10-4


 『白』には、孤独で寂しく物悲しいイメージがつきまとう。

 幼馴染から受け取る手紙はいつも白かった。

 本来なら感情が殴り書かれ幾重にも塗り重なるはずの便箋は、しかし何の色にも染まっていない。

 清浄な白に、本当に何の感情も無かったのか、それとも別の思いが込められていたのか、私は問うべきだったのだろう。

 けれど透明な水にインクを垂らしたらが最後、またたくまに黒く汚染されてしまうのではないかと、恐れていた。

 きけない、わからない、ふれられない。

 それは、白い邸に住む年上の女性にも同様に抱いていた疑心だった。


 *


 雪に覆われた静寂の中、呟きは耳奥に浸透した。まっさらな半紙に墨汁を一滴こぼしたように。隠したくとも、消したくとも、逃れたくとも、巻き戻らない。今まで積み上げてきたいくつもの嘘を台無しにする。嘘は嘘でも、優しさとか、気遣いとか、折り合いとか、皆を幸せにするための真っ白い〝魔法〟だったはず。だから私も十五の誕生日プレゼントをもらっていないことにした。してあげた。なのに。まったく理解し難かった。どうして、こんなタイミングで作り上げてきた舞台をぶち壊しにするのか。

 嘆きか、憤りか、哀願か。咄嗟、発するべき言葉を見失う。見上げた面は白く、眼差しは黒く、その無表情はあまりにミミタンと似通っていた。あんなにも大事だったヌイグルミ。貴女をあっさり忘れた私を責めているの?

 ふいに気付く。こんなにも静かだとういうのに、まったく足音が聞こえてこない。茉莉は来ていない。来ない。呼ばれてもいない。私と茉莉の関係性を確かめるための嘘。つまりは、私を罠にかけるための。

 どうして。おかしい。なにがしたいの。眼差しで問いかけるが、漆黒の湖面を波立せることはかなわなかった。それが逆に私の瞳と心に感情を溢れさせる。

 揺らがぬ瞳が何よりも雄弁に物語っていた。そう。薄々は予想していた。だから、危険を冒してまで確かめに行った。

 放課後の西陽射し入る図書室。N西女の受験を目前に控えながら、祖父母の迎えの時間に追われながら、大日向有加の影に怯えながら、繰り返し読み込んだ。導き出された答えは不都合な真実で、見ないフリをしていた。この恋を手放したくなかったから。でも、もう、素知らぬふうを装えない。膨れ上がった感情が叫びとなって姿を現す。


「……香世子さんは、私が嫌いなんでしょう!」

  

 昔、ひどいことをしたという幼馴染の娘であることを除いたとしても。優しさも、微笑みも、慰めも、キスも、全部嘘。うそっぱち。だって。


「私が、貴女のを喪くしたから!」

 

 三学期が始まり、一度だけ訪れた図書室でグリム童話の全集を読了した。香世子さんが好きだと話し、高台の白い邸で母との会話にも出てきていた『杜松の木』も当然載っていた。

 それはこんな話だった。夫婦と兄と妹が暮らしていたが、兄は先妻の子で、母親にいつも疎まれていた。ある日、母親は林檎をあげると兄を呼び寄せ、林檎の入った箱に首を突っ込ませたところ、蓋を閉めて兄の首をちょん切ってしまう。母親は兄の首に白い布を巻いてごまかし、そうとは知らない妹が母親にそそのかされ兄に林檎をせがんだ拍子に、兄の首が落ちてしまう。自分のせいだと泣く妹に、母親は誰にも知られてならないと言い聞かせ、兄をぶつ切りにして煮込んでしまう。父親は煮込みを平らげ、骨をテーブルの下に投げ捨てた。妹は骨を全て拾い、絹の小布で包んで、杜松の木の根本に埋めた。

 兄の骨は小鳥となり、各地で美しい歌声を披露して、歌声と交換して宝物を手に入れてから家に戻る。最終的には臼を落として母親を殺し、親子三人仲良く暮らしましためでたしめでたしという幕引きとなっていた。

 

  「おらの母ちゃん おらを殺した

   おらの父ちゃん おらを食った

   おらの妹 マルレーネ

   おらの骨を みんな拾った

   絹の小布で くるんだ

   杜松の根方に 置いた

   キューヴィット キューヴィット

      おらはなんてきれいな鳥だ」 

 

