禍言の葉
作楽シン
第1章 黒マントの口悪少女とウザかわ黒猫
第1話 呼ぶ声
耳元で笑い声が聞こえる。
少女はびくりと肩を震わせた。振り返る――けれど、誰もいない。学校の暗い廊下に、ただ月明かりがさしこんでいる。背筋がゾッとした。
「ねえ、今何か聞こえなかった?」
前を行く友人たちに声をかける。皆が顔を見合わせて、あたりを見まわした。
「何も聞こえないけど……?」
「聞こえないよね?」
それから、もう一度顔を見合わせた。
「やめてよー! 夜の学校で怪談はシャレにならないよー!」
一人が大きな声をあげて、暗い廊下に響いた。いっせいに皆から小突かれる。
「しー! 大きな声出したら先生が来るって。こんな時間にいるのばれたら怒られる」
「早く帰ろうよ。思ったより遅くなったし」
「久しぶりにちょっと顔出すつもりだったのに、しゃべりすぎちゃったね」
中学三年生の冬。毎日塾に通って、夜遅く帰って、また勉強、そればかりの生活をしている。追いこみの時期だから仕方ないけれど、文芸部の後輩たちが困っていると言う話を聞きつけて、部活に顔を出して来た。部活で作る部誌の計画がうまくいかないらしい。結局しゃべりすぎて、手伝いに行ったのか邪魔しに行ったのか分からない。でも息抜きになって、みんなどこかすっきりした顔をしている。
「あ、そうだ。教室にノート忘れたから、帰りに寄ろうと思ってたんだ。先に行ってて」
最初の少女が、ふと思い出して言った。笑い声とともに、明るい返事が返ってくる。
「間抜けー。早く来ないと、おいて帰っちゃうぞー」
「そんなことしたら、明日覚えてろっ」
「受けてたつ」
声をひそめて笑ってから、少女は廊下を引き返した。友人たちの声が遠ざかっていく。
ふとさっきの笑い声を思い出して、またゾッとした。上履きの底がこすれる音がやたらと響く。いつも人がざわめている場所が静まりかえっていると、とても寂しい。月明かりが、暗がりを一層深くさせるようだった。階段の先が異界につながっているとか、廊下を這いずる音だとか、色んな怪談が一気に頭の中を駆け巡る。それを必死で抑えこんで先を急いだ。
二階まで階段を降りて、右に曲がってひとつめが、少女のクラスの教室だった。
鍵が閉まっているかもしれない。頬が強張るのを感じた。もし鍵がかかっていたら、職員室まで取りに行かなないといけない。
――お願い、開いてて。
祈るように力をこめると、あっさりと戸が動く。ガラガラと大きな音にまたびっくりして、少女は肩を震わせた。
――やめてよねー。
冷や冷やしながら、教室の中に駆け込んだ。まず明かりをつける。無機質な白い光が教室を照らして、ほっと息をついた。人がいない分ひやりとしているけれど、見慣れた光景だ。
急いで自分の机に駆け寄ろうとして、脚を机にぶつけた。ガタンガタン、と大きな音が響く。痛みと大きな音に二度びっくりした。
「いたたたたた……。本当に間抜けだー」
友人に言われたことを思い出しながら、独り言が落ちた。自分を励ますように声が大きくなる。慌てすぎだよ、落ち着いて、わたし。
「ノートノート……。ああーもう、どうして忘れ物なんてするのよーわたしのバカー」
必要以上にしゃべりながら、たどり着いた自分の机を乱暴にあさった。数学の宿題をしなければならないのに、どうしてよりによって、数学のノートを忘れるんだろう。受験生の自覚があるのか、そんなことで高校に行けると思っているのかと、詰られるのが想像できる。されずにすむ説教を、わざわざされることもない。
ノートを探し当て、少女はホッと笑みをこぼした。肩にかけていた鞄を開けようとした瞬間。
何も見えなくなった。突然目隠しでもされたかのように、何の音も予兆もなく、目の前が黒くなった。
教室も、机も、持っていたはずのノートも、それどころか自分の手も、腕も、見えない。闇に閉じこめられたような、気味の悪さ。
――停電?
さっきまで、月があんなに明るかったのに。目を開いて、閉じてみて、もう一度開いてみる。何も変わらない。余計に心が冷えた。
やだ。つぶやいた。つもりだった。でも声が出ない。焦って、嘘、と口が動く。でもやっぱり声が出ない。
くらりと足元が揺れた。まさか、今度は地震かと、さらに混乱する。力が抜けたのか地面の方が揺れたのか。平衡感覚が崩れる。
身をかばおうと、手を前に出す。ノートを持っていることも忘れていた。ガタンガタンと大きな音とともに、すぐに固く冷たい感触が掌に触れる。何が何だか分からなくて、それが机だとも気づかなかった。腕を伝う寒気(おぞけ)に体が震えた。
再び目を閉じて、唾を飲み込む。立ちくらみでもしたかのように、体が揺れる。
まるで何かが頭の中に侵入してきて、感覚を狂わせようとしているようだった。視角も三半規管も、体中の血の気も、大きな掌で遮断されてしまったみたいだった。
「死んでしまえ」
耳元で声が囁いた。
でも、そんな訳がない。足音がしなかった、人がいるわけがない。あんなに静かだった。音もたてずに廊下を歩いて、教室に入ってくることができるわけがない。動揺しているけれど、混乱したけれど、こんなに静かで、物音に気付かないわけがない。
真っ暗で、人がいることもいないことも、確かめるのが怖くて、振り返れなかった。
少女は泣きそうになりながら、必死で息を大きく吸った。
――どうして声が聞こえるの?
