9-5
「お待たせ、美雪ちゃん。遅くなってごめんなさいね」
約一か月ぶりに顔を合わせたというのに、香世子さんはごくごく普通だった。鞄持ちましょうかとアームウォーマーに包まれた腕を差し出してくる。アームウォーマーは毛皮をあしらった高級そうな一品で、指の第二関節より先は抜いてあった。珍しく紅く塗ってある爪が宝石めいてきらめく。
え、あ、うん、と思わず、三年間使い込んで大分くたびれた通学鞄を渡してしまう。差し出されたものをすぐに受け取る(この場合は受け渡す、だが)のは私の悪い癖だった。
さ、行きましょう。香世子さんはきびすを返し、元来た校舎の方角へと向歩き始めた。
「ど、どうして?」
わけがわからない。香世子さんには会いたかったし、言わなくてはならないこともあった。けれど何より、そのままついていきたい衝動を抑えて尋ねる。香世子さんは肩越しに、
「校舎裏の駐車場に車が停めてあるの。身体が冷えてしまったでしょう、急ぎましょう」
確かに駐車場に行くには、公道に出るよりも校舎前を通ったほうが近道にはなるが。
「そうじゃなくて」
わかっているだろうに、香世子さんははぐらかす。しかし結局は、答えを得る前に追いかけてしまった。一応、建前上は受け渡してしまった古びた鞄を追うというていで。
さきの一件があり、なんの疑念も無く香世子さんと接することはできない。私は香世子さんの大切なものを喪わせてしまった。でも、だからといって香世子さんから逃げることも、無視することもできないのだ。
こちらを気遣ってか、香世子さんはゆっくりと歩を進めており、横に並ぶのは難しくはなかった。私が隣にやってくるの待ち、香世子さんは話し始める。
「さっきご挨拶にうかがったら、あなたのおばあさま、お庭で転んでいて手をお貸ししたの。おばあさまもおじいさまも、すみませんね、すみませんねってとても恐縮なさっていたわ」
「怪我してるの、おばあちゃん」
「骨に異常はなさそうだったけれど、おじいさまが病院に連れていかれたわ。ご近所の老舗整形外科よ。でも、私の見立てでは、擦り傷全治三日というところかしら」
安堵とやっぱりという思いが交錯する。祖母は大げさで、祖父は祖母を黙らせるために祖母の言うとおりにするのが一番手っ取り早いと思っている。
「おばあさまったら、面白いのよ。お忙しいだろうにすみませんねすみませんねってこっちが困るぐらいに繰り返すの。でもおんなじ口で、あんた美雪のお迎えに行ってもらえんかね、もうこんな時間だ、急がんとあの子が風邪引くわ、早く行かんかね、って今度は私を追い立てるの」
顔から火が出るとはこのことだった。香世子さんは祖母のふるまいを不快に感じたというより、純粋に可笑しいというふうにくすくすと笑う。
「おばあさまから美雪ちゃんの携帯番号を聞いておけば良かったわ。そしたら寒いところで待たせることもなかった。急き立てられたものだからついうっかりしちゃって」
「でも、携帯電話持ってないから」
「あら、まだ持っていなかったの。最近じゃ小学生が持っているのも珍しくないでしょうに」
「……うん。まだあんまり必要ないっていうか」
曖昧に答える。香世子さんは一瞬真顔になった後、そうね、電話やメールや手紙よりも直接話したほうが良いにきまっているわね、とうんうん頷いた。きっと多分、連絡手段を持つことによって発生する友達づきあいの煩わしさを察してくれたのだろう。
そのうちにぽつぽつと車が停まっている駐車場に到着するが、赤いフォルクスワーゲンは見あたらない。きょときょとと首を巡らせていると、こっちよとさりげなく肩を抱かれて誘導された。触れられた肩が電気が通ったようにぴりり反応する。
「……これ?」
けれど案内されたのは黒塗りの乗用車で、運転席には人影があった。人影――黒いスーツを着込み、白い薄手の手袋をはめた中年男性が出てきて、後部座席のドアを開ける。
「お帰りなさいませ」
「ありがとう。彼女を送るわ、出してちょうだい。ああ、暖房を強めにしてくれる?」
かしこまりましたと中年男性は慇懃に腰を折る。その様子を眺めてぽかんとしていた私の背が押され、迷う暇もなく、車に連れ込まれた。
内装はベージュ色に統一されており、後部座席に香世子さんと二人並んで座ってもかなり余裕があった。暖房は心地よく、強ばっていた身体がほぐれて力が抜けてゆくのがわかる。
リラックスできると、今度は自分の身なりが気になった。座ると嫌でも足下が目に入る。ギプスはしばらく交換しておらず巻かれた包帯は薄汚れており、男性もののつっかけに留め具をつけたものを履いている。のぞいた親指の爪は伸びすぎていた。消せるわけないとはわかっていたけれど、なんとはなしに足先をもそもそとこすり合わせた。
香世子さんは運転席の中年男性になにやら話しかけていた。行き先を教えているらしい。しかし、どうしてまた。
「車はどうしたの?」
