fresa

杠葉結夜

fresa

 2人きりの保健室。

 甘いくちづけ。

 ああ、もう、僕は――

 彼女に囚われてしまったんだ。



 空の明るさと不釣合いな夕焼け小焼けのメロディーが、中途半端なエコーと共に今日も僕の耳に届いた。

「もう5時。今日はこれで終わりにしようか、三滝みたきくん。ありがとうね」

 ゆっくりとパソコン画面から顔を上げた先生が僕に向けて優しく微笑んだ。僕も手にしていたアンケート用紙を整えながら、微笑み返す。

「わかりました。明日も手伝いますか?」

 手元に視線を移して僕は尋ねた。昨日から手をつけ始めて結構進んだと思っていたが、まだ2年の3クラスと3年生7クラス全ての分に手をつけられていなかった。

「明日は私が午後出張入ってるから、大丈夫よ。いつも仕事手伝ってもらってばっかりで悪いし、たまには高校生らしく寄り道でもして帰ったら?」

 まだ明るいしね、と先生が椅子を回して窓の外を眺めたのにつられ、僕も視線をそちらに向ける。梅雨の時期とは思えないほどに晴れ渡った空だ。また明日の夜には雨に戻るらしいが、少なくとも明日、僕が家に帰るまではその心配はなさそうだった。

 しかし、金曜にはこのアンケート結果をまとめたうえで定例会を行うと言っていたが、これ、間に合うのか? まあ、先生なりに解決策は考えてくれているだろうから、僕は何も言わないでおくことにする。

「久しぶりに晴れたし、どこかに寄って帰るには絶好の天気よ」

 そんな僕の内心など全く気づいていないようだ、軽やかに椅子を回して再び僕に向かい合った先生は、どこか嬉しそうだった。以前話してくれた、彼女の高校時代のことでも思い出したのだろうか。

 わからないが、ただ、生憎僕は先生と違うタイプだ。

「あの、あんまりそういう趣味はないって、前に言いませんでしたっけ。いつもここに来ているのは、ここの居心地がいいからと、一応委員長だからって理由なので」

 僅かに眉根を寄せて先生を見ると、彼女はくすくすと楽しそうに笑った。

「わかっているわ。でも、ここまで仕事を手伝ってくれる委員長も珍しいのよ。みんな名ばかりというか、じゃんけんで負けたからやりますって感じで、定例会以外ではここに寄り付きもしないもの」

「それは……一応僕は3年間やっているからっていうのもあるので」

 それともう1つ理由はあるけど、口にはしない。先生もわかってくれているので、ただ楽しそうに微笑みながら言葉を返してくれる。

「それでも、よ。まあ、私としてはすごくありがたいけれど。今年は三滝くんのおかげでこのアンケートの集計がいつもの倍以上早く進んでるわー、ふふ、真面目で結構」

 これで倍以上って、普段どれだけ時間をかけていたんだ、先生このひとは。思わず突っ込みそうになったが、冷静に考えればこのアンケートを学年ごとに集計してパソコンに打ち込むという作業は1人でやるにはあまりにも膨大なものだ。今までよく1人でこなしてきたな、と彼女を少し尊敬した。

「さて、と」

 先生が大きく伸びをして立ち上がった。

「ちょっと中等部の保健室行ってくるわね。生徒きた時に誰もいないと困るだろうから、三滝くん、ここにいてくれない? 軽い治療ならやってくれて構わないから」

 さらっとつけた一言で彼女が僕をどれだけ信頼してくれているのか実感できる。今まで機会があるたび軽い治療の心得のようなものは教わってきたから、その結果だろう。

「大丈夫ですよ。どのくらいかかる予定ですか?」

「んー、さすがに1時間はかからないはずだけど。先生に捕まったらどうなるかわからないからね」

 あー、と僕は苦笑いを返した。中等部の保健教諭には何度か会ったことがあるが、とにかくしゃべるのが大好きな人で、1度捕まったらなかなか離しそうにない雰囲気だった。同じ保健教諭である彼女は格好の話し相手だろう。

