第8話 君への供物
物の少ない部屋。最初の感想はそれだった。
大して他の例を知っているわけではないけれど、あまり女性らしさが感じられない部屋だった。さっきのリンゴワックス・妹の部屋と比べると、差がハッキリする。
灰川は何かを探しているようだった。きっと重要な証拠品なのだろう。
手袋をつけたまま、乱暴に棚を順々に開け放っていっている。確かに窓を割った時点で、どんなに部屋の中を物色してないように見せかけても無駄なのはわかるが、それにしても極端だ。
「由良君、君は助野という人間そのものを探れ。自己投影、感情移入だ。材料はいくらでも」
「うるさい、物を動かすな」
自分で思っていたよりもずっと、硬質な声が出た。僕は灰川に指示される前から、助野に深く入り込もうとしていた。そのためには近くでバタバタされるのは気に食わない。
「……二分あげよう。それで全部片付けたまえ」
嫌なことを言われたにもかかわらず、灰川は上機嫌な様子で、部屋の外に出た。
頭の中で黒服が「君はやっぱり、自分の気持ちすらもわかっていないんだ。君はもう探偵助手という仕事に立派なプロ意識を持って臨んでいるんだよ。かーわいーいねー」と言ってくる。シャットアウト。
──図書館の扉を閉めて、『僕』を捨てる。
助野透の中に深く入り込む。
ベッドに寝転がる。シーツはクタクタだが、擦り切れてはいない=仰向けで寝ているから。
天井の迷路のような模様を何度も辿ったが、ゴールを見つける前にいつも飽きてしまう。
枕から軽く頭を上げて見えるものは、左に壁、そこから伝って扉、正面側の壁にクローゼット、右側の壁に薄い本棚と窓、そして角に机。
本棚はゴミだ。
本が並べられた順番は作者別ではなく、出版社やサイズ別でもない。漫画すら巻数がシャッフルされている。助野は本なんて読まない。周りから与えられたものばかりで、当座の人間関係を回すために二日は内容を暗記していたかもしれないが、それ以降は捨てることすらも面倒で、ただ置いてあるだけだ。ここからは何も読み取れない。
クローゼットを開けると、よく着ているのであろうボーイッシュな服に隠れて、使用感の少ない女性的な服があった。前者は雑な畳み方、後者は丁寧にしまわれている。下着は派手なものが多い。学校以外ではズボンを穿くことが多いからだ。見えない所に力を入れるのがお洒落なのかもな。
ふふん、わかりやすい奴め。
机に向かう。
一見整頓されているようだけれど、立てられた辞書の天の部分にはほこりが被さっている。『私』は普段からそんな部分まで掃除する気にはなれない。
机が綺麗に見えるのは、一度置いた場所から動かしてないから。学校で勉強して塾にも通ってその上、家でまで勉強する気にはなれない。
三段ある引き出しの中を見ている時間はない。机の上に置かれたノートパソコンを開く。
さほどパソコンに詳しくない『僕』でも、この機種は知っている。高くてデザイン性重視=クリエイターもしくは見栄坊が好むタイプ。入学祝いに買ってもらったのかな?
