学校からここまで来るには、歩いて一時間はかかる。電車やバスを乗り継げばもっと早く来られるが、この子がひとりで乗れるとは思わない。

 神舞雅毅かみまいまさき、父親がレジャー・ホテル業を営むグループ企業の代表取締役で、都雅の弟だ。

「まあまあ、そんな怖い顔しなくてもいいじゃないか」

 うなだれた雅毅の頭をなでながら、祖母が言う。

「まーくんだって、たまには学校に行きたくない時もあるよねえ。まーくん、気にしなくていいからね。都雅姉ちゃんなんか、さぼってばっかりだから」

 口を挟まれて、都雅は大仰に顔をしかめた。

「あたしとこいつじゃ、話が違うだろ」

「お黙り。同じ義務教育だろう。文句言ってないで、都雅も一緒にお茶でもどうかね。嫌なんて言わないよねえ、お姉ちゃん」

 祖母はわざとらしくにこやかな顔を向けてくる。つりあがった唇の端から、脅しの気配がぷんぷんしていた。後が怖いので、都雅は大きく息を吐き、不本意であることをアピールしてから、雅毅の横に腰を下ろす。

 祖母が、よっこらしょっ、と大袈裟な声を出しながら立ち上がった。「お姉ちゃんに熱々のお茶でもいれてあげるかねえ」とわざとらしく言いながら、ひっこんでしまう。さり気なく席を外したつもりなのだろうが、少しもさり気なくない。ぼんやりと庭を眺めていると、土をいじっていた祖父は、居心地悪そうに手を止めて、都雅たちを見た。別に祖父に注目していたわけではないのだが。バケツを持ってどこかに行ってしまう。

 黙っていても仕様がないので、都雅は重い口を開いた。出来れば何も聞きたくなかったが。

「で? お前、あたしに何か用か」

 必死の顔をした少年が、都雅に向き直った。勢いよく言葉を吐き出す。

「ぼく、あの、謝らなくてはいけないことがあるんです……! あの」

「あのなあ」

 都雅は、言いかけた雅毅の言葉を、遠慮なくさえぎる。立て膝をして、頬杖をつく。不機嫌な都雅が、更に剣呑な声を出したので、雅毅はびくりと体を縮めてしまう。

「お前、弟なんだから、そんなバカ丁寧な話し方しなくてもいいだろー? 別に、怒るやつがここにいるわけじゃなし。それとも、お前のとこは、家族にもそんなゆるゆるのろのろした、むずがゆい話し方するのか? あたしはすごく、気持ち悪いんだけどなあ」

 揶揄には気づかないのか、雅毅はきょとんとした目を向ける。それから、嬉しそうに笑った。

「はい」

 けれどすぐ、しゅんとした。顔をうつむけて、自分の膝を見つめる。

「ぼくの友達が、大変なんだ」

「ほう」

 応えて都雅は、置かれていた煎餅をかじる。聞くだけは聞いてやる、という緩慢な態度で。

「なんだか、変なものに狙われてるんだって。はじめはその子のお父さんたちも信じてなかったみたいだけど、違うんだ。あいつ、嘘つくような奴じゃないもん。結局今はそれが大事になってて、あいつの家大騒ぎになってる」

「変質者にでも狙われてるのか? 誘拐犯か?」

「違うよ! ……そんなんじゃないんだ。危ないからって、学校もずっと休んでる。いろいろセキュリティとかも雇っているみたいだけど、ぼく心配で……」

「で? あたしにどうしろと?」

 都雅はさらりと言った。そう聞こえるように、努力した。ついでにまた煎餅を噛み砕く。

 雅毅は肩をふるわせた。姉を見上げて、冷めた目に怯んだ。またうつむいてしまう。

「あの……あの、迷惑だって分かってるんだ。でも、お姉ちゃんは、すごく強くて、用心棒みたいな仕事してるって聞いてたから……」

 その言葉に、都雅は思わず脱力した。知らず強張っていた肩から力が抜ける。

 用心棒とはまた、時代かかった言い方をする。

「お前、それ誰から聞いた?」

 雅毅が都雅の仕事のことなど、知っているわけがない。言ったことはないし、親が教える訳もない。何より、親だって詳しいことを知らないはずだ。

「おばあちゃん」

「……だろうな」

 彼女たちの親が――正確には母親が、必死に都雅と雅毅を引き離そうとしているのに、それをあっさり無駄にする祖母の行動に、笑ってしまった。さすがだと思わずにいられない。

