第04話 01

 卯月さんがおれを誘ったのは、ある晴れた夜のことだった。


 その日はどちらも仕事は休みで、なので卯月さんは早くから我が家に来ていた。台所に立ち、夕食の支度をする。そのうちに他の友人たちも集まり始め、毎夜のとおり饗宴が開かれる。思い思いに舌鼓を打ち、そののち銘銘きなことを開始する。いつもどおりの光景だ。おれは麻雀卓を囲む。(麻雀は、こちらに来て始めた遊戯だ。この世にこれほど面白いゲームがあろうとは!)の素人であるおれは、散散な結果に終わる。まだ絵合わせの域から脱せられないのだ。それでも大変に楽しめた。この遊戯は、運と実力の配分が絶妙なのである。雀力じゃんりょくに天地ほどの懸隔けんかくがあったとしても、必勝はあり得ない。ぎゃくに、おれみたいな初心者でも、運が良ければ勝つことができる。ボードゲームの完成型の一つだと断言しても良いだろう。人人が夢中になるのも納得というものだ。

 あーあ、と畳の上に仰臥ぎょうがする。負けて悔しい。だけど面白さはこれ以上だ。次こそは良いところを見せてやるぞと、おれは誓いを新たにした。

 と。

「ん?」

 ふと辺りがすっかり静まっていることに気がついた。逆さまになったまま部屋を見渡す。いつの間にか、いたはずの友人たちがいなくなっている。壁にかけられた時計に目をやる。長針がちょうど、まっすぐ床……ではなかった、天井を指した短針の上を通過していた。日付が変わった瞬間だ。要するに、おれたちは真夜中までこうして遊んでいたというわけだ。充分に満喫しただろうおれたち以外の友達は、もう帰っていた。気がつかなかった。きっと、いいや、必ず、みんな挨拶をして辞したに違いない。夢中になるあまり、生返事を返してしまっていた。(それすらも憶測でしかない。とほど遊戯に集中していたのだろう、時間泥棒の名に恥じない中毒性である。)それは卓を囲んでいた他の三人も同様で、

「おお、もうこんな時間じゃん」

「明日おきらんねーよ」

「ちょっ、早く帰ろーぜ」

 みな慌ただしく立ち上がっていた。おれもまた、緊張の糸が切れた途端、心身の疲弊に襲われていた。横になったらもう起きられない。寝ころんだまま、気をつけてねと見送った。

「わりー関口、片づけなくて」

「いいよそんなの。気をつけて帰りなね」

「ああ、じゃあまた明日……、いや、もう今日か」

「だな」

 そんな軽口を交わしながら、三人は手を振り廊下へと消える。おれも無作法だとは思いながらも、寝ころんだまま手を振った。見送らなくて悪いねー、それでも一抹の良心から声をかける。おうー、との返答は、もはや空耳かと疑う小ささである。皆と帰路についていた。

(さって、と。)

 ひとつ伸びをして回路を切り替える。ここからは“菜子”との時間だ。すっかり夜も更けている。明日……いいや、今日か、とにかく次の日の活動に支障をきたさないために、断腸の思いで時間を切り詰めなくてはならない。だったら暢気のんきに寝ころがっている場合じゃない、今すぐ動かないと、そう腰を浮かしかけた――――その刹那。


「すっかり夢中だね、関口くん」


 にっこりと卯月さんが覗き込んでいた。


「っ!」

 心臓が停止した。まったく準備を怠っていたおれは、意表外の一撃に、覚えず絶叫を挙げてしまうところであった。……寸前で踏みとどまれたのは、ひとえに鍛錬の賜物である。“菜子”との暮らしにより、おれの心身は鍛えられていた。とつぜん壁から顔を出すのは日常茶飯事、ひどいときには朝、目を覚ましたら、隣で生首のように首から上だけを出していたこともあった。(さすがに怒った。)迷信深い友達の言葉は、あながち見当違いというわけでもなかった。たしかにある意味、おれは『何か』に取り憑かれているのだ。無邪気で可愛らしい、“菜子”という『何か』に。