パスワード入力画面が表示された。僕はスタンドライトのスイッチを入れる。キーボードが照らされて、指の油が特に付いている部分が見える。
ああ、僕は今手袋をしている。何も、問題は、ない。
次は文字列の順番だ。一人目・足立玲美(レミ)。二人目・高木詩歩(C)。三人目・平田瑠華(ルッキー)。四人目・新城真由(マユ)。
親友=信者=被害者=私たちが完全になるための供物。
私の視点に、僕の主観が混じりかける。感情移入の妨げだ。でも、侮蔑を抑えられない。唇が歪む。
「ARTSHRSM」頭文字を順番に入力=駄目。
灰川に見せられたファイルを思い出せ。助野の誕生日だ。こいつに高尚なセキュリティ意識などない。私にはわかっている。だって僕は私で、私はオレだからだ。
「ARTSHRSM0917」=成功。
デスクトップの壁紙は、遊園地の写真。助野の携帯で撮ったのだろう、グループの四人、足立高木平田新城が写っている。ふーん。
「二分だ。成果は得られたかね?」
背後に灰川の声。
ああ、充分だとも。
「改めて聞こう。助野はどんな性格だ?」
灰川は相変わらず部屋の中をうろうろと歩き回りながら、僕に問いかけた。まだ探し物が見つからないのだろう。
「典型的な空気が読めないタイプ。僕は絶対口をききたくないけど、周りに止めてくれる奴がいなかったんだろうな。むしろ、止めない奴を選んでつるんでいたのかも。何かを褒めようとすると、必ず何か似たジャンルの別の物の悪口を言って、相対的に持ち上げようとする。この世に明確な色分けが出来ると思っているから、敵と味方を分けたがる。そして敵のことは侮蔑して、理解しようとはしない。想像力がないんだ。
歪んだジェンダー観を持ってはいるが、それは半分以上グループの中で押し付けられたポジションからの意見でしかない。自分のことを性同一性障害だと思いたがっているが、実際それは演技だ。本当は自分の中に何も特別なものがないから、演出の一環。ただ馬鹿だから、自分で自分のついた嘘を信じようとして、嘘と本当の区別がつかなくなって嘘を半分以上信じてしまったせいで、人生に引っ込みがつかなくなってる。そんな小心者だがさっきも言った通り、意識を内側ではなく外側に向けて責任転嫁する癖があるから当然、自覚はない」
「随分憎々しげに語るんだねえ」
僕の偏見に憶測を浸した感想に、灰川は口笛で応える。
「ただの同族嫌悪だよ」
お前と皇と同じように、とは言わなかった。僕だって、沈黙の有用性を知っている。
「それは違う。まだ感情移入が抜けきっていないようだな。君と助野はまるで別物だよ。背筋を伸ばしたまえ」
背中をさすられて、少しだけ気分がマシになる。そうだ、確かに僕は入れ込みすぎていた。言葉にしたことで、かなり毒を吐き出せたようだった。
「さて、そんな小心者が大事なものを隠すとしたら、どこだと思う?」
「そうだな……僕なら、隠しておきたい大切なものなら、なくなってないか不安で何度も見てしまうだろうから、きっと手の届く範囲だ。隠しはするけど、助野は他人がどう探すだろうかってことまで想像出来ないだろうから、自分が隠したと思えるだけの自己満足をしているはず」
「ふむ」
退屈そうに鼻を鳴らすと、灰川は机の引き出しを一段ずつ引っ張り出して、逆さにした。引き出しの裏面には、一つずつ携帯電話が張り付けられていた。まず間違いなく、被害者たちの物だろう。
「感傷か……つまらん」
灰川が薄い端末を指の中で弄びながら言った、その言葉の意味がわからなくて聞き返す。
「僕はホラー映画が嫌いだ。怖いんじゃないぞ。ああいった作品では、常に登場人物は間違いを犯す。その結果として凄惨な末路を迎えるわけだが。君、考えてもみたまえよ。ゾンビに囲まれたホームセンターの中で、上手くやりくりすればしばらくは生きていけるのに、仲間割れとかしてる場合か?