 小鳥は人々の罪を歌い上げる。香世子さんもひどく迂遠に私の罪を証明して罪状を突きつけてきた。

 かつて香世子さんの書斎の宝石箱に入っていたのは、愛娘の。その経緯はよくわからないが、たったひとつのよすがだったらしい。幼かった私はそれを持ち出し、弄び、喪くし、代わりに自身の宝物だった玩具の指輪を入れたと母は言う。

 私自身はそれについて覚えていない。けれど、代替品となっていたアミュレス・アミュレットは間違いなく私の物であり、私以外に容疑者は浮かび上がらない。

 なのに、容疑者が己の罪を気持ちよく忘れ、あまつさえ被害者に好意を抱いたとしたら。

 無言のまま、無表情に、無心に見下ろす漆黒の兎の眼。そこに浮かぶのは、憎悪以外の何があろうか。

 私は膝の間に顔を埋めて泣いた。涙がとめどなしに流れた。


「……嫌ってなんかないわ」


 どれほど時が経ったのか。ぽつん、と。

 静けさの中に落とされた呟きに、耳を疑った。制服のプリーツから顔を上げ、香世子さんを振り仰ぐ。

 白の中のなお真白。フードを被った彼女は、氷城の支配者たる女王めいて美しく、同時に雪原に置き去りにされた少女にも見えた。

 香世子さんはこちらへと腰を屈めて身を寄せてくる。伸ばされた手に大仰にびくりと肩がはねる。左足にはギブス。場所は階段。誰もいない神社。引っ張られたら、落ちる。妹が兄の首を落としてしまったように、いとも容易く。

 こちらの不安をよそに、香世子さんの手には白いハンカチが握られており、私の涙やら鼻水やらを優しく拭う。指輪が紅く透明な光の残像を描いた。そして一通り清めてくれると、いつもの角度で小首を傾げ、淡く微笑む。涙に湿った視界に、その微笑はことさら儚く映った。

「嫌ってなんかない……でも、迷っていた」

 同じ高さとなった目線がわずかに伏せられる。

「この一年、美雪ちゃんと親しくなって楽しかった。可愛く聡明で健やかで、私の娘もこんなふうに成長していたのかしらって想像したわ。あの子は四歳で事故死したから」

 細い肩が下がり、白い吐息が押し出される。

「同時に罪悪感も募ったわ。私はね、娘が生きている間はうまく娘を愛せなかった。私の中には脅迫観念めいたものがあって、とても厳しく躾ていたから。あの子には関係ないことだと理解していながら、自分を止められなかった。元夫にも咎められたわ。あの子にとって私はひどい母親、いじわるなお妃と同じだったでしょうね」

 まさかとこぼれた言葉に、香世子さんはゆるゆると首を振って否定する。

「あの子はたった四歳で真っ白なまま死んだ。でも生きていたとして、はたして、成長したあの子を愛せたかしら。美雪ちゃんと接するようにできたかしら……」

 それは私への言葉というよりも独白だった。

 香世子さんが悪いお妃のように振る舞うなんて考えられない。だが、私と母の関係が香世子さんとのそれとは重ならないのと同じなのかもしれないとも一方で思う。

「考え出すと不安でしょうがなかった。仕事も、仕事以外にも為すべきことは山積みなのに、気付けば半日ぐらい鬱々と思い悩んでいた」

 いい大人が馬鹿げているけど、と自嘲する香世子さんは言葉とは裏腹に少女のような心細げな顔をしていた。

 悩みの深さこそが、愛情のそれのはず。けれど、私は彼女にそう告げない。告げられない。告げたくない。その自身の心の仕組みを正しく理解していた。

「美雪ちゃんに頼られ、頼られることを口実に楽しい時間を過ごせば過ごすほど、苦しくなったわ。あの子のことを考えるほどに、あなたのことを考える時間も長くなった」

 あなた。その音に目を瞬かせる。私のことを、ずっと、考えていた? それはどういう意味なのか。

 ひどい乾きを覚えた。欲しいと思った。衝動のまま手を伸ばすが、絶妙なタイミングで香世子さんは屈めていた腰を伸ばし立ち上がる。

 避けられたのかと勘ぐるが、ふらりとした頼りなげな痩身にはそんな意図はないようだった。雪混じりの風に煽られ、フードが落ちる。一瞬、そのまま吹き飛ばされるのではと不安に襲われた。艶やかな黒髪が鳥の飛翔する形に広がり、子どものように細いうなじが露わになる。

