五章 鯨爆弾
第十七補給海堡。水菜達のいる島は前がほとんど見えなくなるほどの、分厚いスコールのカーテンに包まれていた。薄い板にヤシの葉をふいただけの、詰め所の粗末な屋根へ雨滴が激しく打ちつける。水菜は数匹のヒラメが入ったクーラーボックスを肩から下ろし、窓外の雨を見つめた。
「いや、すげぇ雨だな、こら。恵みの雨とはいえ、ここまで降ると恐ろしいもんがあるな。」
外から駆け入って来たのは笹木だ。ずぶ濡れになったシャツを脱ぐと、その場で固く絞る。
「笹木さん、タオル。」
水菜はそう言って、詰め所に干されてあったぼろぼろのタオルを笹木に渡した。
「お。すまねぇ、垂木。」
タオルというより、もはや雑巾と呼んだ方が妥当なそれで、笹木は手早く上半身を拭った。
「貯水タンクの蓋を開けに行っただけで、これだ。まぁ、生水は貴重だからな。文句ばかり言ってられんが・・。釣れたか?」
笹木はクーラーボックスの中をのぞきこんだ。
「ひー、ふー、みー・・。ちっと足らんか。昨日釣った分も合わせりゃどうにかなるだろうが。」
「すいません、あんまり釣れなくて・・。」
「いや、垂木を責めてるわけじゃねぇって。気にすんな。」
笹木は、日に焼けた顔に笑みを浮かべて水菜の肩をぽんと叩いた。
このところ、物資の補給が途絶えがちだった。警戒網を維持する艦艇に対する燃料や水、食料はおろか、この島に駐屯する水菜達の部隊維持に支障が出始めるほど、外部からの物資供給が減少していた。
本部からの通達は、ブッシフソク、ゲンチチョウタツサレタシ、という身も蓋もない内容で、水菜達は釣った魚を食べ、雨水を再利用するというサバイバル状態だ。もはや戦争をやるどころの話ではなかった。
水菜は笹木に曖昧な笑みを返すと、再びガラスの入っていない窓の外を見つめた。蜘蛛の白糸(しらいと)が無数に空から注いでいるかのようだった。
「垂木。最近、元気がないみたいだな。腹の減り過ぎか?」
「いえ・・。そこまで食べられてないわけじゃないです。ちょっと・・。」
「ふぅん? 何があった。」
DIY感の色濃く漂う木製の椅子を水菜に勧めながら、笹木は外に錫のコップを二つ突き出す。ものの数秒でコップに水がたまり、ひとつを水菜に渡した。
「水だけとは味気ないが、ま、新鮮ちゃ新鮮だな。」
「ありがとうございます。」
「それで?」
「ええ、実はセイゲンのことで・・。」
「鯨がどうした。病気にでもなったか。」
「いえ、病気ではないんですけれど、口をきいてくれなくなって・・・。」
「口をきいてくれない? 喧嘩でもしたのか?」
「喧嘩、程度だったらまだいいんですけどね・・。笹木さん、セイゲンやニライ達に、逃走を防ぐための爆薬が仕掛けられてるって、知ってます?」
笹木の顔が曇った。
「ああ、知ってるよ。かわいそうな話だが、拿捕されたときの影響を考えて設置されたってやつだな。」
「そのこと、セイゲンに知られてしまったんです。しかも、私がそれを隠していたということも・・・。」
「ぐあ〜。そうかぁ。そりゃ確かに、喧嘩の方がまだマシだったかも知れねぇなぁ。知られちまったか。」
「はい・・・。それ以来、会話はすべて一方通行で・・。」
「そらなぁ、奴らにしてみれば、俺達の不信と傲慢の象徴みたいなモノを、頭の中に載せられてるようなもんだからな。」
「せっかく、セイゲンとは分かり合えてきたと思っていたのに、冷たい壁ができてしまったみたいで、辛くて・・・。」
「そうだったか・・。今さら、俺達のことを信じてくれと言ったところで、それは無理、ってなっちまうもんなぁ。そら、困ったなぁ。」
「ええ・・・。」
「でも、垂木、お前、奴が逃げ出したり、敵につかまったとき、本当にやるのか?」
「え?」
「起爆させるのかってことだよ。」
「・・・たぶん、やりません。やりませんし、できませんよ、そんなこと。」
「だったら、その気持ちを素直に伝えるしか、ねぇんじゃないか。垂木の本心がどこまで通じるかは分からねぇが、奴らの頭に爆弾しかけたのは組織の判断であって、お前の判断じゃない。そうだろ。」
「それは、もちろんそうですけど・・。でも、だからといってセイゲンは分かってくれるでしょうか。」
「鯨と人間、という二項対立の図式にとらわれると無理があるかも知れないが、あくまでも、お前とセイゲンの関係がどうか、ってことが重要だと思うぞ、垂木。」
「私とセイゲンの・・・。」