本当に自分の目的を遂げようとするのなら、常に最短の距離と時間で最善の一手を打ち続ける必要がある。感傷はその手を鈍らせる。だから僕はホラー映画が好きじゃないし、こういう感傷で無駄なことをしているのを見ると、どうもね……」
確かに、被害者の携帯電話を破壊しないで取っておくのはこれ以上ない証拠になるし、GPS機能はさすがに切ってあるだろうが、居場所を特定されてもおかしくない。そんな道理を捻じ曲げてまで馬鹿な行為に人を走らせるのは、感傷以外にない。そもそも、この事件の一連の流れ自体がどうしようもなく感傷に支配されているのだけれど、灰川にはそれが納得出来ないのだ。言葉の端々に散った軽蔑は、理解から自分自身を遠ざけてしまう。
灰川の横顔には、ある種の特別さ故の孤独が、うっすらと積もっていた。
僕は、僕が隣にいるのにそんな顔をしてほしくなかった。
馬鹿にしてやがる、と思った。
僕はそんなに頼りないか、とも。
だから、言った。
「でもさ、犯人が犯行計画やら歪んだ思想やらについて書き残した手記が見つかるのって、正直グッと来ない?」
「……わかってるじゃないか、由良君」
そこには、いつもの不敵な笑みが戻っていた。
「さて、そろそろ助野が戻ってきてもおかしくない。帰り支度は済んだかね」
「部屋はこのままでいいのか?」
僕は手を広げて惨状を示す。引き出しの中身は言わずもがな、灰川によって引っ掻き回された室内は足の踏み場もない。
「良いんだ。物色されたこと、大切な物がなくなっていることをあえてアピールするんだ。当然、助野は僕たちを疑うだろうが、最重要証拠物件は僕らの手の中、しかもデータと来ればいくらでも複製があってもおかしくない。逆にこうすることで、彼女は僕たちに手を出せなくなる」
そう言うと灰川は奪った携帯をしまい、鼻歌交じりに階段を降りた。
僕たちは堂々と一階の玄関のカギを内側から開けて、拍子抜けするくらいあっさりと帰路についた。
「この家までの道は覚えたね。それでは一週間後の焼き肉パーティが楽しみだな」
「ちょ、ちょっと待て。焼き肉パーティってここでやるのか? もしかして主催って助野?」
だとしたら不味い。非常に不味い。
脳裏におぞましいイメージがよぎった──××を食べる人。
「そうだよ。彼女の家はお金持ちだから、良ーいものを食べさせてくれるだろうね」
「やっぱり、僕はパスで……」
「パーティ自体は夜だが、君には昼からあの家に潜入してやってもらいたいことがある。今回と同じような感じでやればいい。津田にも話は通してある」
決定事項のようだった。こうなると灰川は何を言っても聞き届けてくれないので、代わりに別の質問をする。
「津田って、あの青リンゴのワックスの奴だよな。あいつ、空き巣の通り道のためだけに使われたの?」
「最近の鍵は開けるのに時間がかかるからね。難解な知恵の輪は圧倒的な暴力で引き千切ってしまえばいいのさ」
「お前に探偵の美学はないのか」
「あるさ。凡人に理解してもらう必要がないだけさ。それに、彼は君のことを侮辱した態度を取ったからね」
……不意打ちで、ちょっと、本当にちょっとだけ、目頭が熱くなる。
涙をこらえたせいで、喉が渇く。
「僕の玩具で遊んでいいのも、傷つけていいのも壊していいのもこの世にただ一人、僕だけだ。他のつまらん輩に勝手をされるのは気に食わないのさ」
「……僕の感動を返せ!」
うっかりまた大声を出してしまったせいで、辺りの家にポツポツと明かりが点き始めた。
「馬鹿! 間抜け!」
「うるさい、お前が悪いんだ!」
僕たちは急いで元来た道を往く。行きと同じように、二人乗りで。
*
殉教だ。
灰川は最初からそう言っていたし、被害者の携帯を奪うことでその証明をして見せた。
助野たちは顔を合わせていない間にも、短文をやり取り出来る一種のチャットアプリで毎日延々飽きもせずに、自分たちの妄想世界を強固にしようと腐心していたのだ。以下はその内容の転載である。
