5-2

 茉莉は今年の夏休みにN市へ引っ越し、夏休み明けからはN市の中学へ転校していた。今までは母方の祖父母と同居していたのだが、このたび父親の職場近くにマンションを購入して親子三人で暮らすこととなったのだ。建前上は。

 いや、別段、そこに嘘があるわけではない。ただもう一つ別の要素があるというだけで。

 三年に進級して数か月、茉莉はクラスの女子とトラブルを起こしていた。無視されたり、悪口を言われたり、持ち物を隠されたり。けれど女子のそれは水面下で行われ、決して湖面を波立たせない。担任はおろか、級友のほとんども知らないだろう。恥ずかしながら、私も気付いていなかった。

 私と茉莉は二年までは同じクラスだったが三年では別れており、他クラスの動向までわからなかったのだ。家の行き来はあったが、茉莉自身も何も相談してこなかった。

 母を介して新森一家の引越しを知り、私が半信半疑で新森家を訪れた時にはもう遅かった。降るほどにうるさい蝉の声と痛いほどの夏の陽射しを浴びながら、茉莉の私室であった二階の角部屋をただ呆然と見上げるしかなかった。

 それから二か月ほど経ち、秋風が感じられるようになった頃、茉莉から一通の手紙が届いた。何も書いていない白紙の手紙が。最初、それは彼女の入れ間違いかと思っていた。けれど手紙は数週間に一通ほどの間隔で繰り返し届けられる。まったく同じの白紙が。

「……辛いわね」

 雫をほとり、落とすような呟きだった。

 返事を書かないのか、会いにいかないのか、そも、幼馴染ならば何かできたのではないか。香世子さんはそんなふうに私を責めはしない。

 茉莉には茉莉のプライドがある。いじめられたと声に出して助けを求めることは、それを捨てろと言うも同じだ。プライドというものが無ければ、世のいじめ問題の半分は解決するに違いない。

 茉莉は幼馴染である私にすら相談しなかった。手紙の中でさえも。今の私にはその理由がよく理解できる。伝えたいけれど書けない、書けないけれど伝えたい。そんな葛藤のなれの果てがこの白紙の手紙なのだ。

 香世子さんは便箋を丁寧に畳み、封筒に入れ直してこちらに差し出してくる。しかし私はすぐには受け取ろうとはしなかった。

 幼馴染は大切だ。けれど雪のように降り積もる白い重みに耐え切れなくなりそうな時がある。

 無言のまま俯いているとふいに柔らかな感触を頭部に覚えた。気付けば香世子さんが身を乗り出し、向かい側から頭を撫でてくれていた。丁寧な愛撫に、私はうっとりと目蓋を閉じる。細い指先はそのまま下り、さらさら、さらさら、音楽を奏でるように私の長い髪を梳いた。

「美雪ちゃんの髪は本当に綺麗。白雪姫みたい」

 綺麗というのなら、それは貴女。貴女が褒めてくれるから私は一年前からずっと伸ばしているの。声には出さず私は語る。言ってしまえば、それは告白と同じだから。

 香世子さんは聡かった。友人、家族、進路……中学三年生にかけられる負荷は決して小さくはない。こちらを慮り、お説教するでもなく、下手な慰めを口にするでもなく、こうしてただ甘やかして労わってくれる。その一方で進路などの実益あるアドバイスもくれるのだから、本当に得がたい存在だった。

「……香世子さんは、魔法使いみたい」

 しばらくして名残惜しくも顔を上げ、気恥ずかしさもあってそんなことを呟いてみる。

 ええ? と、香世子さんは小首を傾げた。

「シンデレラが舞踏会に行きたくて泣いていた時、魔法使いが現れて助けてくれたでしょ」

 困った時にふいに現れて、杖をひとふり、可哀想な少女を助ける。自分をシンデレラというほど図々しくはいけれど、助けてくれた人への感謝の気持ちは同じだった。

「まあ。私が魔法使いのおばあさんだっていうの?」

 おばあさん、のところに強いアクセントをつけるものだから、思わずふきだしてしまう。香世子さんでも年齢を気にするんだ、と。笑うなんて失礼ね、とすねる仕草は逆に子どもっぽい。ああ、本当に、こんな可愛い四十三歳が存在するなんて奇跡だ。