「わかりました。じゃあこの机、このまま借りてもいいですか? 予習したいので」

 コンコン、とさっきまでアンケート用紙と向かい合っていた机を軽く叩いた。歩き出していた先生が一瞬歩みを止めて振り返り、確かに頷く。

「いいわよ。ごめんね、受験生なのに。行ってくるわね」

 お願いね、と言って白衣を翻した彼女がドアを閉めるのを確認してから、僕は足元に置いておいた鞄を開いた。



 やはり数Ⅲは好きになれない。受験ではⅠAⅡBまでしか使わないからできればやりたくないが、カリキュラムなのだ、仕方ない。

 予習をするたびにそんな思いが浮かんでしまう。だが、それをどうにか抑え込んで、僕は予習を進めていた。

 先生が去って5分ほど経った頃。

 軽やかにドアが開き、躊躇いのない呼びかけが僕の鼓膜を揺らした。

「失礼しまーす、真衣まい先せ……って」

 その聞き慣れた声に、僕は思わず顔を上げて、呼びかけていた。

松川まつかわ

「三滝じゃん、相変わらず手伝ってんだね。真衣先生は?」

 同じクラスかつ唯一この3年間真面目に保健委員を共にやっている、陸上部員の副委員長、松川だった。ドアを閉め、僕の方に歩いてくる。練習後なのか、制服だ。ぱっと見た瞬間に、はっきりとはしなかったがどこか違和感を覚えた。軽く目を閉じてから再度彼女を見ると、少しではあるが右足を庇う歩き方をしていることに気づいた。それに、今はまだ5時半にもなっていない。練習が終わるにしては少し早い時間だ。

「中等部の保健室行ってる。足、どうかした?」

 保健室で彼女に対して遠慮はいらない。怪我にまつわることなら尚更だ。

「そっか。って、ばれた? 前に捻挫したところ、さっきの練習で軽く痛めちゃってさ。湿布もらえないかなって」

 松川は笑顔を浮かべていたが、目は笑っていなかった。7月に大会がある、と以前口にしていたことを思い出す。おそらくそれが最後の大会なのだろう。少しとはいえ痛めたことに変わりはないのだ。これがどれくらい影響するのか僕にはわからないが、大事おおごとにならないよう手助けすることは必要だ。

「そうか。じゃあとりあえずどこか座って。軽い治療ならしてもいいって言われてるから」

「本当? ありがとう、三滝」

 人がいないなら、とカーテンで仕切られたベッドに座った松川の横に僕も座り、先生のところから拝借した湿布を当て、包帯を巻く。そこまでひどくはなかったが、確かにほんの少し、熱を持っている気がした。

「さすが看護科志望、うまいね。ありがとう」

 そうやってはにかむ松川の顔が予想以上に近くにあって、戸惑う。彼女は唯一と言ってもいい、僕の女友達なので、少し緊張してしまう。彼女からは少し、甘い香りがした。苺の香りのリップクリームを愛用していた気がするから、それか。

 彼女のことを意識していないといったら嘘になる。肩甲骨で切りそろえられた、陽に当たると焦げ茶に見える黒髪。普段は真面目で真っ直ぐで、でもたまにふにゃっと優しくなる瞳。柔らかそうな淡い赤の唇。陸上部でみせる走力、体力を秘めているとは思えない平均以下の背。どれも彼女の魅力としては十分だった。彼女に惹かれている人は僕だけではないはずだ。