「体が動かない……リタリン欲しい(顔文字)(泣)」
「私たち、一つになる」
「完全な姿に」
「上へ上へ……もっと上へ」
「(迷走中)」
「どこにいても、居場所がない気がする」
「生まれ変わることこそ、幸福」
「この世界に私たちの居場所なんてない」
「どうして、みんな私を避けるの? 嫌われてる、わかってた」
「痛いよ……でも 私はここにいる(リストカットをした画像添付)」
「死んでから また 私たちは 出会う」
「いつも頼ってばっかり。何もかもうまくいかない。。」
「一人になったら自殺しちゃいそう~」
「ずっと 一緒だよ」
エトセトラエトセトラ……。馬っ鹿じゃねーのって思いながら読み進めていくと、どうやらやってる本人たちはマジであることに気がつく。そして、いつの間にか彼女たちの世界に引きずり込まれかけていた。
僕は自分の正しさを確信することなど狂気の類だと思っている。
とは言っても、人ってのは大体どこかで自分の正しさを信じていないと辛くて辛くてしょうがなくなって、仕舞いには心とか身体とか周りの人とか色んなものを死なせてしまうから仕方のないことなのだ。
じゃあ、そうじゃない僕という人間は頭のネジが飛んでるのかっていったら多分そうじゃなくって、物事の判断において『正しさ』にはまるで自信がない代わりに、『好き/嫌い』とか「自分にとって都合がいいか/悪いか」とかの概念がガッツリ食い込んでいるってのが本当のところじゃないかなあと思う。
逆に言ってしまえば、認識すること自体がその人にとっての世界で、クオリアの例を出すまでもなく『俺にとっての赤色』が『お前にとっての赤色』『他人にとっての赤色』『大多数の認める赤色』『全世界共通の絶対の赤色』である必要などないし、確かめる術もない。つまり、周囲から見れば嘘のことでも、それを信じる人のにとって、もっと言うならその人の世界の中にはそれが“ある”のだ。
携帯を投げ出して、僕は畳の上に寝転がった。
灰川から送られてきた『証拠』はかなりの分量だったせいで、眼精疲労がえぐいことになっていたけれど、この眩暈はそれだけではないはずだ。
──殉教。
僕が考えるのはそのことばかり。本当に人は信じる者のために死ぬことが出来るのか? よしんば出来たとして、助野なんかがそれに値するのか?
僕は考える。あのグループの中での本当のヒエラルキーを。
思い出されるのは、デパートで僕が彼女らに感情移入した時のことだ。助野に、自分を性同一性障害だと思いたがるというキャラクターを押し付けたのは、足立だ。最初に殺されたのも足立。
順当に行くなら、裏のボスに頭を抑え付けられ続けたのに我慢ならなくなった助野がぶちキレて、本当のグループのトップだった足立を惨殺した、ということになる。しかし、そうなると他の三人を殺す理由がない。今まで序列が最下位だったとしても、上から順々に繰り上がるのではなく、下剋上として一気にトップになれるのだから、むしろグループの存続に躍起になるはずだ。
殉教。やはり問題はそこに戻ってくる。そして、それにはグループ内の序列が深くかかわってくるのだ。
確認する必要がある。そして、勝つための準備も。そう決めたので、出かけることにした。
部屋の隅にほっぽらかしてあったナップザックを引き寄せた。中身を確認すると、灰川にドロップキックをくらった日、つまり助野に感情移入した日のままだった。
青いビニールシートと鉈、薄くて大きく反った皮剥ぎ用のナイフ。そして、大きな黒塗りのビニール袋。
ム゛ー、ム゛ー。手に取った瞬間、携帯が鳴る。メールだ。
「焼き肉パーティのお知らせ! 会場は助野の家、会費は何と一人たったの500円! 9時集合でヨロシク」
あっそ。そのままポケットに突っ込む。
そして、最後にとっておき。
その廃工場は学校と新城の家とを結んだ直線状にある。
触れた物を透明にする能力と、人間離れした怪力を持つ助野にとっては距離など関係ないけれど、女子高生を拉致監禁するにはもってこいの位置関係だ。