 ――ずっと、怯えていたの。

 いつもの凛然とした声ではなく、風にまぎれるほどのか細さに胸を突かれた。

 香世子さん、貴女もなの? 私も怖かった。貴女の一等大事なものを喪わせ、嫌われていると思っていた。傷つくとわかっていても、諦めきれなくて、焦がれて、喘いで、飢えて。炎に引き寄せられる夏の羽虫のように。

 堪らなくなって、頼りなげな彼女に支えるのは無理でもせめて寄り添おうと立ち上がろうとした時。押し止めるかのように、その言葉が降ってきた。

「だから残りの時間を使って、証明しようと思った」

「……証明?」

 唐突に浮上した場違いな単語を、仰ぎ見ながら繰り返す。

「そう。ヒントをくれたのは美雪ちゃん、あなたよ」

 心当たりがまったくなく戸惑いを浮かべる私に、香世子さんは微笑む。

「一緒に問題を解いたこともあったでしょう? AB=DC、AB//DCの三角形ABCとCDAがあった時、角ABC=角CDAであることを証明しなさいって」

 数学の証明問題。受験の必須項目で、確かに白い邸の応接室で、お茶とお菓子を供されながら教わったことがあった。けれどいきなりな話題転換で困惑する。

 香世子さんの顔には未だ憂いが残っていたが、口調は歌うようであり、しかも半音キーが外れているふうでもあった。

「あの子はもういない。十五のあの子は存在しえない。ならば他の事象から、あの子への愛を証明しなくてはならない。今となって、あの子に関してできるのはそれだけ。……もちろん、香純・・を取り戻せたらそれに越したことはなかったけれど」

 香純。初めて面と向かって明かされた名は、香世子さんの娘を指しているのか、私が喪くした骨を示しているのか。改めて罪状を示唆され肩が強張る。

 〝香純〟への愛の証明。けれど〝香純〟はもういない。目の前には〝香純〟を喪くした容疑者。だったら。

 焼けた靴を履かされたお妃。鳩に目玉をつっつき出された灰かぶりの姉さん。臼を落とされた死んだ義理の母。

 降り仰いだ香世子さんの表情を確認できなかった。唐突に周囲が翳り、刹那、世界が暗転ならぬ白転・・したから。止める間も、逃げる間もなく、覆い被さるように間合いを詰められた。

 ひっと、喉の奥で、できそこないの悲鳴が弾ける。

 途方もない落下感。お尻の下が一瞬温かくなり、すでに湿っていた地面とスカートの境がさらに曖昧になる。

 そして、次に襲ってきたのは柔らかな重みとぬくもりと名状し難い芳しい香りだった。何度経験しても眩暈がするほどに。

「感謝しているの」

 気付けば、ただただシンプルに力強く抱きしめられていた。膝を折り、覆い被さるようにして。

 耳元にカシミアのそれとは違う柔らかな弾力が触れる。じらすように、触れ、離れ、触れるそれ。熱い吐息を注がれて身震いした。

「あなたは私の恩人よ」

 腕が緩んだと思えば名残を惜しむ間もなく、両の手で頬を包まれ、額と額を合わせられ、潤んだ瞳で、彼女はそんなことを言ってきた。かぐわしい呼気を吸い込む距離で。

「な、んで」

「〝香純〟を証明してくれたから」 

「……証明?」

 この人は何を言っているのだろう。

 昂った彼女とは対照的に、冷静に思う。彼女の聡明さを今まで疑ったことはないが、今回ばかりは唖然とした。私と〝香純〟はもちろん面識がない。証明などできるはずがない。そもそも何を証明するというのか。

 けれど香世子さんはこちらの戸惑いにはまるで頓着しない。黒い湖面には、歪んだ私の困惑顔が浮かぶばかり。

「可愛く聡明で健やかな美雪ちゃん。親しくなった当初、あなたは〝彼女・・〟の娘であるにも関わらず、彼女と全然似ていなくて驚かされたわ」

 彼女。それは間違いなく母を指していた。ひどいことをしたから――母の呟き。『かめこ』――夜陰に響いた叫び。ほかに友達がおらんかったんじゃないかね――祖父母の言葉。

「あなたを知れば知るほど、成長した香純が一体どんな娘に育ったか不安になった。もしかしたら、あちら・・・側の人間になったのではないかと」

 だから美雪ちゃん、美しい人はとろりと呼びかける。甘く透明な飴細工を思わせる声で。

「私はこの一年あなたを観察していたわ」

 それはまったく清浄で、聖上で、正常な笑顔だった。あらゆる年代のあらゆるシーンでの笑顔の見本になる、という意味で。なんの悪意も悪気も嫌味もない。そう、いっそ彼女は無邪気だった。