「美雪ちゃんの言うところの魔法使いはペロー版のシンデレラね」

 笑いがひとしきり収まった頃、香世子さんはそんなことを言い出す。

「他にもあるの?」

 シンデレラといえば、私が知る話は一つしかないけれど、香世子さんは博識だ。始まった話に興味がそそられる。

「ペローは十七世紀のフランスの宮廷作家よ。ガラスの靴、かぼちゃの馬車、ねずみの従者が出てくるのはペロー版で、日本人には一番馴染みが深いわね。

 でも、グリム童話は知っているでしょう? グリム兄弟が十九世紀に刊行したドイツの民話を編纂した童話集。こちらにもシンデレラ――『灰まみれ』が収録されているのよ。でも魔法使いのおばあさんは出てこない。むしろ魔女なのは灰まみれ自身ね」

「そうなの?」

「灰まみれはお母さんのお墓に、はしばみの若枝を差すの。こぼれた涙で若枝はぐんぐん育ち、それは見事な木になった。そして彼女がお墓でお祈りすると、木に白い鳥が飛んできて、金と銀のドレスや靴、彼女が望むものを落としていく」

 ……それは祈りというより、むしろシンデレラ自身の魔術。そう考えられなくもない。彼女はお墓に向かって、本当に祈っていたのか。継母とその娘たちへの恨み辛みを呪詛としていたのではないか。一瞬、冷たい石に向かって何事か呟いている女が浮かび、純真無垢なヒロインのイメージが裏返る……

 もっとも、と香世子さんは続けた。

「世界中のあちこちにシンデレラのバリエーションと呼べる話が残っているから、どれが本物か、なんていうのはナンセンスなのだけど」

 それはどこか乾いた突き放すような口調で、膨らみかけた妄想は、みるまにしぼむ。オーブンから取り出したケーキが見る間にぺしゃんこになるように。

 美しい年上の女性は、素知らぬ顔で紅い液体が揺れる白磁のカップに唇を寄せた。


 ティーポットいっぱいのお茶とフィナンシェをつまむ間お喋りをして、私は立ち上がった。まがりなりにも受験生。香世子さんを待っていた時間も考えると、小一時間ぐらいは経過してしまっている。名残り惜しかったけれど、引き際はわきまえなくてはならない。母の心証を考えるとなおさら。

 香世子さんは玄関ホールまで見送りに来てくれて、仕事先でもらったという小さな紙袋(さきほど車から運んだものだ)をくれた。

「もうすぐ十五歳ね」

 学校指定の白い運動靴を履いている時に投げかけられた言葉に、私は、へ、と間の抜けた声を上げる。靴紐がきつめに縛ってあったせいでうまく履けず、靴の履き口を無理やり広げている時だった。

「一月八日は、美雪ちゃんのお誕生日でしょう。何か欲しいものがある?」

「どうして知ってるの?」

 玄関のたたきに下り、一段低いところから香世子さんを見上げる形で訊ねる。靴に左足が上手く入らず、足を「く」の字に折り曲げたまま。

 教えたことがあっただろうか。記憶の糸を辿るが、思い出せない。ねだるようになってしまうから、自分からは話題に出さないようしていたはずだけれど。

 香世子さんは驚く観客を前に余裕の笑みを浮かべる手品師の表情で、

「可愛い美雪ちゃんのことならお見通し。なんでも良いのよ」

 私は瞬いて、香世子さんを見つめ続けた。靴が履けていない左足をたたきに下ろしてしまっても、香世子さんはその行儀の悪さをとがめない。

「遠慮しないで言って」

 コート、ワンピース、バック、手袋、マフラー、帽子、ネックレス、香水、ネイル、靴……そう、こんな大雑把な運動靴じゃない、もっと上質な靴。今日、香世子さんが履いていたブーツのような、シンデレラが落とすにふさわしい華奢な靴、とか。

 欲しいものは山程あった。だけどリクエストしてしまえば、プレゼントの幅を狭めてしまう気がする。制限しないほうが、むしろこちらが思いもつかない素晴らしいものを贈ってくれるのでは――そんなことを伝えると、香世子さんは少し驚いた顔をしてから、ふふ、と微苦笑を漏らした。

「グリムのいばら姫もアンデルセンの人魚姫も十五歳が重要なターニングポイントだったわ。十五は特別な年よ」

 見上げる私に、香世子さんは微笑み、もう一歩、身を寄せてくる。それは完全な不意打ちだった。

 相手は同性の、母親と同い年の人なのに、どきりと心臓が跳ね上がり、頭がのぼせたように熱くなる。甘い香りが鼻腔をくすぐる。柔らかな体温が伝わってくる。

 けれど、身構えた体の緊張と期待とは裏腹に、それ以上は近付いて来ない。

「十五歳にふさわしい、とっておきの何かを考えておくわね」

 そうして彼女は、タクトでも振る優雅な仕草で腕を上げ、私の頭のてっぺんをひと撫でしたのだった。

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