「死んでしまえ」
再び、そして今度こそ、確実に聞こえた声。やわらかな吐息が耳にかかったような気がした。
ただ目を見開いて、動けなかった。悲鳴など出てこない。息を吸い込んだまま、吐き出すことすら出来ない。鼓動が頭の奥で大きく響いている。
「死んでしまえ」
再び命じてくる。響いて頭の中で反響している。
悲しみに満ちた声だった。憎しみにあふれた声だった。明るい光を憎み、照らされる他人を憎み、あぶれてしまった自分を憎み、受け入れない者を憎む声。
恐怖すら忘れて、慰める手をさしのべたいと思うほど。それが出来ないのなら、声の命ずるまま――望みをかなえてあげたいと思うほど。窓辺からそのまま、宙へ歩き出してしまいたくなるほどの――
突然、大きな音が響いて、びくりと肩が跳ねた。同時に目が覚めた……ようだった、まるで。靄(もや)がかかったようになっていた思考が、急に晴れていく。目隠しをしていた見えない手が、どこかにいったかのように。
少女は白い明かりの中、相変わらず教室に立っていた。
突き動かされるように、勢いよく後ろを振り返った。何もない。誰もいない。絶対に、声が聞こえたのに!
ただ心臓が、うるさいほどに鳴っている。あえぐ自分の呼吸が聞こえる。
少女は机を押しのけて、窓に向かった。さっきの大きな音、室内からではなかった。外からだ。幻聴だろうか。もう訳が分からない。乱暴にたてる音も、脚に当たる痛みも、机の列を乱すのも気にならない。
走り寄って、もどかしく鍵を開ける。こじ開けるようにして窓を開いて、身を乗り出したけれど、外は暗くてよくわからなかった。
今度は身をひるがえして走りだす。廊下へ飛びだした。怯える気持ちとは正反対に、軽い音で上履きの底がキュキュと鳴った。緊張で脚が突っ張り、思うように走れない。何度か転びそうになりながらも、それでも止まらなかった。行かなければ。
何が音をたてたのか、一体何がどうなったのか、確かめずにいられなかった。そうしなければならない。何かが突き動かす。恐いもの見たさなんかではなくて。
何故かはよく分からない。けれど、尋常でない空気が、少女を突き動かしていた。
一階へ駆け下り、上履きのまま外へ走り出る。音が聞こえた方向へ首を巡らせる。黒いものが見えた。
影になっている黒い塊。駆け寄って、それが何かに気づいて、少女は足を止めた。がくん、と揺れて無理矢理止まる。
――――人だ。
長い髪が、伏せっている顔にかかっていて、黒い空洞のようだった。投げ出されている体は、紺のセーラー服のせいで黒い塊に見えた。スカートから見えている脚の白さが月に映えて、妙に生々しかった。そして、広がっていく黒い染み――血。
泣きたくなった。何か音が聞こえると思ったら、自分の歯がガチガチと音をたてて、頭の奥で鳴っている。
どうしようどうしようどうしようどうしよう。
ぐるぐるとそれだけが頭の中を回っている。泣きたい。こんなもの、どうしようもない。助けて。誰かどうにかして。この状況をどうにかして、助けて。
誰か、と思った。それと同時、知人の顔が頭をよぎった。親の顔でもなく、親しい友人の顔でもなく。ただ、ぶっきらぼうで、無愛想な顔が。
けれどそれをすぐにかき消す。きっと迷惑がるだろうから。助けを考えただけでも、面倒くさがるだろうから。ひらめくように思って、おかしくなった。あの人は言うに違いない。「泣いている暇があったら、考えろ」と。あの人は、自分では何もせずに怠けてただ助けを待っているだけの人が大嫌いだった。今の自分を見たら、きっと失望するだろう。
想像でしかない。そもそもあの人にとって、自分なんてたいした価値もないかもしれない。だけど、心に浮かんだおかしみと、認められたいという自尊心が、動揺をいつの間にか押さえ込んでいた。
励まされた思いで、再び走り出す。
靴箱の並ぶ昇降口に出る。敷いてある簀の子を勢いよく鳴らしながら走り抜けた。門の方へ向かう。
人手がいる。友人たちは、門で待っていてくれているはずだ。
誰か、倒れていた子のそばについていて、誰かが救急車を呼んで、それから、他の誰かが職員室に行って――
一生懸命、自分に出来ることを考えていた。怖くて訳が分からなくて、空回りする思考を宥めながら、考えていた。けれどもたどりついた門のところで、その思いが止まってしまう。
瞬間に、すべて消えてしまった。
舗装された道から道へ、学校の外と内の区切りをつける門柱が二つ、間隔を開けて並んで立っている。たわめられた黒い門戸を片方だけ開いて。
そこに、ついさっき見たばかりのものと同じようなものが、横たわっていた。違うのは、一つきりでないこと。そして、街灯の光があること。よく見えるように配慮された、余計な演出のように。
その明かりの中に、友人たちと同じ数だけ、それはあった。やはり、先刻見たものと同じ染みの中に。白い光の中で、その染みは、艶めいて見える。赤黒く生々しく、広がり続けている。
必死に走ってきた少女の吸った息が、ヒイッと喉の奥でひきつった音をたてた。
倒れた少女たちの手に、カッターナイフが握られている。
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