「あなたの言葉、あなたの表情、あなたの振る舞い。兄妹が落とした小石やパン屑を辿るみたいに、とても注意深く見ていたの。真実のあなたは、級友を虐げ、幼馴染を罠に陥れ、目的のためなら自分自身をも騙す」

 こんな綺麗な笑顔で、甘い飴玉を舌に乗せたまま、細い指先で頬を撫ぜ、偶然を装いながら耳たぶに触れながら。


「あなたは彼女そっくりだった。私が大嫌いなあの人に」


 ――狼の仔は狼。羊の仔は羊。王様の子はお姫様。継母の娘は意地悪な姉。


「ならば、香純は私に似た娘になったでしょう。愚図で引っ込みじあんで泣いてばかりいる」


 それで良いの。良かったのよ。

 香世子さんは視線を空にやり、繰り返す。昏く平坦だった瞳に灯がともる。晴れ晴れとした笑顔。降りしきる雪は紙ふぶき。全てが演出のように、彼女は女優めいて美しかった。

 

 ――私の愛すべき娘よ。


 香世子さんは再び私を見つめ、この上なくいとおしげに両の頬を包み込んだ。

 いや、見つめているのは〝私〟ではない。それがわからぬほどの愚か者ではない。〝私〟じゃない……では、私は。

「わたしの、こと、」

 声がこぼれ出た。出てしまった。その時の自分がどんな表情をしていたのか。涙と鼻水、嫉妬と羨望、羞恥と恐怖が入り混じり、とても無垢とは呼べないだろう。

「もちろん好きよ。大好き。嫌ってなんかいない」

「でも、そっくりだって」

 大嫌いなあの人に。そう、その花の唇で告げたばかりじゃないか。

 おばかさんね、年上の美しい人は耳元で熱っぽく囁く。

「だからこそ証明できたわ。だからこそ可愛くて、憐れで、愛しくてならない」

 ――世界中で二番目に愛してる。

 まじまじと香世子さんの白いかんばせを見上げる。その笑顔が演技なのか心からのものなのか、わからない。それほど完璧だった。

 呪いだ。長い長い脚本を経て、ようよう気付く。これは呪いなのだと。呪いとは毒だ。遅効性の、死にはいたらない、けれど確実に心身を蝕む。嫌われ、憎まれ、軽蔑されているのに、いや、だからこそ愛されているなんて。

 そして香世子さんは、毒の効能を正しく理解し、私が理解しているということも承知している。香世子さんと視線が絡む。彼女は私を嗤う。それはとても満ち足りた笑顔。あまりに甘くとろける白雪姫の毒。

 でも、もう呪いだと、毒だと知ってしまった。それを知って黙っていられるほどのお人好しではない。気付いたなら、断ち切り、解放されることだって可能なはず――


 控えめなベル音が雪降る石段の静寂を壊した。香世子さんはすっくと立ち上がり、マントの内側から携帯電話を取り出して迷い無く応答する。

「……もしもし。うん。そう、うん」

 うん。

 その響きに違和感を覚えた。彼女の声でそんなにも気安い音を聞くのは初めてだった。仕事先の相手ではない。親戚だろうか。それともごく親しい友人か。

 うん、うん。ふふ、ふ。うん。それで? もう。いいけど。うん。わかってる。じゃあ。

 相槌、うながし、挨拶。特に意味の無い言葉の連なりが、けれど胸をざわつかせた。

 素知らぬ顔で通話を切り、携帯電話を仕舞う所作を眺める。その眼差しを、会話の途中に電話に出るというマナー違反への非難だと受け取ったのか、彼女は殊勝な謝罪を口にした。いや、きっとわかっていて、意味を取り違えてみせた。

「ごめんなさいね」

「別に、」

 私は香世子さんの脚本に乗ってみせる。

 そんなことで気を悪くするほど狭量ではない。ただ珍しく思っただけで。許すという行為は、立場にアドバンテージを与える。だから許すついでに誰から?と訊くつもりだった。だのに。