「お姉ちゃんに、ぼくの友達を助けてほしい……て言おうと思って、ここに来たんだけど、やっぱりやめる。それだとお姉ちゃんまで危険に巻き込むことになっちゃうから。勝手なことしてごめんなさい。今日のこと忘れて下さい」

 少年は立ち上がって、靴下のまま庭におり、それから都雅に頭を下げた。

 友達を助けたくてここまで来たくせに、それを自分で無駄にした。過保護に溺愛する母親に、教師に、詮索され叱られる事実や、ここまで長時間かけて歩いてきた苦労、それらも全部。

 都雅は苦笑しながら座り直した。皮肉な思いが満ちてくる。

「やめたんなら謝る必要ないだろ。それにお前の友達だって言うんなら、金持ちだろーが。悪いけど、あたしはそういう連中と関わるつもりはないんだ。どうせ頼まれたって断った」

 言ってから、目の前の少年も、ご大層な家の跡継ぎだということを思い出す。フォローするつもりが、雅毅も拒絶したみたいになった。しまった、と思ったが、雅毅は気にした様子がなかった。気づかなかったのか――頭のいい雅毅のことだから、そんなわけがない。でも、顔を上げた雅毅の表情は、日暮れでよく見えない。

「うん。おうちがデパートしているとこ。新藤くんて言う」

 どこかで聞いたような話だ。それもつい最近。そしてその名は――最近ニュースなどで騒がれている家の名だ。

 辿り着いた不穏な考えに、都雅は黙り込んだ。その都雅に、雅毅は再び頭を下げる。

「それから、ぼくが急にいなくなったら、みんなここだと思うだろうって、気づかなかった。嫌な思いさせるかもしれない。本当ににごめんなさい」

 ヒステリックに怒って、どうして、何があったのかと騒ぐ母親の姿が容易に想像ついた。雅毅は、都雅に比べて自分がずっと恵まれた境遇にいるのも知っているし、負い目に思っている。それを都雅は知っている。

 都雅は居心地が悪くなって、うつむいてから、唇の端をあげる。笑いたかったが難しかった。

「気にすんな」

 彼女の表情をどうとったのか、雅毅はほっとしたようだった。

「良かった。家に帰っても、ここには来てないって言うから大丈夫。お姉ちゃんもおばあちゃんも悪くないって」

「どう言い訳するんだ」

 都雅の言葉に、雅毅は困った顔をして笑った。子供らしからぬ表情だ。適当にごまかそうなんて、考えつかないのかもしれない。

 ――でも、どうでもいいことだ。

 突き放すように思った。関わりがないと雅毅自身が説明してくれるなら、それで問題ない。

 ――嫌になる。愛されている彼も、ひねくれている自分も。何より、自分の態度に嫌気がさす。弟に当たっても仕方ないのに。

 八つ当たりのように、手に残っていた煎餅をガリガリと音を立てて食べる。それから、わざとらしく伸びをした。がらっと明るい口調になって言う。

「ついでだ。ちょっと姉ちゃんと遊んでいかないか? ちょうど最近格闘ゲーム買ったから、誰かと対戦したかったんだよ。それと、どうでもいいけど早く上がってこい」

 先日都雅が買ってきたゲームを、いつの間にか祖母がやりこんでいたので、やる気がなくなっていたところだった。腹も立っていた。祖母と対戦しようなんて気はなかったところだった。ちょうど良かった。そう思い込む。

 珍しく姉に誘われて、雅毅は嬉しそうに頷いた。

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