「組織といったって、全てが同じ色に染まってるわけじゃねぇし、あくまでも個人としての関係で考えるところに、解決の糸口があるような気がするぜ。国境線を挟んで敵同士にあった監視兵が、戦後、無茶苦茶仲良くなったって話もある。国や立場ってのは確かにあるが、他者とのつながりの要はそこじゃない。お互いの存在を信頼し、認め合えるかどうかが結局すべてだと思うぜ。っと、なんだか、説教くさくなっちまったが、俺の思うのはそんなところだ。」
「笹木さん・・・。ありがとうございます。少し、楽になりました。」
「ははっ。こんな俺でも、多少は役に立ったか。やまない雨はないんだ。前向きにな。」
「はい。」
笹木は、日焼けした顔にしわを寄せて、嬉しそうに笑った。
「ところで垂木、新兵器の噂、聞いてるか?」
「新兵器、ですか。ちょくちょく耳にしますけど、それ、本当なんですかね。」
「まぁ、噂ってのは事実っぽく見えて事実でない、というときの方がよく広まるからな。真偽は知らんが、戦況を一発で覆すほどの威力らしいが。」
「開発が事実だとして、いつ、どこで使うつもりなんでしょうね。今さら、敵の戦艦を一隻や二隻沈めたところで、どうにかなるものなんでしょうか。」
「うーん。ま、どうにもならんな。」
「ですよね。」
はははっ、と二人で笑ってから、笑いは錆びたため息に変わった。
これ以上戦って、いったい誰が得をするというのだろうか。そもそも、この戦争に大義などなかったし、末端の人間は結局、上層の者がどういう方針でか知らないが決定した内容に、従っているだけだった。それは軍民問わず同じことで、世論が戦争に傾いていた以上、責任は全員にあると言われれば、確かにそうかも知れない。だが、ここにきてもはや、意義も大義も見出せず疲弊して行く自分たちの姿は、さながら亡者の群れのようだった。自分がなぜ空腹になったのかを知らず、どうすれば空腹を解決できるかも分からない。ただ、どこの誰とも分からない先頭の者に付き従って、延々と列をなし歩いているだけだ。
「それ」が来たのはその数日後、水菜達には何の前触れもなくやってきた。
緊急の招集をかけられて簡易の司令室に集まった顔ぶれを見ながら、腰水は口を開いた。
「本部から作戦の通達があった。実施は八日後。敵艦隊主力に致命的な打撃を与えることを旨とする。」
川原が愁眉(しゅうび)を作って腰水に言った。
「致命的な打撃って、どうするのよ? そんな戦力、もう残ってないんじゃないの。」
「残存艦隊は陽動に出る。攻撃の要(かなめ)が我々に任された。」
「要って、魚雷数本でいったい何をしろって言うの。」
撃ったまま補充されない手持ち魚雷はすでに、六本しかない。しかも、うち一本は推進機の不調で修理の目処もたっていない。修理用の交換部品にすら事欠いているのだ。
「昨夜届いたやつを使う。」
「昨夜って、久々に物資が届いたと思ったら、厳重に封が(シール)されたばかでかいパッケージが一個でしょ。何なの、あれ。」
通常の食料や燃料、水、魚雷等の補給物資と思い、久々に肉を食べられるものと期待した兵達が嬉々として搬入作業を開始しようとしたのだが、荷に衛兵がついて、近づけもしない。一見して学者のような者達が出入りし何かをやっているようなのだが、水菜達には何をやっているのか見当もつかなかった。
「・・・新規に開発された重爆雷だ。」
重爆雷・・? 聞き慣れない用語に、ざわ、とその場がさざめく。腰水はテーブルに広げた海図を指しながら、そのざわめきを無視して続けた。
「稼働可能な残存艦隊の全力をもって敵の補給港を叩く。動いた敵敵艦隊へ我々が気づかれないよう接近し、その中心部へ到達。重爆雷を起動し殲滅する。」
それを聞いた水菜は、嫌な予感が脳裏をよぎった。背中を冷たい汗がつたう。
「どうやって・・・近づくんでしょうか。」
口の中が渇いて、うまく言葉が出てこない。
「セイゲンを使う。深海域を航行し、艦隊直下に到達後、浮上する。この任務はセイゲン以外にできない。」
「そんな・・! 敵のど真ん中に浮上なんて、危険すぎます!」
「・・・・・。」
腰水は水菜を見つめると、沈黙した。ほんの数秒見つめただけだったが、水菜にはその沈黙が含む裏が読めない。
腰水は水菜を見据えたまま続けた。
「・・陽動部隊がセイゲンの離脱までフォローする。心配するな。」
「・・・はい。」
水菜はうなずいたが、腰水の沈黙が腑に落ちない。腰水は水菜を見つめながら、何を考えていたのだろうか。