ある程度の事情を知っていれば、特定することは容易い。
中は鉄錆びのにおいこそすれども、血のにおいはしなかった。服ににおいはついておらず、当然、僕から何も読み取ることは出来ない。
廃工場から出た時に灰川が待ち伏せしていても驚かなかったのは、これらのことをよく頭に入れておいたからだった。
「その中に、新城がいるのか」
灰川の常套手段──最初に横っ面をひっぱたいて、眼を離せなくさせる。僕はそれをもう見慣れている。
「うん。宿便を出させるためだ」
あえて、もう灰川が辿りついているだろう結論の一端をこちらから渡す。
弟にだけ使う、兄弟語のような言葉の曲芸飛行。傍から見れば何を言っているのかわからないだろうけど、僕たちは通じ合っている。その証拠に、灰川の眼には理解の色がある。
「──探偵は巫女だ。そう言ったよな」
「うん、言ったね」
冷たいレーザーのような視線が、僕を貫く。灰川がこんな風に僕を見るのは初めてだった。僕を容疑者として考えていた時でも、まだ余裕があった。
それでも、僕は灰川の瞳に見とれざるを得なかった。彼女はブラックホールだ。すべてを食い尽くして、光すらもその渦から逃れることは出来ないのだ。そして、僕も。
「僕は明日、推理をするよ。正しいかどうかは関係ない。ただ、事件を解決するためだけの推理を」
「そうだろうね。探偵ってのはそれで良いんだと思うよ」
僕は答える一瞬の間に、『図書館』の連中から渡されたギプスのことを思い出していた。ギプスは僕がしていた物じゃない。灰川のしていた物だ。
*
ギプスは鍵だ。
上に巻かれた包帯がほどけ、樹脂が音もなくとろける。流れ出したそれは、鍵へと形を変えた。
まだらになった扉にその鍵を差し込むと、音もなく扉が開いた。
そこには子供の頃の灰川がいた。ベッドで全身を包帯に巻かれて横たわり、まぶたの動く様子がない。
枕元には僕もいる──馬鹿でマヌケな僕/ぼんやり歩いていたせいで、赤信号にも気付かない僕/灰川に突き飛ばされて、何が何だかわからない僕/自分を助けるために灰川が車に轢かれたって言うのに、ビビってしまって声も出ない、最低で最悪の僕。
僕は後悔している。
意識がまだ戻らない灰川を見て、もしかしたらこれから先、一生目が覚めないかもしれない灰川の代わりに、僕が轢かれてしまえば良かったのだと。
僕の心は千々に裂かれて、そう感じる権利すらないように思えた。
僕は彷徨する悲しみの線だった。
そして、そう、ここがすべての始まりだったのだ。
──まず最初に声がかけられた。
「俊公君、泣いていますの……?」
僕は悪魔に魂を売り渡した。
*
眩暈を切断するように、頭を振る。
こんなにも僕が抵抗するのもまた、初めてだった。灰川はふい、と視線を落とした。
「……終わったらお仕置きだよ」
すねたような口調だった。
事情を話せたらどんなにか楽になるだろう、と思った。
僕は困難から逃げないという、ある種のマゾっぽいヒロイズムに興味はなかったけれど、しかし、灰川には悪魔の領域に一歩たりとも踏み込んでほしくはなかった。
それは僕の背負う業だと思ったし、自分を罰することで楽になろうとする、倒錯的な甘えだとも思った。
もしかしたら、矜持と呼ぶべきものなのかとも。
譲ろうとしない僕を、灰川は別の角度から解体することに決めたようだった。
「行こうか。ここじゃあ、場所が悪いから」
灰川の隣に並ぶ前に、廃工場の中に向けて軽く手を振った。この角度からなら、捕らえられて透明にされたままの新城にも見えるはずだった。
場合によっては、これが彼女への最後の挨拶になるかもしれない。そう思いながら。
「お前は、どうして僕がいじめられっ子だと思ったんだ?」
歩きつつ、あえて自分から切り込んでいく。僕は自分の有用性を灰川に証明したいと思っていた。この事件の解決に、ちゃんと一枚噛ませてもらう必要がある。今はそう感じていたから。
これは一種の勝負事だった。
