3-4

「私が貴女をいじめていたから、貴女の娘が死んだっていうの……?」

 長い物語の末、導き出された答え。そのあまりの暴論に、私の声は上擦った。

「そんなわけないじゃない! 今、初めて! 貴女に娘がいたと知ったのよ!」

 抗弁に、しかし香世子は無表情で、

「まさか。転校生が仲間外れにされるなんてよくある話よ。でなければ、いくらでも子どもが死んでしまうわ」

 ――あくまで香純を死なせたのは信号無視の車よ。

 呟いて紅茶を含む香世子をひどく場違いに感じる。会話にどうしようもないずれがある。目の前に座っているのに、磨硝子越しにしか彼女が見えない。吐き気が込み上げた。これ以上、向き合っていられない。

「……帰って。これ以上、ここにいるなら」

「警察に通報する?」

 答える前に、彼女はこちらが言うべき回答を発する。

「できるわけないわよね、そんなの」

 落ち着き払った彼女の態度が、絶対的なアドバンテージを証明していた。どうして? いや、考えてはならない。引きずり込まれる。警鐘が打ち鳴らされる。

 私は、ぐったりと俯き、声を、心を振り絞った。

「……もうやめて。美雪に手を出すのも、お継母さんに暴力をふるうのも。今なら、誰にも何も言わない」

 ふいに、ローテーブルの上、影が落ちる。狭くなった視界の中、香世子がふらりと立ち上がったのが見て取れた。つられて私も顔を上げれば、まともに視線がぶつかる。見下ろされるということは、思った以上に威圧を感じさせる。ぞっとして、私は反射的にソファの背に身体を押し付け、できる限り後退った。

 だが、香世子はついっと向きを変え、奥のキッチンへと進む。キッチンには刃物が置いてある――その危険性に気付き、私は腰を浮せた。美雪。襖の向こうには、あの子がいるのだ。

「ねえ」

 薄暗いキッチンからカウンター越しに声をかけられ、息が止まる。

「やっぱり食べない? 私、もう一つもらうわね」

 冷蔵庫から取り出したのだろう。香世子は手提げ型のケーキ箱を掲げてみせた。


 香世子が淹れ直した紅茶は同じ葉を使ったとは思えないほど豊かな香りを立ち昇らせていた。皿に並べられた純白のケーキの上には宝石めいた苺が乗せられている。

 どちらも普段なら魅力的に映ったのだろうが、今はまったく食指が動かない。一方の香世子はこちらの様子には構わず、二個目のケーキのセロハンを剥がしていた。そしてソルトケースを振りながら、一応訂正しておくけど、となんの気ない調子で話し始める。

「貴女は色々と勘違いしているわ。さっきの告発――とても良くできた脚本だと思うけれど、私が継母を虐待するなんてありえない」

「…………?」

 先程と同じ位置関係、ソファに座って向かい合う香世子を見つめる。一方の彼女はケーキに目線を落としたまま、

「私がこの町に戻ってきたのは継母のせいじゃない。継母のためよ」

「何が、違うっていうの」

 また一口、ケーキを口に運ぶ香世子に問う。それは言葉遊び。屁理屈。詭弁だ。だって私はその場にいたのだ。映し出されたシルエット、夜陰に響いた哀願、砕けたガラス……それらを無かったことにはできない。できるはずがない。

 ふっと、香世子は軽く嘆息し、フォークを置いた。

「継母は病気なの」

「……え?」

「若年性認知症の一種よ。脳の前頭葉、側頭葉の部位が萎縮して、感情や欲求を抑えられないんですって。暴れたり、叫んだり……父も限界だったんでしょうね。私は彼女を看るために呼び戻された」

 疲れた口調。凝視したその顔色は、陶器というよりも、紙の白さを連想させた。

 一度暴れると、落ち着かせるのが大変なの――香世子はジャケットの袖を二の腕までまくる。現れたのは、真っ白な腕に咲く、紫、青、緑、黒の斑模様。浮かび上がった痣は染付けの花に似て、鮮やかに私の目を奪う。

 ――継母が、病気。

 そんなのは全然知らない。一言も聞いていない。相談されていない……。疑う余裕もなく、グラグラ沸騰した薬缶のように頭が揺れた。その事実にではなく、事実を知らなかったことに。