「殲滅っていうけど。」
川原がいぶかしそうに口を開いた。
「たかが爆雷一個で、そんなこと、できるの?」
「・・・本部も具体的な威力については未知数だと言ってきている。事前実験なしの実戦投入だ。どの程度の効果が出るのか正直、分からない。発生する波で敵艦を沈没に至らしめる、という話だ。」
「波で、ねぇ。」
その場にいる全員の気持ちを、川原は代弁しているようなものだった。いくら新兵器といえど、一発で艦隊がダメージを受けるものなのだろうか。艦隊戦ともなれば、数千発の砲弾、爆雷を投入し、ようやく数隻が沈むか沈まないかという消費弾数対効果が一般的だ。艦隊中央付近で爆雷を起動する、それをこの作戦の主目的としている本部の意図が、計り知れなかった。あるいは、終戦後の講和を少しでも有利に進めるため、最後の一矢を報いるというあがきの一つなのだろうか。これで戦況が変わることは、恐らくないだろうという諦めに似た空気が、その場を支配していた。
作戦の詳細を詰め、解散となったところで、腰水は水菜を呼び止めた。
「垂木。」
「はい?」
「セイゲンのコンディションはどうだ。少し、話がある。」
話がある・・? 腰水は普段、こういうものの言い方をしない。結論からその場で言うか、命令を出すかのどちらかだ。部屋を出て行く腰水の後に続きながら、水菜は首をかしげた。
日は落ちかかり、雲間から帯状に落ちる薄明光線、ヤコブの梯子が美しいカーテンを形作っていた。
入り江の木製桟橋を歩きながら、腰水は水菜を見ないまま言った。
「今回の作戦、セイゲンを単独で出す。」
「え・・? 単独って、他の艦のフォローがないんですか?」
「そういう意味での単独ではない。セイゲンだけで、お前は行かないということだ。」
「私がいかない・・・?」
「そうだ。」
「なぜです?」
作戦説明のときに、腰水が沈黙したその理由を聞いている気がして、水菜は怖くなった。
もともと、水菜がセイゲンに同行するのは、現地での突発的な状況変化に伴う判断の必要性が建前としてあった。だが、本来の目的はセイゲンの逃走防止という、監視役としての役目がより重視されているのだ。なのに、セイゲンを単独で行かせる、というのはどういうことだろう。ニライの逃亡未遂の件があって、なおのこと監視が必要との認識を、腰水は持っていないのだろうか。
腰水は、感情の起伏に乏しい平坦な声のまま言った。
「今回の作戦、生還する見込みはない。」
「・・・え?」
「新兵器の威力について未知数と言ったが、理論上、直径二キロにおよぶ大火球が爆発の瞬間に発現する。海中では若干威力が減衰するとはいえ、発生した熱と衝撃波は海水の中と外を問わず、周囲を巻き込みながら爆散する。爆雷を起動したセイゲンに生き残る手だてはない。」
「ちょ・・っと、何、言ってるんですか、腰水さん。言ってることの意味が分かりません。」
「セイゲンは死ぬ、と言っているんだ。」
「そうじゃなくて! なぜそんな作戦計画になったのかって話です! それじゃ、セイゲンは自爆しに行くようなものじゃないですか! そんなの、作戦としてすでに破綻してるじゃないですか。味方の死ぬことが織り込み済みだなんて。」
「古今、味方の犠牲を前提とした軍事行動は数多く存在する。そもそも、敵と戦うという行為自体が、犠牲を前提にした行動だ。今さら騒ぐことじゃない。」
「騒ぐことじゃないって、どうにかしてますよ、腰水さんは! セイゲンは鯨とはいえ、私達と共に戦った味方じゃないですか。それを、爆弾を抱えて死にに行けだなんて・・・!」
水菜は、怒りのあまりその後の言葉が続かない。
「垂木。どこかで、人間と鯨、その線引きをしなければならない。だから、お前は残れと言っている。」
「私は人間だから死なせない。けれど、セイゲンは鯨だから死んでもいい、ですか? 何です、それ? 傲慢ですよ・・・そんなの。」
「・・垂木。お前には、死んでほしくない。」
はっ、として、水菜は腰水の顔を見た。まっすぐに水菜を見つめる目は、とても真剣だった。
「セイゲンに申し訳ないと思っていないわけじゃない。俺だって、無茶は百も承知だ。だが、鯨を運用する究極の目的の一つは、自走の難しい重兵器を敵陣まで運び、そこで威力展開することだ。」
「・・・こういう使い方を、そもそも想定していた、ということでしょうか。」
「そうだ。」
水菜の顔は蒼白だった。声がかすれてうまく喋れなかったが、それでも、口を開いて言った。
