4-3

 どれほど時が過ぎたのか。香世子の手が止まってしばらく、私は恐る恐る顔を上げた。彼女は向かいのソファにぐったりともたれかかり、放心したように宙を眺めていた。

「……香世子?」

 乱れた髪が頬に落ち、彼女の細面を一層儚く彩る。それでもなお、彼女は美しい。美しいと思う自分がいた。

「……なんなのかしらね」

 落とすように、呻くように呟く。指先が、顔を覆う。隙間からのぞいた瞳には、湿った光が浮かんでいた。

「あなたを殺したいほど憎いわ。……でも、私に残されたのはあなただけなのよ」

 皮肉な、痛々しい、凄絶な笑み。私はこの時の彼女以上に複雑で苦しい表情と出会ったことがない。退治すべき狼はもういない。継母は覚えていない。秘密の共有者は私だけ。

 広くて狭い、狭くて広いこの町に二人きり。それは私の望みだった。意図せずして私は願いを叶えていた。この世で一番、傲慢で、卑劣で、無責任な方法で。

 香世子の脇に、うずくまった白いダッフルコートの少女が視える。無言のまま、無表情に、無心に見上げてくる、漆黒の兎の眼――かめこ・・・。ここに来てようやく、彼女が未だに私を待ち続けていたことを知る。ずっとずっとずぅっと。教室で貴女を待ち続けていた私の、何倍もの時間……

 私は泣いた。ただ罪の重さに耐え切れず、泣いた。

「天気雪……綺麗ね」

 ぽつん、と。静けさの中に落とされた呟きに、耳を疑った。

 窓の外を見上げれば、一体いつの間に降り出したのだろう。薄紙を透かしたような白々と明るい太陽の下、たっぷりと光をまぶされて降りしきる大粒の雪。香世子は目を細め、ぼおと外を眺めていた。

 その一枚の絵姿に、私はうなだれる。なんて綺麗。なんて清浄。なんて痛い。あまりの美しさに唇を噛み締めた。

 ――どうして、私たちは。

 光溢れる教室に舞い降りた白い少女。私は彼女に心奪われた。言ってしまえば恋をした。

 どうして、私たちは、十歳で出会ってしまったのだろう。もっと年齢を重ねていれば、もっと素直になれた。優しくなれた。本当に友達になれたかもしれない。もしかしたら親友にだって。少なくとも、何よりも尊いと思っていたはずの彼女の羽を自ら手折る愚は犯さなかっただろう……


「ひとつだけ……」

 長いこと雪を眺めたまま黙していた香世子が、ゆっくりと身を起こした。

「ひとつだけ、あなたに感謝しているの」

 予想もしなかった台詞に、瞬く。涙に滲み、輪郭がぼやけた香世子は無表情に私を見つめていた。

 言葉通りの意味ではない、さらなる責め苦の入り口なのだろうと覚悟する。もう何の言い逃れもできない。だが、私の予想とは裏腹に、続く言葉も口調も穏やかなものだった。

「香純が生きていた頃は、あの子を愛しているという自信が無かったわ。向き合うのが怖かった。……でも今、はっきりわかる。あの子をとても近くに感じるの」

 そうソルトケースの横、ローテーブルの上に置かれたままになっていた写真に視線を落とす。

「この一か月、大変だったわ。継母を看て、家事をこなして、仕事をして、あなたと会って、その合間を縫ってさらにあなたを観察した。体力的にも精神的にもぎりぎりの淵だった」

 溜息を一つ。その後に残るのはうっすらとした微笑み。

「でも、そんな私を支えてくれたのが香純だった。どうしようもない気持ちになった時、あの子は私に寄り添って応援してくれた」

 その眼差しは、まぎれも無く、母が子を慈しむそれ。一呼吸置いて、香世子はひとりごちるように呟いた。

「……許すわ」

 音は聞き取れた。しかし、意味が脳に浸透しない。香世子は膝をそろえ、手を置き、私に向き直り、繰り返す。

「あなたを、許すわ」

「……え?」

 湿った瞳でまじまじと見つめるが、そこには冷笑も嘲笑も浮かんでいなかった。寂しげではあるが、どこか晴れ晴れとした表情。天気雪のこの空にも似た、神々しさと清冽さを感じさせるそれ。先ほどまでの激昂は、どこにも見当たらない。

「あなたの――あなたたちのお陰で、私たちは親子の絆を取り戻せたから」

 呆然とする私に、香世子は微笑んだ。ずっと昔、そんな笑顔が欲しくて、香世子にたくさんの虫を目の前にぶら下げてやったことを思い出す。お椀にしのばせた虫、本当は笑い話になるはずだった。でも結果は惨憺たるもので、彼女の蒼白に染まった顔に、逆に嗜虐性をそそられてしまったのだった。香世子は続ける。

「美雪ちゃんとあなたのやりとりを見ていて、やっとわかったの。母娘おやこのありようが」

 ――結局、今も昔も、私はあなたが羨ましかっただけなのね。

 香世子は自嘲混じりに呟き、もう一度空を見上げた。 

「許して、くれるの?」

 許す、その言葉を口に上らせることすら躊躇した。ようやっとおずおずと発した問いに彼女は頷く。

 許してもらおうなんて思ってもみなかった。行き場の無い『ごめんなさい』は、ただ罪悪感から逃げ出すための方便。それなのに、香世子、貴女は――

「ごめん。ごめんなさい……」

 心の底から悔やんだ。再び溢れ出した涙が膝を濡らす。ローテーブル越し、私の肩にそっと触れてきた香世子の手は優しかった。その感触が、温かくて、切なくて、すまなくて、ますます涙を盛り上がらせる。