 袖を戻す姿が妙に生々しく、私はいたたまれなくなって目を逸らす。それでも意識は彼女を凝視したままだった。小学生が好きな女の子にそっぽを向くのと同じに。

「継母は私をこの町から逃がしてくれた恩人よ。だから、今度はこちらが恩返しする番。私は彼女を看取るまであの家に居るわ」

 香世子はひとりごちるように呟く。まるで自分自身に言い聞かすように。彼女はそれきり黙りこんだ。

 母屋から流れてくるラジオの歌謡曲。拡声器越しの物干し竿売りの文句。自動車の走行音。外界の静かな喧騒が染み込んでくる。

 正午に近い太陽は、薄雲に遮られて陽射しは強くはないが、白く明るい。

 淡い光が満ちたリビングで、私達は無言のまま向かい合っていた。


「あなたが書いた脚本でいけば、美雪ちゃんを連れ出したのは、『継母への虐待』を口止めさせるための取り引き材料だったはず。でも、実際には虐待は無かった。これでは物語が破綻してしまうわね?」

 蝶が翅を休めるように目蓋を閉じていた香世子が、ゆっくりと私に問いかけた。

「ならどうして、弥生さんの手を借りてまでして、私はあんなことをしたのかしら?」

「…………」

「わからない?」

 私は答えない。答えられるはずがなかった。香世子は目を開け、待つように私を見つめていたが、黙り込んだ私に小さく嘆息し、滑らかに語り出す。

「昨日、あなたが幼稚園に向かったのが午後二時四十八分。随分と早歩きだったから着いたのは三時丁度ぐらいかしら。五分ほど先生と立ち話をしたとして……美雪ちゃんがいないのに気づいて、園内を捜し回って十分――いえ、十五分ぐらい? とすると美雪ちゃんが連れ出されたと認識したのが三時二十分」

 指揮者のタクトを振る仕草で、フォークを操り、宙に時間を描き出す。

「そして、あなたと美雪ちゃんが帰ってきたのが、午後三時五十分」

「……見張って、いたの?」

「言い方は悪いけれど、有体に言ってそうよ」

 詳細な時間にぞっとして尋ねると、香世子は薄く微笑する。このお家、とてもよく見えるのよ――レースのカーテンとシクラメンで彩られた出窓。その向こう、彼女の視線の先には高台の〈城〉がそびえ立っていた。

 喉がカラカラに渇いていた。けれど、目の前で柔らかな湯気を立てている紅茶に口をつける気にはなれない。

「どうして……」

 言い掛けて口を噤んだ。頭の中、一際大きな警鐘が鳴り響く。訊いては駄目。覗いては駄目。触れては駄目。香世子の微笑、それは金の鍵。青髭が新妻に絶対に開けてはならないと言い聞かせた扉を開ける――

「三時二十分から幼稚園の外の捜索を開始して、帰ってきたのは三時五十分。ということは外へ捜しに出ていた時間は三十分。帰り道の時間を差し引けば実際はもっと少ないでしょうね」

 香世子はフォークの先でケーキの天辺に乗った苺を突きながら話し続ける。

「……三十分。外を捜し回るにしては、随分と短時間よね?」

 苺の下はスポンジとクリーム。無理に突き刺そうと力を入れれば、土台が崩れてしまう。

「奇跡にも等しい時間で、あなたは美雪ちゃんを捜し当てた。基本的に美雪ちゃんを家の中で遊ばせていると言っていたあなたが。母の愛というやつかしら? いいえ、そんなものが幻想だということを、私は誰よりも知っている」

 慎重に、慎重に、何度か苺の表面を突っつき――  

「あなたは幼稚園で〝メッセージ〟――大根とハンカチ――を発見し、美雪ちゃんが私に連れ出されたと勘付いた。そして、真っ先にとある場所へ向かった」

 唐突に、香世子は蹴落とすようにフォークで苺を転がした。べしゃりと皿に落ちた果実に、ためらい無く、切っ先をぶっすり突き刺す。赤い果実を口に運び、咀嚼し、飲み込み……ようやく、彼女は私に焦点を据えた。

 逃げなければ、本能が囁く。けれど、同時に私の本能は美しい幼馴染から逃れられない。香世子が私を見つめる。私だけを。その、恍惚に逆らえない。

「……ねえ。あなた、どうして神社へ行ったの?」

 どくり、と血の塊が通っていくように、こめかみの辺りが熱く脈打った。

 彼女は淡い白日の下、さらけ出す。

 耳を塞いでも、首を振っても、頭を覆っても、透き通った声音はどこまでも追ってくる。

 二十年間、隠し通し、忘れようとした私達の秘密。

「あなたは最初から知っていたのよ。私がこの町を離れた理由。――二十年前、あの日、あの時、あの場所で。一体何が起こったか」

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