「・・・・腰水さんの妹さんの話。聞きました。鯨の研究に集中し始めた経緯も。それが・・・、その結論がこれですか。セイゲンは、腰水さんにとっても部下でしょう。部下に死を命じるなんて、馬鹿げてます。こんな命令をしようという発想が存在すること自体、狂気以外のなにものでもないじゃないですか。」
腰水の顔が、ぐっ、と歪んだ。そんな腰水の表情を見るのは、初めてだった。
「だったら、どうしろって言うんだ。俺達は結局、軍という、国という組織の歯車に過ぎないんだ。俺達の研究も、ここまで乗ってきた船も、お前が着ている服も、備品も、何もかも、軍から支給されたものだ。軍の予算で動いているものだ。軍という組織、器があって初めて成立する存在なんだよ、俺達は。歯車の一方が回れば、その回転を止めることはできない。自分の考えや意志など、歯車にとって致命的な不純物に等しい。一つの大きな組織の中で、部品(パーツ)として動くことをお前も受け入れたはずだ。士官学校の門をくぐった瞬間からな。戦争が続く以上、俺達は戦わなくてはならない。例え、理不尽な命令に従ってでもだ。」
腰水は一気にそう言うと、大きく息を吐いた。魂ごと抜け出そうなほどに深い、ため息だった。
「・・・歯車だって、止まることはあるんです。すべての歯がそろっていない歯車だってある。ひとつひとつ、形の違う歯車が、それぞれ足りない部分を補い合いながら、大きな力を発揮するんです。命令だから、どんな内容にでも盲従するというのは、間違っていると思います。」
水菜は腰水を睨んだ。腰水の苦渋に満ちた顔は、やがていつもの無表情に変わった。
「セイゲンによる新兵器の運用に反対する、と言うのだな。」
「はい。」
「・・・垂木少尉。お前は軍の任務遂行に支障をきたす要因と判断する。セイゲンの出航を妨害する、重大な懸念が生じている。本日、同時刻をもって、お前を拘束する。」
腰水は、ホルスターから拳銃を取り出すと、銃口をゆっくり水菜に向けた。
「それが、あなたの生き方ですか。私は、恥ずかしいと思います。」
水菜は、銃口に目もくれず腰水を見た。腰水を口を固く結び、無言のまま、歩け、と銃口を振った。
「このやり方が、本当に正しいと思っているんですか、腰水さん。」
「俺はこうする以外の方法を知らない。」
「・・残念です。腰水さんには失望しました。」
水菜の視界が涙でにじみ、唇がふるえた。悔しいという思いもあったが、何より、腰水への激しい失望が抑えきれない悲しみとなって、水菜を襲ったのだ。ここで涙を見せるわけにはいかない。そう思いながらも、水菜の視界は霞むばかりだ。無口で、無愛想で、何を考えているのかよく分からないけれど、それでも、必要とあらば命令をも無視するような芯の太さを腰水に感じたこともあったが、それは思い違いだったのだろうか。
言われるままに行動するだけだなんて。
「腰水さんの、馬鹿たれ・・・。」
つぶやく水菜の声は、腰水に届いていない。
堅い木の床に座り続ける苦痛も、水菜の落胆を紛らわせるには至らない。木製の太い枝を等間隔にはめこんだ独房の入り口から、星空が見えていた。
水菜が房に入れられて七日。新兵器と共に島にやってきた兵士の数人が衛兵となって独房の周囲を警戒している。南国とはいえ、夜はそれなりに冷え込む。周囲の目を盗んで笹木が差し入れてくれた毛布にくるまり、水菜は空を見上げた。
セイゲンに、何と言って詫びればいいのか分からない。自分達の都合で捉え、訓練し、戦場へ送り出して、最後には死に至る作戦へと誘う。本人には何も知らせないままだ。こんなことがあっていいのか、と水菜はもう何度目になるか分からない自問を繰り返した。自らが生き残るためには、ときに他者を押し退けなければならない、という理屈は自然界にあっても、人間社会にあっても必然的に生まれる論理だ。押し退けようという意識がなくたって、少ないパイを求める者が複数いれば、競争が生まれる。就職にしたって、餌となる草食動物にしたって、誰もへ平等に行き渡る理想は、あくまでも理想であって、現実には必ず、あぶれる者がいる。セイゲンは、結局、生存競争の中であぶれた者なのだろうか。人間世界のごたごたに巻き込まれたかたちではあるけれど、大きく見れば、人間を含む生命としての営みの延長上にある闘争の、ある意味敗者なのかも知れない。