二人の話が終わったところで、香世子さんに問い掛けた。初めて乗ったが、おそらくこれはハイヤーと呼ばれるものだろう。香世子さんにはあの赤いフォルクスワーゲンがあるというのに。車検にでも出しているのだろうか。考えを巡らすうちにハイヤーがほとんど揺れなくなめらかに発進する。
「棄てたわ」
「え?」
音は認識できたけれど、意味まですぐに理解できなかった。棄てたわ。車というものはたった四文字で片付けられる性質を持っていただろうか。
「元々、好きじゃなかったの。車も運転も大嫌い」
「どうして」
よく手入れされた艶ややかな赤の外車を思い起こす。祖父母の古びたミニバンや母の国産軽とは全然違う。父のセダンのように野暮ったくもない。将来的にはあんな車のオーナーになりたいと夢見ていたというのに。
「地方じゃ車が無いと生活できないでしょう。より良く生きていくためには、大嫌いなものとだって折り合いをつけて利用しないとね。でないと自分が疲弊してしまう」
――大嫌いなもの。その響きは自分が言われているわけでもないのに私の背筋を冷たくさせた。暖房は暑いぐらいに効いているというのに。
「愛着とか、なかったの?」
「馴れという意味では多少あったかもしれない。でも馴れは愛情じゃないわ、勘違いしやすいけれど、馴れたからといって好きになるわけじゃない。必要がなくなったら切り捨てるべきなのよ」
必要がなくなった。今後、香世子さんはハイヤーやタクシーを呼んで生活するのだろうか。雑誌連載が単行本化して印税が入ったとか、遺産が入ってきたとか、大きな実入りがあったとか。それとも自転車生活に切り替えるのか。想像するがあまり似合っているとは思えなかった。祖母は香世子さんがマイカーを手放したという事情を知らずに迎えを押しつけたのか。まさか、私を迎えにくるためだけにハイヤーを呼んだわけではないとは思うけれど。
そこを左に曲がって、すぐの信号は真っ直ぐ――運転手に指示する横顔は一部の乱れもなく〝香世子さん〟だった。けれどどことなく違って感じられるのは、私の見る目が変わったからか。彼女について色々と知った。知ってしまった。もう、何も知らなかった頃の子どもではいられない。
車も運転も大嫌い――その言葉の奥には交通事故で亡くなったという娘さんが潜んでいる。車がなくては生活できないこの土地で、香世子さんの心の行き場はどこにあったのだろうか。
「どうしたの、ぼおっとして。お腹すいた?」
「え、ううん。大丈夫」
唐突に見つめていた相手から覗き込まれて私は慌てる。
「遠慮しないで。せっかくだから『Sun room』でお茶していきましょうか?」
あら、と香世子さんが苦笑を漏らす。感情が顔に出てしまったらしい。あの瀟洒なパティスリーは大日向由加と縁があり、自ら足を踏み入れたい場所ではなかった。
「なら『Sunr oom』はやめておきましょう。それより、渡さなきゃいけないものがあるのよ」
言いながら、香世子さんはいつものエディターズバックから、なにやらA4サイズの封筒を取り出した。
「ハッピーバースデイ、美雪ちゃん。少し遅くなったけれど十五歳のお誕生日のプレゼントよ」
ほんの少し違うけれど聞き覚えのある台詞と、実際にはありもしないクラッカーが静寂に響いたような陽気なトーンに、私は瞬く。
「プレゼントはもう、前に」
言い終わらないうちに香世子さんはにっこりあの化粧品のポスターじみた笑顔で、封筒を胸に押しつけてきた。ぐいぐい、ぐいぐい。腕の力もさることながら、笑顔の圧力のすさまじいこと。
だってもう、と言い掛けて気付く。
魔法。彼女は〝魔法〟を使ったのだと。
『千匹皮』の疑念を闇に葬り、その代償として、私が毒薬を使った事実も消し去った。だから、私は十五のバースデイプレゼントはまだ
脚本を書いたのは母だ。けれどそれを演じて実現させたのは香世子さんだった。魔法を使えるのは貴女だけ。母の言葉がこだまする。呑まざるを得ない条件を突きつけ、それでいながら最後の判断は香世子さんにゆだねるというていをとった母に、今更ながら戦慄が走った。
でも、ならば。……私が犯した罪はどこに行ってしまうのだろう。
「香世子さん、」
「受け取ってちょうだいな、美雪ちゃん」
黒々とした瞳を向けられ、私は口ごもる。
酷い条件といえども取り引きは成立した。そして部外者たる自分――本来ならどっぷり当事者であるはずなのに――は、取り引きをぶちこわすほどの度胸は持ち合わせていない。胸に押し当てられた封筒を、おずおずと抱きしめ返した。すると、香世子さんは自身がプレゼントをもらった子どものごとくにっこりと笑うのだった。
改めて受け取ったバースデイプレゼントはさきと同じく風変わりな代物だった。というか、以前、香世子さんの書斎で見たことがある。封筒の中身は、数枚綴じられたA4用紙――一番上のページには『忘れ姫』と大きく印字されていた。
「完成したの。美雪ちゃん、車酔いはしないたちよね。どうぞ読んでみてちょうだい」
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