 そんなスリリングな毎日が、おれを成長させていた。滅多なことでは驚かない、強心臓を手に入れていた。知らず知らずのうちに精神の筋力が増していたのである。

「う、卯月さん、びっくりさせないでよー」

 それでもつかえる程度には驚いた。もうこの家屋には“菜子”以外だれもいないと決めつけてしまっていた。早計な判断は柔軟な思考力の妨げとなる、頭では解っているのだが、なかなか躰がいてきてくれない。さすがセンゴクに、関口君は物事をありのままに受け容れて疑うことを知らない、素直で純粋な人間だからねと、評されただけはある。(もちろんあいつ流の嫌味である。だがあいつの懐疑主義に比べたら、どんな人間だって幼子のように純粋無垢な存在になってしまうので、大して気にはならなかった。)とにかく良かった。亭主関白を気取って、“菜子”を大声で呼びつけたりしていたら、大変な事態に陥るところだった。……でも卯月さん、どこで何をしていたんだろう、そう思った。思っただけであったが、表情に変化が顕われていたらしく、察しの良い卯月さんはおれの疑問に答えてくれた。何でも台所で読書をしていたらしい、食事の片づけが終わって、ほんの暇つぶしのつもりで手に取ったら、すっかり没入してしまったのだそうだ。気がつくとこんな時間でびっくりしたとの感想は、誠に共感できた。たった今、同じ体験をしたばかりなのである。そっか、と再び回路を切り替える。この場に卯月さんという第三者がいる以上、優先順位は彼女が上だ。な自分を見せておかねばならない。おれは坐りなおし、彼女と向かい合う。なにか飲む? と喫茶を勧める。

「ありがと、でも大丈夫」

「そう?」

「うん」

 ありがとね、関口くん、二たび彼女は微笑んで言った。と、そのまま彼女は何やら窺うような顔つきへと変じる。躰を委縮させ、上目づかいでおれを仰ぐ。どこかで見たような光景だ、既視感に囚われる。こんな卯月さん、どっかで…………。

 と。

「あっあのねっ、関口くんっ!」

「!」

 もう少しでたどり着けそうだった解は、勢い込んだ卯月さんに雲散させられていた。なっ、なにっ? 慌てて答える。意識のヴェクトルを反転させる。外界へと向ける。視神経にを注ぎ込む。そうして両のに映されたのは――彼女にすれば珍しい、落ち着きを喪っている卯月さんの姿だった。

(……ん? 珍しい?)

 いだいた感想にもまた、既視感を覚える。たしか以前にも、同じ感想をいだいたことがあったはずだ。お姉さん然としている卯月さんには珍しいと、そう思った記憶が……。あれは一体、いつのことだったっけ…………。

 こたびの疑問にも、解が導かれることはなかった。それよりも先に、卯月さん自身が呈示してくれたからだ。大脳にそれとまったく同様のを作り、彼女は言ったのである。

 あのね、わたし……、お願いがあるんだけど、

 と。

 ああ、おもい出した。いつだか菜子に……じゃなかった、ロードスターに乗りたいって、お願いされたこと、あったっけ、追憶の中の卯月さんが、鮮明に。卯月さん、運転できて、とても喜んでたっけ。あと、おれが助手席だったから、菜子はトランクの辺で浮いたり沈んだりしていたけど、それでもいつもと異なる運転技法に昂奮していたよな。性能を限界まで引き出されて必死だったけど、走行し終えたあとは汗だくになりながらも、心底から満足げな表情を浮かべていたっけ。そうだ、昂り火照る心身を持て余して、菜子の側からしてきたんだよな、ああ、あの晩は凄かったなぁ。

 と、思考が暴走を起こす前に、おれはそれらを振り払っていた。いけない、いけない、今は卯月さんと会話中だった、そう手綱を引き絞った。二たび眼前の卯月さんに焦点を合わせた。なに? 尋ねてみる。もしかして、また車、乗りたいの?

 ううん、そうじゃないの、意外にも彼女は否定の言を述べていた。じゃあ、なに?おれは目線で問い尋ねる。彼女の返答を期待する。果たして卯月さんは、うん、とを置いてから、

 関口くん、これから一緒に、お風呂、入り行かない――?

 とした口調で、提案していたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る