けれど、セイゲンからしてみれば、大局的に見て、という視点は何の意味もなさないだろう。つかまって、利用されて、何も知らされないまま殺される。それがセイゲンにとってのすべてだ。人間社会と関わった結果のすべてがそれだ。
水菜は恐ろしかった。セイゲンが死の間際、人を、腰水を、そして何より水菜を呪いながら断末魔の叫びを上げる、その姿を想像しただけで、身体が震えた。セイゲンに嫌われるのが怖いのではない。人生において拭いきれない罪を、その瞬間、負うことになるであろう、それこが怖かった。セイゲンを、友人を見捨て、死に至らしめるという経緯を、罪と呼ばずして何と呼べばいいのか、水菜には分からなかった。
これも、何度目の試みかもう数えきれないが、水菜は格子をゆすってみた。それは金属ではなく、木材のみを使った牢なわけだが、一ミリの隙間もなく床板にはまる木格子は、これを作成した者の技量の高さを代弁するかのように、ぴくりとも動かない。
「くそっ・・!」
水菜は悪態をつきながら、自分の無力を呪った。こうする以外のやり方を知らないと言った腰水を憎んだ。セイゲンのことを思うと、胸が張り裂けるほどの悲しみが襲ってくる。
怒るべきなのか、悲しむべきなのか、それすらも分からなくなりかけたとき、誰かが近づいてくる気配を感じた。食事の配給時間はとうに過ぎている。衛兵の見回りだろうか。
「・・・・垂木、垂木ちゃん・・!」
暗闇の中から、声が聞こえてきた。
「川原さん!」
「しっ! 静かに。」
川原がほふく前進で、木牢の近くのしげみから出て近づいてくる。格子のところまでたどり着くと、川原は眉をひそめた。
「こんなところに押し込めるなんて・・。腰水の野郎・・・!」
「川原さん。どうしたんです?」
水菜は押し殺した声で言った。
「垂木ちゃん。無事? 怪我とかしてない?」
「それは大丈夫ですけれど・・。川原さん、こんなところに来たら、つかまっちゃいますよ。来てくれたのは嬉しいですけど、早く離れてください。」
「離れるわよ。垂木ちゃんと一緒にね。」
「え?」
川原は胸の間から鍵を引き出すと、牢にかかった錠前を開けた。がちん、という予想外に大きな音が出たものだから、川原は慌てて周囲を見回す。
「・・気づかれていないみたいね。行くわよ、垂木ちゃん。」
「あ、はい。あの、その鍵・・・?」
「早く! 時間がない。訳は移動しながら話すわ。」
「は、はい!」
水菜はよろめきながら立ち上がる。牢の中で座りっぱなしだったものだから、足にうまく力が入らなかったが、川原の肩を借りて必死に走った。
独房の裏手に回り、島の密林帯に入ってしばらく行くと、川原はようやく固い表情を崩して言った。
「心配したのよ。中で変なこととかされなかった?」
「はい。大丈夫です。」
「よかった〜。」
川原は、ぎゅっ、と水菜を抱きしめた。この人、ちょっと泣いているのかも知れない、と水菜は思った。
「腰水君に垂木ちゃんが連行されたって聞いたときは、本当に耳を疑ったわよ。あの馬鹿、何をとち狂ったんだってね。垂木ちゃん、セイゲンと新兵器を使った作戦に、反対したらしいわね。」
「ええ。川原さんも作戦のこと、ご存知なんですか。」
「知ってるわよ。そんなことさせるために、あの子達がいるんじゃないわ。って、まぁ、腰水君もそこは分かってるみたいだけど。」
「分かってるって・・・、分かっているんですか、あの人は。」
川原に対して怒るべきでないのは理解していたが、それでも水菜は思わず川原にくってかかった。水菜を投獄しておいて、腰水がいったいなにを分かっていると言うのだろう。
「落ち着いて垂木ちゃん。あなたを牢から出すよう仕向けたのは、腰水君なのよ。」
「え・・?」
「私んとこに来てさ、セイゲンの様子はどうだとか何だとか言いながら、これ見よがしに鍵を落として行っちゃったわ。ほんとは垂木ちゃんのこと、すごく心配してるくせにさ、言わないのよ、そのことを。しかも、自分で垂木ちゃんを押し込めておきながら、鍵を落とす、なんてやり方で垂木ちゃんが出ることを黙認するわけよ。まったく、まどろっこしい男だわ。新兵器と一緒にやって来た本部の連中の目もあるし、立場上、そうするしかなかったのかも知れないけど、素直じゃないわ、まったく。」
「そう・・だったんですか。」
ある意味、水菜を拘束することで、研究所メンバーは作戦方針に従うという意思表示を、腰水は示したのかも知れない。スケープゴート(生け贄の羊)もはなはだしいが、セイゲンの死は免れないという前提が研究所側の人間に知れ渡ったとき、作戦への反対は避けられなかっただろう。あえて水菜を拘束し、研究所の総意として作戦を支持する姿勢を見せた・・・。