「もう行かなくちゃ。さようなら、美雪ちゃん。悪いけど、ここからは一人で帰ってちょうだい」

 あまりにあっさりとした口調だった。片足ギプスの受験生を置き去りにすることを少しも悪いと思っていない。駆け引きも忘れて勢い込んで尋ねてしまう。

「どこ、行くの?」

「C空港よ」

 香世子さんは続けて欧州のとある国名を挙げた。

「フライトまでもうあまり時間が無いわ。まあ、この雪じゃ飛ぶか怪しいけれど」

「……仕事?」

 取材旅行だろうか。だが、彼女の次の台詞は私の想像を大きく裏切った。

「結婚するの」

 ひらり、と。蝶が舞う仕草で左腕の白い指抜きからなお白い指先を覗かせた。小さな赤い火の玉のような光。私とこうかんこしたというアミュレス・アミュレットだと思っていたそれは薬指にはめられており、よくよく見るとデザインも違う。大人向けの落ち着いた意匠ではあるけれど、石の大きさは同じくらいで、瑞々しい果実を思わせる輝きだった。 

石榴石ガーネット、私の誕生石よ。もうすぐこの世から〝初瀬香世子〟は消えていなくなるわ」

 呆気にとられた。年上の美しい人は、いつだってシンデレラの魔法使いのように私を驚かせた。けれど同時に、深い納得も与えてくれていた。白い邸の書斎で、母が問うていた。なぜ、今だったのか、と。違う、今しかなかった。あれはそういう意味だったのだ。連鎖して繋がるものがいくつも浮かび上がってくる。

 尋ねたいことはいくつもあった。しかし、本当に尋ねるべきことはたった一つ。震えそうな声音を押さえ付け、

「……もう帰ってこないの?」

「どうかしら。婚約者フィアンセはあちらの企業に招聘されているから、その都合次第ね。場合によってはそれも良いでしょう。私の仕事には片をつけたし、車は棄てたし、家は親戚に任せたわ。置き土産よ。墓守やら介護要員としてアテにされていたみたいで、さんざん嫌味を言われたから、差し上げることにしたの」

「おかしい……そんなの、おかしい!」

 香世子さんは母と同い年、四十三歳。いや、誕生石が石榴石ならば、私と同じく一月に誕生日を迎えたのか。そんな人が今更、婚約者だ、結婚だなんておかしい。ありえない。嗤ってしまう。嘲笑するつもりだった。いい年して恥知らず、うまくいきっこない、やめとけば。

 だのに。

 滂沱と流れる涙を止める術がなかった。

 一番情けなく、口惜しかったのは、香世子さんとの別離や婚約者の存在に気付かなかったことではなく、彼女の誕生日を知らなかったこと、知ろうともしらなかったことだった。一月八日は、美雪ちゃんのお誕生日でしょう。何か欲しいものがある?――その台詞に何故、香世子さんの誕生日はいつ? 貴女は何が欲しい? そう返さなかったのか。目の前にぶら下げられた甘いお菓子に目が眩んでいた。そんな自分が、香世子さんに〝うん〟とてらいなく言わせる相手に敵うはずがない。仮に先ほどの通話が迫真の演技だとしても、何も言えるはずもなかった。