「そんなこと言ったかな?」
愉快気な返答。やる気を見せ始めた生徒を見守る、教師の風情。
「言ったよ」
「なら聞こうか。君は腕時計をしないな。何故だい?」
「そういう習慣がないんだ」
「習慣がつかなかった理由を聞いているのさ。」
答えがわかりきったやり取り。
熟練のスポーツ選手が相手の力量を読み切ってラリーを続けるように、訓練された兵隊が一糸乱れぬ動作で作戦を遂行するように、僕たちは言葉を弄ぶ。
灰川はその卓越した知性で、僕は灰川が「感じやすい」と言った自己投影能力で、互いが互いに何を言うかを高い精度で読み合っていた。
遅滞なき意思疎通──双方向に。
「答えは簡単、君は社会を憎んでいるから。約束したい相手もおらず、自分を社会に拘束する首輪をつけたくないから。君が携帯電話をいいかげんに扱うのと同じ理由だね。そして、いじめというものは社会性が行うものだ」
「それだけの理由?」
「あとは、そうだな、君が僕に触れるのを極端に恐れているように見えたからだ。子供というのは不思議なもので、別の猿山にいる個体でも同じような行為をすることがよくある。例えばいじめのやり方だ。いじめられっ子が触れた物を『○○菌』なんて言って避ける遊びが流行ったよな。それを覚えている人間は向こうから触れられた時でも、怯え、逃げ出そうとする傾向がある。君のぼんやりした態度や垢抜けない服とあわせて考えれば、おのずと答えは見えてくるだろう」
「いや、君は間違ってる。僕はいじめられたことなんかない」
「……詳しく聞きたいね」
初めて、灰川の言葉に遅延が生じた。
「僕はいじめっ子だった。クラスにいじめられそうな子がいたから、その子をいじめた。そうしないと、僕がいじめられるのがわかっていたから。僕が参加したのは一度だけだったけど、いじめられた子にとってはずっとだ。僕もそれからずっと、自分にはどんな価値をも見合わないと思ってる。死んでしまうべきだと」
「──想像力だ」
「何?」
ここから先はお互いに読み切れなかった、未知の領分だった。どんなに優れたプレイヤーでも、いや、優れているからこそ、偶然にその身を委ねなくてはならない瞬間が来る。それが今だった。僕たちはネットにかかって跳ねたボールだった。どちらのコートに落ちるかは、神ですらも知ることは出来ない。
切れすぎる言葉が、触れたことのない場所をえぐり、暴き出そうとしていた。
「君の恐怖はどこから来る? 答えは想像力だ。君の心に深く根付いた怯えは、君自身の最も優れた才能によってもたらされたものだ。鋭利な才能は、時に持ち手を傷つける。ならば、どうする」
「僕は見ないようにした。他人のことなど、誰も、僕の中に入れないようにと。誰も助けられず、誰も助けてくれないなら、僕は……」
「駄目だ、駄目だ駄目だ駄目だ!」
灰川には珍しく、生のままの感情を剥き出しにした叫びだった。
怒号に乗せて灰川は足を止め、僕の方に向き直った。そして胸を張る。
「自分のことをつまらない奴だと思いながら生きるのはつまらないことだ。そして楽だろうな。誰も彼も、自分さえも見下していれば済むだけの話だ。だが、僕はそんなことを君に許した覚えはないぞ。自分を敗北にしか値しないと決めつけた者には、いかなる価値も振り向かない!」
「んなこと言っても、僕はそれでいいよ、勝手に償った気になれば。でも、一度殺された人は本当の意味で他人を許すことなんてない! 許したように思っても、ずっとずっと永遠に、殺されたままなんだ!」
いつの間にか、僕まで絶叫していた。そうせずにはおれなかった。
覆い被せるように、灰川の声が響いた。
思えば、こんな風に自分の内にあるものをぶつけ合うのは、初めてだった。
灰川とも、他の誰とも。家族でさえも。
「後悔を取り戻せ! それがどんなに独り善がりで傲慢に思えても、僕が許す! 君はあいにくと僕の助手だ、腑抜けのままではいさせないぞ。君がどんなに空っぽの男だろうと、空っぽのままでなんていさせてやらない。僕が君に価値を吹き込んでやる、意味で満たしてやる」