しかし、裏で水菜を逃がしたということは、腰水の本意は別のところにある。
「それでね、垂木ちゃん・・・。」
川原が言いかけたところへ、水菜が言った。
「分かっています。私、セイゲンと一緒に行きます。」
「垂木ちゃん、そうじゃないのよ。私達の計画の目的は、出航前にセイゲンの頭部に埋め込まれた起爆装置を外し、セイゲンを逃がすことよ。垂木ちゃんにはその手伝いをしてほしいの。」
「でも、そんな時間、もうないですよ。」
水菜は東の空を指して言った。水平線の下にまだ隠れてはいるものの、昇りかけた太陽が空を白く照らし始めていた。作戦の開始時刻まであとわずかだ。出航前にセイゲンへ処置をする時間はなかった。
「セイゲンと一緒に私も出れば、洋上で装置を外す時間はまだあります。」
「垂木ちゃん・・・。」
川原は、くしゃ、と垂木の頭をなでた。
「ふふん。そうこなくちゃね。女は度胸よ。私も行くわ。」
「でも・・。」
「人手は多い方がいいでしょ。時間がないわ。急ぎましょ。」
「はい!」
水菜と川原は、深く生い茂った木々の間を縫うように走り抜けると、入り江のそばのヤシに隠れた。セイゲンの背には爆雷の搭載が済んでおり、すでに出航間近という状態だ。
「けっこう警戒されてるわね・・・。私達も、ずいぶん信頼されていないものね。」
桟橋に続く浜辺には、打ち上げられた魚のような無表情を張り付けた本部の兵達が、銃を抱えて周囲を警戒している。
「どうします? それと、手術道具も必要ですし・・。」
「それは大丈夫よ。一式、持って来てあるから。」
川原はそう言って、背中のバックパックを下ろすと、セイゲンとの会話用インカムの一つを水菜に渡した。
「ありがとうございます。それ、私が持ちます。」
「そう?」
「はい。でも、セイゲンに近づけないんじゃ・・・。」
「そっちも多分、大丈夫。」
「え?」
何が大丈夫なのだろうか。水菜が首をかしげた途端、浜の奥の方にある倉庫から、爆発音が響いた。警戒していた兵士達は、敵に潜入でもされたのかと、慌てて倉庫に向かう。
「おほ。笹木のおやじ、派手にやったわね。」
「笹木さんが?」
「セイゲンに近づけるようにって、陽動を頼んでたんだけど、あの分だと魚雷の一本を爆破した感じね。行きましょ、垂木ちゃん。今のうちよ。」
「はい!」
水菜と川原は、ヤシの陰から飛び出すと、浜辺を駆け抜けた。セイゲンを先導する駆逐艦は、すでに動き始めている。潜入した敵に出航を妨害されまいと、予定を早めたのだろう。
「急いで、垂木ちゃん!」
足が砂にとられる。急ごうとあせる気持ちをあざわらうかのように、足へこめた力を柔らかい砂が吸収してしまう。
早く、早くと、心臓の鼓動に合わせて水菜の心が叫んでいる。
川原と水菜は全力で桟橋を走ると、セイゲンの背中へ飛び移った。搭載されている爆雷には、メンテナンス用の小さなハッチがついていて、そこから中に入れる。
「中に隠れるのよ! 早く!」
川原は、開けたハッチへ強引に水菜を押し込む。川原も続いて入ろうとしたところで、水菜は身体をひねり振り向いた。
「ごめん、川原さん!」
言いながら、水菜は中から川原の腰の辺りを押し出した。
「ちょ・・!」
川原の手が空を掻き、あっけにとられた表情のまま、川原は背中から海に落ちた。
海にあがった水しぶきを見てから、ぎゅっと目をつむると、水菜はハッチの丸扉を閉める。川原が一緒に来てくれるというその優しさを裏切ったかたちになり、水菜の心は痛んだが、それ以上に、川原を巻き込みたくはなかった。これは、セイゲンと自分で決着をつけるべき問題のような気がしていたし、無事に戻れる保証など何もないこの航海に、川原を連れて行くことはできなかった。
いや、自分勝手なことと自己嫌悪を感じながらも、本当は、川原に邪魔をされたくなかったのかも知れない。川原を巻き込みたくないというのは建前としての感情であって、セイゲンと自分の問題にひとつの結論を見出せる、これが最後のチャンスだという思いが強かった。そこに、セイゲンと自分以外の他者が介在すべきではない。というより、介在してほしくなかった。稚拙な意地だと思いながらも、水菜は川原の優しさを拒絶しただけの意味はあると、自分に言い聞かせた。