 実は僕は委員会に関わらないところで彼女をまっすぐ見れたことがない。保健室は数少ない、僕が彼女をちゃんと見られる場所だった。

「松川も志望は看護じゃなかった?」

 平静を装って言葉を返す。

「うん、そう。といっても私は三滝みたいに、東京の国立受けられるほど成績よくないからさ、地元の公立だけど」

「僕も結構ギリギリだけどね、志望してるレベルは。松川だって、そこまで悪いってわけじゃないと思うけど」

 少なくとも、文系科目においては松川の方が優秀だ。

「んー、そうだろうけど。本当のこと言うと、あまり家から出たくないんだよね。家事とか妹に任せるにはまだ少し不安だし。だから地元」

「ああ、そういう」

 納得した。両親共働きでいつも5つ下の妹と手分けして家事をしている話は前に聞いたことがある。それでか。

 そう、と答えながら松川が何の考えもなしに立ち上がる。はっと僕が気づくのと、彼女の顔が痛みで歪むのはほぼ同時だった。

「った……!」

「……っぶない!」

 反射的に僕は立ち上がってバランスを崩した松川を抱きしめるようにして支えた。

 が、その瞬間。突然、世界が回った。

 まずい。

「……っ!」

「きゃ……っ」

 耳元で小さな悲鳴があがる。しかし僕の体は耐えきれず、松川を抱いたまま先程まで座っていたベッドに倒れこんだ。ベッドとはいえ衝撃はある。一気に息がつまった。

「ごめん三滝、大丈夫!?」

「……っ悪い、目眩……」

 世界がゆっくりと回る。酔ったような感覚に陥り、気持ち悪い。目を瞑る。松川を支えた手には力が入らなくなっていた。

 中学の頃からなぜか時々家で目眩を起こしていた僕は、高2の秋以降、学校でもおこすようになった。委員長になって保健室に入り浸れば、いざという時もなんとかなる。それが、もう1つの理由だった。

 彼女が僕の腕からゆっくりと抜け出すのが感じられた。温もりが消えた手のひらに、寂しさを覚える。しかしその手をそっと、彼女の手が包んだ。

「治るまでこうしてるから……大丈夫だよ、三滝」

 そうやって静かに温かく隣にいてくれる。それがすごく、ありがたかった。



「悪いな、そっちが治療に来たのに、僕が崩してしまって」

 目眩は治まって気持ち悪さも消えた。僕はゆっくり起き上がりながら話しかけた。本当に申し訳ない。だが、彼女はううん、と小さく首を振った。

「支えてくれたんだよね、さっき。少し緊張したよ。でも嬉しかった」

 はにかむ彼女の頬は淡く染まっていて。僕はそんな彼女を真っ直ぐ見られなくて。

「ごめんな、抱きしめるみたいになって」

 咄嗟に視線を床にずらし、そう呟くことしかできなかった。でも。

「ううん……三滝のは、その、えっと……」

 少し躊躇ったのち、彼女が僕の耳元でそっと囁いた。


「三滝からのなら……嬉しい、から」


 その甘い吐息に息が止まった。微かにブラウスから透けて見える肌色に、彼女を今度こそ強く抱きしめそうになる。でも。そう抑えた矢先だった。

 僕の首に、柔らかなものが触れた。

「!! ま、つか、わ」

「――っ! ご、ごめん、三滝! その、えと」

 彼女が慌てて僕から離れる。必死で俯いているが、僅かに捉えられる松川の顔は僕の首元に微かに移った香りと同じ、苺のようだった。

 ――ああ、もう、僕は。抑えきれない。

 頑なに顔を上げない松川の体を少し強引に引き寄せた。

「――松川のせいだからな」

 そう耳元で囁き、僕も彼女の首元にそっと唇を落とした。

 驚いたのか痙攣のように一瞬体を震わせた彼女は、僕が首元から離れると、ゆっくりと顔を上げた。

「……三滝、その、ごめん」

 罪悪感と不安を抱いた瞳。それを打ち消そうと、僕は彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。彼女と出会ってから今までで1番、穏やかな笑顔で。

「いいんだよ、松川。だって――」

 再び僕は彼女をぎゅっと抱きしめ、耳元で囁いた。


「君の気持ちが、聞かなくともわかったから」


 そして僕は彼女を抱く腕の力を弱める。そこから、彼女の少し潤んだ目を真っ直ぐに見つめて――。



 初めてのキスは、苺のように甘く、どこまでも深く抜け出せないもので。

 その甘さに僕らは囚われてしまった。

 好きだとはお互い口にしなかったけれども、確かに通じ合っていた。

 そしてきっといつまでもこの甘い呪縛に囚われて、僕らは共にい続けるのだ。



*End*

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