第02話 07
……。
……。
“彼女”の顔に影が落ちる。遮蔽される、おれによって。誘われるまま、おれは顔を近づける。自らの唇を、“少女”のそれに重ねようと身を寄せる。だが寸前で阻まれてしまう。細い人差し指がおれの唇に当てられていた。冷たい。昼間とはまったく異なっている。
ねえ、“彼女”が問いかける。先に尋かせて、そう語尾を持ち上げる。ハスキーヴォイスも、今では耳に心地好い。当初いだいていた違和感も、消失していた。それが排気管に呼応しているのだと、後ほど知らされた。純正品の、本来の声質は、違っているのだと。だがもうすでに、その地点は通過していた。些末な問題だ、“彼女”の本質に比べれば。“彼女”が“彼女”である限り、身体的特徴など関係なかった。自らに誇りをいだいていて、かといって甘えてきたり、ころころと表情を変えてみたりと、そんな天衣無縫で純真爛漫な“彼女”でいてくれたなら、もうそれ以上は求めていなかった。
その“彼女”が咽喉を震わせる。大事にしてくれる――? と。わたしのこと、ずっと、ずっと大事にしてくれる――? と。
真剣な眼差しに貫かれた。じっと、あたかも脳内を透かして見ようとするかのように。……
推敲する。“彼女”をもっとも揺さぶる言葉を。もっとも、もっとも感銘を与えられる、言霊を。
そして。
「……おれで、」
「えっ?」
「おれで――――何人目?」
「!」
傾注するよう意図的に
……その質問、過去を詮索する質問に、“彼女”ははっと息を呑む。細胞を硬くさせる。視線が泳ぐ。どのように返答すべきか思案しているのだろう、そんな戸惑う表情を“彼女”は浮かべた。
おれは辛抱強く待つ。見極めようとする、この“少女”の本気度を。……通常の関係なら、おれの質問はルール違反であろう。過去を知ることによって、相手への態度を変えようとは、本来ならば許されない行為であろう。重要なのは『今』なのだから。過去にどのような人とどれくらい親密になっていたのかと、今現在とは、何の関係もないのである。――だがおれと“こいつ”との関係は、違う。おれたちの関係はもっと絶対的なものなのだ。そう、おれは『所有者』で、“彼女”は『所有物』、たとえ精神的立場が逆転していたとしても、これは覆らない絶対不変の真理であった。なのでおれが“こいつ”の遍歴を知るのは、至極当然の権利なのである。
だがおれは、“彼女”の遍歴自体には、さして関心がなかった。どれだけの人に所有され、乗られてきたからといって、そのことで“彼女”の価値が減じるなどとは考えていなかった。おれは中古車販売業者ではないのだ。ただ、そうただ、おれはどれだけ“こいつ”が真剣なのかを知りたいと思ったのだ。愛情を得たいのなら、それなりの覚悟を示してもらいたかった。所有者たるおれに、包み隠さず真実を述べてもらいたかった。はぐらかすような真似は、してほしくなかった。傲慢だとの
……しばらくのときが流れた。弱弱しい、同一人物とは思えないほどの声が、沈黙を破った。五人……、と。
“彼女”は怯えたような瞳で見上げてくる。裁定を待つ被告人の形相である。恥じているのだろうか、仕様のないことなのに。それともやはり、おれの変貌を恐れているのだろうか。おれはそこまで狭量な人間だと
それをありのままに伝えた。ありがとう、話してくれて、と。でもおれはそんなの気にしていないからと。
「だからその……、キミ――も、気に病む必要なんてないよ?」
「本当?」
「うん、だってそんなの、キミには関係ないから。キミのせいじゃないでしょ?」
「うん、でも……、『中古』って、イヤじゃない? いろんな人の癖とかついてるし……」
「それだってしょうがないよ。第一、絶版車なんでしょ? 新車が売ってないんだし、買えないんじゃ仕方ないよ」
それでも……、とおれの積極的な言葉にも、“彼女”は沈んだままである。どうやら“彼女”の禁忌に触れてしまったらしい。もしかしたら査定時に、何か非道いことを言われてしまったのかもしれない。
「…………」
“彼女”に贈る言葉の前ふりとして必要な情報だったのだが、不必要に困らせてしまった。萎れた花のように元気を喪う“彼女”に、おれは再び謝罪した。手を取った。先ほど唇に当てられていた、所在なく浮かんでいるその腕を握りしめた。そしてもう一度顔を寄り添わす。鼻と鼻が触れ合うほどに近く。じっと見つめる。言葉だけではなく、肉体の反応も用いて、証ししようとする。おれの紡ぐあや織りの、信憑性を。ただ単に美しいだけではない、ちからを加えると、すぐに綻んでしまうものでもない、ただ表向きに体裁を整えたものでもない、そんな丈夫な、実用的な織りもののように、これから述べるおれの言葉も、ただその場しのぎの真実を伴わない軽口などではないことを、信じてもらいたかった。
“彼女”の反応を窺った。“彼女”はびっくりと目を丸くしている。だがおれの視線を受け止めるにつれ、態度を改めはじめた。心を落ち着かせ、聴く準備を整える。真剣な眼差しでおれを射る。指が動く。おれの
至ったと感じた。時、ここに至れりと。そして、ゆっくりと唇を開いていった。贈った、“彼女”に。おれの想いと、そして決心を。
「ごめんね、言いたくないこと言わせちゃって。でも知りたかったんだ、どうしても」
「ううん、いいの」
「そう、ありがと。……でもそっか、おれで五人目か……」
「うん、ごめんね……」
「ううん、キミが謝ることじゃないよ。キミは悪くない、さっきも言ったでしょ?」
一たん間を置いて、息を整える。緊張を吐き出す。おれも倣ってちからを加える。握り返す、“彼女”の指を。今や緊密に結ばれたおれたちの指は、体温すら融け合いはじめる。冷たい“彼女”の五指が、温められる。薄い布地の手袋が、仄かに熱を持ちはじめる。ぎゃくにおれは冷やされる。おれは落ち着きを取り戻す。“彼女”によって鎮められる。それはなんと心地好いのだろう、まるで暑気を払う一陣の風のようだ。自然と手が伸びていた。もう一方の
「…………」
“彼女”も応じて掌を重ねる。おれの手は頬と
その溢れる想いに押されて、おれは告げた。
――六人目は来ないよ、と。
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