格納容器の中は真っ暗で、セイゲンが尾びれを上下し泳ぐのに合わせ、うねるように揺れている。波と風の音が壁を伝わってかすかに伝わってくる以外、しずかに揺れるそこはさながら、何かの胎内にいるかのようだ。鯨の胎内にいる赤ん坊も、こんな揺れを経験しながら、外界に出るのを待っているのだろうか。
膝を抱えたまま丸くなっていた水菜は、しばらくそのまま動かないでいた。ふと、気がつくと、波の音が聞こえる方向が違っている。別の潮の流れに乗ったのだろう。そっとハッチを開くと、細く開けた隙間から外の様子をうかがった。
「・・・先導する艦はいないみたいね。」
敵の警戒水域に近づいているのだろう。先行していた駆逐艦はその姿を消し、セイゲン一人が、広い海の上で黒い点みたいな背中を見せながら泳いでいる。
水菜はハッチから外に出ると、セイゲンの背中に手を置いた。
「セイゲン、聞こえる? 私よ。」
「・・・・・・。」
「こんなことになっちゃって、その・・・何て言ったらいいのか分からないけれど、ごめん。」
「・・・・・・。」
インカムを通じて水菜の言葉はセイゲンに聞こえているはずだったが、セイゲンはひと言も喋らなかった。
「今さら謝ってもって、感じだよね・・・。散々振り回した挙げ句、こんな作戦に参加を強制するなんて。」
水菜がそこまで言っても、セイゲンは無言のままだった。
「セイゲン。君の頭に埋められてる炸薬の起動装置、外したいの。お願い、セイゲン。止まって。」
セイゲンは、うねる海上を泳ぎ続けた。
水菜はセイゲンとの間にできてしまった壁の高さを、あらためて感じた。まるで、インカムを通さずセイゲンに語りかけているみたいだ。こちらの言葉は通じず、セイゲンの考えていることも理解できない。果てしなく深い海溝みたいな隔たりが、セイゲンとの間にある。
「・・・セイゲン、この作戦のこと、どこまで聞いてる? 最後まで遂行すると、助からないんだよ。爆雷の爆発に巻き込まれて、死んじゃうって・・・。」
セイゲンが、わずかに身じろぎするのを水菜は感じた。どういう作戦説明を受けているか水菜には分からなかったが、セイゲンの死が前提となっているところまでは、聞いていないのだろう。
「ごめんね、セイゲン・・。ごめん。」
水菜はセイゲンの背に頬を押し付けると、泣いた。
自分達の身勝手さが、セイゲンという鯨へ凝縮して降り掛かっていることに、水菜は耐えられなかった。本来、こんなところにいる必要も、爆雷を背負って作戦に赴く必要もない人格が、意志とは無関係に従わされている。
「代われるものなら、代わってあげたい。でも、セイゲンの代わりなんて、私にはつとまらない。せめて・・・。」
自由にしてあげたい。水菜がつぶやいたとき、セイゲンの背中から感じていた動きが止まった。
「セイゲン・・・。」
セイゲンが泳ぐのをやめたのだ。相変わらず無言だったが、それは、セイゲンが水菜の願いを受け入れた、返事の代わりであるようにも思えた。
「装置自体は、そんなに深い所へ埋め込まれていないはず。局部麻酔でいけると思う。」
「・・・・・。」
「やってみるね、セイゲン!」
水菜はぐい、と服の袖で涙をふくと、手術道具をハッチの中から引き出した。道具の準備をしながら、水菜の心には静かに燃える、闘志のようなものが湧いてきた。
ここで、こんなところでセイゲンを死なせるわけにはいかない。作戦は失敗に終わるだろう。だが、水菜はそんなこと、どうだっていいと思っていた。間違っているものは間違っている。腰水は動き出した歯車を止めることはできないと言ったが、歯車にだって、軸から外れる自由はある。水菜はセイゲンという歯車を、そのがっちりとはまった軸から、引き抜こうとしている。人がどんなにその行動を正しいとか、正しくないとか言っても、それは関係ないと思っていた。水菜にとって、自分がここで正しいと思える唯一のことは、セイゲンを死なせないこと、ただそれだけだった。
幸い空は穏やかで、大きくうねるように上下する波以外、風もほとんどなかった。
セイゲンの頭を目で追って行くと、比較的新しい手術痕が残っている。水菜はその付近へシリンダーのような注射器を刺した。
「ちょっと痛いかも知れないけれど、我慢してね。」
麻酔が効いてくるまでの間、水菜は焦る気持ちを必死に抑えていた。セイゲンの行動に不審な点が見えれば本部の連中が確認しに引き返してくるかも知れなかったし、そもそも、洋上に浮かびっぱなしでは、敵に発見される可能性が高くなる。