「私もごめんなさい。美雪ちゃんに手を出すなんて卑劣な真似をして。もう二度としない。誓うわ」

 肯定も否定もできず、ぶんぶんと首を振る。貴女が謝ることなど無い。何一つ無いのだ。悪いのは全て私。そう叫ぶように告げれば、彼女は、あの日のことは偶然が重なった運の悪い出来事に過ぎないと言う。それよりも、二十年経って意図的に仕組んだ自分の方がひどいと。彼女はうなだれたまま続けた。

「……もし、私を許してくれるなら」

「許すわ。ううん、許すも許さないもない。貴女は何も悪くない……!」

 嗚咽混じりの返答に、香世子は呆気にとられたふうに瞬き、それからためらいがちに、上目遣いに私を見る。

「もし本当に許してくれるなら。……私を信じてくれるなら。一つ、お願いがあるの」

 図々しいのは承知だけど、と前置きして香世子は願いを口にした。

「時々でいいの。美雪ちゃんと遊ばせてくれない?」

 我が子を喪った女の寂しげな影が過ぎる。想いを素直に表現できなかった母親。愛していたと実感した今だからこそ、余計に恋しいのだろう。同様に、好きな子に素直になれなかった私にはその気持ちが手に取るようにわかった。

 私と香世子、二人きりなら友達に戻るのは難しい。そもそも本当の意味で『友達』だったことなど一度だって無かったかもしれない。だけれど美雪を間に挟めば、それなりの関係を築ける気がした。きっとうまくいく。私達はやり直せる。友達になれる。春になればお花見に。夏になったら花火。秋には幼稚園の運動会を一緒に応援して、冬には三人でケーキを焼いてクリスマスを祝おう――雲間から光が射し込むように、明るい未来を垣間見る。

 二十年、私たちはなんと遠回りをしたのだろう。だけど変わらない想いがあった、仰ぎ見た高台の城、夢に描いた主、舞い降りた少女。ずっと惹かれていた、あの日から、ずっと、ずっと、ずっと――

 私は半泣きのていで、大きく頷く。

「きっと美雪も喜ぶ。あの子、貴女からもらった『白雪姫』が大好きだから」

「ありがとう」

 香世子は安堵したように息を吐いた。

 ――良かったわね、香純。あなたにもお友達ができるわね。

 心底嬉しそうに顔をほころばせ、写真に手を伸ばす。だが、その指先は写真の上を通り過ぎ……その脇に立っていたソルトケースをむんずと掴んだ。

「美雪ちゃんと仲良くできるわよね、香純」

 香世子は囁く。白い陶製のシンプルな小瓶を握り締めて。頬を寄せ、撫ぜて、口づけて。とても愛おしそうに、うっとりと。

 ……でも、どうして、ソルトケース? 訝しんだその時。

「ママ?」

 香世子が座るソファの背後、襖が開いた。

 そこにはパジャマ姿、ウサギのぬいぐるみをひきずった美雪がいた。寝癖のついた髪、はれぼったい目、半開きの口。ずっと眠っていたのだろう、潤んだ瞳をぼうっとさまよわせる。

「ママ、おなかすいた」

 ペタペタと足音を立ててリビングに入り込む。そして見知らぬ大人に気付いて、元々丸い目をさらに丸くした。

「こんにちは、美雪ちゃん。私はママのお友達なの。これから仲良くしてね」

 香世子は背を屈め、美雪に目線を合わせて挨拶をした。そういえば、この二人は初対面になるのかもしれない。結局、美雪を連れ出したのは弥生であり、『Sun room』で美雪は眠っていたし、他の日はすれ違いになっていた。

 美雪は不思議そうに香世子を見つめていたが、やがてこくりと頷く。

「ショートケーキ好きかしら? とっても美味しいケーキがあるの。食べない?」

 美雪はもう一度こくりと頷く。

 香世子はにっこりと笑い、自分の皿に残っていたショートケーキを切り分け、一切れ突き刺したフォークの切っ先を差し出した。

「はい、あーん」

 香世子の声に促され、美雪は大きく口を開ける。

 クリームの白、スポンジの黄色、挟まれた苺の紅。そしてたっぷりと振り掛けられたソルトケースの粉のきらきら……

 ふいに。吹き上がるような怖気が背筋を駆け上がった。それは一瞬のうちに、一気に、一直線に頭蓋まで到達して――

 唐突に悟る。その危険性を。

 ソルトケース。純白の粉。腹を撫でた手。あの子をとても近くに感じるの――香世子。それは、まさか。

 美雪は唇を突き出してケーキを迎え入れようとする。

 私はソファの対岸にいる香世子と美雪を凝視する。一瞬、香世子と目が合った。彼女は私を嗤う。それはとても満ち足りた笑顔。

 ……やめ

 喉元まで出かかった声が凍りついた。

 私は香世子を許すと言ってしまった。信じると頷いてしまった。止めてしまえば、全てが嘘になってしまう。全てが嘘になってしまえば、美雪に手を出さないとの誓いも破られる。どうやっても私は止められない。それを知っているからこその香世子の笑顔。

 ようやく悟る。香世子が長い長い時間をかけて何をしようとしていたのか。私は原本をアレンジし、脚本を上書きした。だが、彼女は私が上書きした脚本に、さらに結末を書き加えたのだ。未来永劫、とけない呪いを。


 窓の外は、静寂の天気雪。

 部屋の中は、淡い白明。

 仲睦まじいお妃と姫君のような二人。

 私は此岸で身動きがとれない。

 一瞬が、永遠にも引き伸ばされる。

 そして、華奢なフォークが吸い込まれるように、美雪の紅い口に入り込み――

 

 それは、あまりに甘くとろける白雪姫の接吻キス

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