 香世子さんが置き去りにするのは、私の恋心だった。

「目が溶けてしまうわ。いい子だから泣きやんでちょうだい」

 ハンカチで拭われたそばから涙と鼻水が流れ出る。無様だとはわかっていたが、傍にいてくれるなら身体中の水分が干上がるまで泣いたって構わない。

 雪は重く激しく降り注ぐ。天使の梯子はとっくに外されている。ただ陰気なばかりの灰と紫の冬の空。

 身体は冷え、尻と脚は痛み、下半身は濡れ汚れている。恋しい人は私を大嫌いな〝彼女〟に似ているから愛しいとのたまう。

 狂っている。

 それでも。世界中で二人きり。この暴力的で甘美で矛盾だらけの世界に一分一秒一瞬でも長く浸っていたかった。

「はだは雪のように白く、ほっぺたは血のように赤く、髪の毛は、この窓わくの木のように黒い子どもが、うまれたらいいのだけれど……」

 唐突に発せられた、詩でも諳んじるような口調に、面食らう。香世子さんは、くすり、と笑う。

「近い将来、美雪ちゃんも結婚して、王子様のような旦那様を迎えるのでしょうね」

 ぼんやりとひとりごとのように紡がれた香世子さんの言葉に私は首を横に振った。私が欲しいのは王子ではない。

「白雪姫のように、きっとあなたにそっくりな可愛らしい子が生まれるでしょう。女の子が生まれたなら、贈り物を送るわ。世界中のどこにいても」

 世界中のどこにいても、お前を見ている。業は、受け継がれる。お前を逃しはしない。十五の誕生日に紡錘に刺されて眠りにつくと予言された姫と同じく。

 睦言めいたそれは、実のところ呪いだった。

 この美しい人は喪った娘を証明する、ただそれだけのために、私を監視し続けると言う。これが狂気でなくてなんであろうか。

 それでも構わなかった。貴女がいてくれるのなら、まだ見ぬ我が娘すら差し出そう。私も大概狂っていた。

「さあ、もう本当に行かなくちゃ」

 咄嗟、汚れた手で白い裾を掴む。きかない子ね、と忌々しげに寄せられた眉根すら美しい。毒はどうしようもなく私の身体中に蔓延っていた。断ち切るならば、この身ごと切り刻まなけれな無理なのだ。断ち切るにはあまりに甘美過ぎるのだ。

 なお裾を離そうとしない私に、小さな嘆息が落とされる。

「そうだわ、お菓子をあげましょう。美雪ちゃん、甘いもの好きでしょう?」

 だから離して頂戴、言外に命じられる。彼女が差し出してきたのは黄色い包み紙のキャンディーだった。ハイヤーの運転手からもらった飴玉だ。こんなもので揺れ動くほど子どもではない。

「それとも、赤い方が良い?」

 はたして私の心中を読んだのか。

 喘ぐように香世子さんを見る。繊細な雪のヴェール越しに見る彼女は微苦笑を湛えていた。目の前にぶら下げられた甘いお菓子。我慢できるはずがない。

 あか、と呟くやいなや。

 乱暴に腕を引かれて、唇を重ねられた。半開きだった口の中に、かろんとした飴玉と熱く柔らかく湿った舌が入り込む。受け入れたと思ったらすぐに奪い返された飴玉を追いかければ、舌は絡み蠢き、自然と相手へと入り込み、熱に溶け出し、糖度を増す。なぞられ、なでられ、なぶられ、境が曖昧になる。接合は口だけのはずなのに全身がぐずぐずと崩れゆく感覚に襲われた。溶けるのは飴なのか、香世子さんなのか、私なのか――このキスが終わる頃、私も融け消えて無くなればいい。

 唐突に突き飛ばされ、世界は終わった。

 香世子さんは素早く身を離し、背を向けてさっさと石段を下り出す。

 余韻も何もあったものでなかった。慌てて身を起こすが、濡れた下半身とギプスに包まれた左脚ではとても追いつかない。呼べど叫べど懇願すれど、彼女は振り返らなかった。

 ようやく石段を下りきった時、香世子さんの姿はなく、エンジン音だけがかすかに響いていた。ハイヤーが停まっていたはずの角まで、左脚をかばい、重いスカートをまとわりつかせながら走る。

 漆黒のハイヤーは角の少し先、すでに真白く埋まった稲田に挟まれた道路に停車していた。

「香世子さん!」

 私の叫びに呼応したわけではないだろう。後部座席のドアがわずかに開き、黒い学生鞄がまるきりゴミを放るがごとく落とされた。そしてウィンカーが一度だけ瞬き、ハイヤーは滑らかに発進した。

 あとには何も残らない。夢のように美しい雪が淡々と全てを塗り潰そうとしていた。

 

 ――いつもより遅くに帰宅した娘に何が起こったか、母はすぐには理解しなかった。あるいはしようとしなかった。

 仕事帰りでスーパーの袋をぶら提げた母と自宅の敷地に入ったところで出くわした。

 片足だけのサンダル、汚れた制服、泣き腫らした顔。もうとっくに帰宅しているはずの娘が、汚らしい身なりで、憔悴し、無言のまま戻ってきたなら、どんな親でも慌てるだろう。

 どうしたの、なにがあったの、どこに行っていたの。顔を蒼白に染め、激しく肩を揺さぶられ、問い質された。そんな慌てふためく母を見るのは随分と久しぶりだったが、特別な感慨は生まれなかった。

 玄関を抜けて着替えを取りに二階へ上がろうとする私の腕を掴んだ母に、肩越しに告げる。神社へ合格祈願、と。

 母が息を呑んだのが伝わってきた。

 ……大丈夫なの。抑揚なく尋ねる母に頷く。蒼白を通り越しどす黒い顔色となった母はそれ以上問うてこなかった。私も話す気にはなれなかった。あのひとときは間違いなく、私と香世子さんだけのものだったから。

 ゆるりと腕が放され、私はシャワーを浴び、母は夕食の仕度にかかり、父が帰宅して食卓を囲み、通常のルーチンに戻る。戻さねばならなかった。


 N西女の一般入試は、二週間後に迫っていた。

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