「うう、ううううう」
喉が渇く。
悲しみでもなく、痛みでもない何かが僕の喉を切り裂いて、噴出しようとしていた。
言葉に出来ないものだ。だからこそ、意味がある。
「君は夢を見るか。昼に見る夢だ。君には空想癖があるな、いや、あったと言うべきか。この頃それも鳴りを潜めている。僕と冒険をするのが楽しくって仕方ないからだ。夢の国に遊ぶよりも楽しいことを知ってしまったからだ」
僕は灰川から眼を離せない。夢の中に、逃げられない。
あまりにも美しいものを見たから。
どんな夢よりも見果てぬ人を見つけたから。
「いいか、真昼の夢にも僕を見ろ! 自分で自分をつまらない奴と思って生きるのは辛く苦しく、そして無価値だ。自分の人生を喜びで塗り替えるんだ」
僕に詰め寄る灰川。一言ごとに胸を人差し指で突かれて、その度に息が止まりそうになる。
「でも、どうやって……」
「僕が価値を与えてやると言っただろう」
往生際も悪く口を濁す僕に対して一転、ねっとりとした声音で灰川はそう言った。
そして、僕の服の襟が引っ張られた。
「う、む」
世界が爆発したような気がした。
「ぷは。君は探偵助手だ。他の誰でもない、僕の探偵助手だ。価値がないはずないだろう」
灰川の口に、唾液が糸を引いているのが見えた。それは、僕の口と繋がっていた。
瞬くような情交。
その時間はわずかなものだったけれど、目がチカチカするし、唇と心臓には火が灯った。
「やれるな?」
「……うん」
この世を愛おしいと思えるだけの何か。それをようやく理解した気がした。
壊れ物ばかりの土地で与えられる、慰めの報酬。その意味を、その価値を。そして、その理由を。
だから、夢のような現実が醒めない内に、僕は上着のポケットに手をやった。そこにはとっておきのものが入っていたが、形が定まっていなかった。
たった今、形を決めた。そうあるのが最もふさわしいと思うように、僕はポケットの中身に魂の力を注いだ。
体温にも似た生命の息吹が与えられ、回転する/正しい形へと移り変わる/僕の手の中で卵の殻が割れ、孵化するのを感じた。
「これを受け取ってくれないか」
取り出したのは、濃紺色の箱だった。
感傷だ。
恥ずかしい。そんな思いもあったが、僕はそれ以上に真剣だったし、茶化す気にもなれなかった。
渡すなら今しかない。
「僕はこれから、ちょっとした賭けをしようと思う。勝っても負けても割と洒落にならないような、ね。その時はさ、泣いても笑っても隣にいてくれないか。いてくれるだけでいい。ただ見ていてほしい。それは手付金だ」
「はは、僕も気に入られたもんだな」
「そうだ。僕はお前が気に入ったのさ」
再び、一瞬だけ互いの指が触れ合う。
灰川は迷わず箱を開けた。中に入っていたのは銀色の指輪だ。
宝石も飾り彫りも何もない、ただただシンプルな指輪。内側にだけ、日本語でも英語でも、何語でもない文字が彫ってあった。それは僕の魂を使って削った文字だったので、他に読める者は誰もいなかった。
誰にも読んでほしくなかった。あんまりにも恥ずかしいから。
手袋を外すと、珍しく紅潮した顔で灰川は左手にその指輪を持っていく、が、不意にその動きが止まり、見る見る内にその表情が泣き笑いのように変わる。初めて見る表情だった。
ヤバい、何かミスったかと思っていると、
「どっちの薬指にはめればいいのか、わかんないや」
僕たちは二人して笑った。涙が出るほど笑い続けて、それから、僕は自分の手袋を外すと、指輪を一旦受け取り、灰川の左手を握った。
──白くて細くて、そして柔らかな六本指。
小指側から数えて、二番目の指に僕は指輪をはめた。
僕自身をすべて与えるという証が、かえって灰川を占有する証のように表れるのだから、何だかおかしくなって、僕たちはまた笑った。
*
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