落ち着け、落ち着け、と水菜は自分に言い聞かせた。焦って重要な器官を傷つけては元も子もない。
時計を確認し、麻酔が十分に効いた頃合いを見て、水菜はメス、というより、鉈に近い刃物でセイゲンの古傷を一気に切り開いた。分厚い皮下脂肪が裂け、みるみる血が出てくる。一度術式が始まってしまうと、風の音も、波音も、いっさいが聞こえなくなるほど、水菜は集中した。
「!」
血管を避けながら、脂肪を押し開いて骨格に近づいたとき、水菜は思わず声を上げそうになった。
起爆装置と炸薬は骨格内、つまり骨の向こう側に設置されているものとばかり思っていたのに、頭骨の外側へ装置が露出しているのだ。この状態が示していることは、ひとつ。セイゲンに炸薬を埋め込んだ人間が、いつでもそれを取り外せるようにと、あえてその位置を選んだのだ。実際にセイゲンへ炸薬を仕掛けたのが誰なのか、水菜は知らなかったが、命令上、そうするしかなかったその人の、苦渋の判断がそこに見て取れた。癒着を防ぐ被膜で装置一式が覆われているのも、証跡の一つだった。
「きっと、前に手術をした人も、いつかこれを取り外す日が来るって、信じてたんだ・・・。」
水菜は起爆装置と炸薬を慎重に持ち上げると、自分が潜んでいたハッチの中へそっと置いた。高性能炸薬だ。重量はたいしてないが、生物の頭部組織を骨ごと破壊するには十分な威力があるだろう。
水菜は額の汗を袖でぬぐいながら、ほっ、と一息ついた。
「セイゲン、うまく取り外せたわ。あとは縫合するだけだから、もうちょっと我慢して。」
水菜が縫合の準備に取りかかると、セイゲンの背中から、その身体が身じろぎするのを感じた。
痛みがあったのだろうか。いや、麻酔はまだ十分に効いているはずだ。
「セイゲン、まだ動いちゃだめだよ。」
水菜は慌てて言った。セイゲンは水菜の制止も聞かず、頭を一つの方向に向けると、まるでその先にある何かを探るかのように、静かに意識を集中している。
水菜の全身から、どっ、と冷たい汗が吹き出す。セイゲンがこうした仕草を取るのは、海中の音を全身で感じようとしているときだ。
何かが、いる。セイゲンは近づく何かを感じている。
水菜は腕時計に付属しているコンパスを見つめ、セイゲンの頭が向いた方角を確かめた。それは、位置的に水菜達がやってきた補給島とは真逆、敵の艦隊がいると考えられる方向だ。
敵艦が近づいている・・・?
水菜は手を日よけ代わりにかざして、はるか先の海上まで見据えた。白雲と蒼いうねりの広がる海には一点の影もない。ということは、敵の潜水艦だろうか。
まだだ。まだ、傷の縫合が終わっていない。このままでセイゲンを動かすわけにはいかない。水菜は釘みたいな針に医療用の糸をつけると、開いたセイゲンの皮膚を縫い始めた。
「セイゲン。何か、近づいているの? 敵か味方か分かんないけど、急がなくちゃ・・・。仮に味方だとしたって、セイゲンの起爆装置を外してるんだもん。どんな対応されるか分からないけれど、ろくなことにはならないよ。」
「・・・・・。」
「じっとしてて、もう少しなんだから。」
水菜は一心に針を操っているが、内心、激しく焦っていた。身動きの取れないセイゲンは、訓練用の浮き標的(ターゲット)も同然だ。撃ってくださいと言っているようなもので、今近づかれたら、為す術がない。
焦るあまり、手元が狂いそうになる。唇を噛んで、水菜は必死に手を動かし続けた。
グロシェクは、モゼドラクを潜望鏡深度まで浮上させるよう指示した。
「了解。潜望鏡深度まで浮上します。」
「漂流物のようだと言っとりますが・・。」
ファルスキーはわざわざ目視確認しようとするグロシェクに、いぶかしげな表情を向けていた。補給港のひとつが大規模な攻撃を受けているとの報を受け、艦隊行動中であったのだが、艦列から抜け出してまで確認するほどのことなのだろうか、とファルスキーは考えている。
グロシェクはファルスキーを一瞥すると、潜望鏡にとりつきながら言った。
「少し、気になる。・・・補給港への攻撃に、必然性が不足している。」
「必然性、ですか。敵にとっては、反撃の足がかりにしたい、という思惑が見えますが・・。」
「それにしては、タイミングが悪い。」
「我々にとって、ということですか?」
「いや、奴らにとってだ。戦力的に十分な補充ができているとは思えないし、奇襲としては意外性に欠ける。」
「つまり、我々の目をそこへ向けさせる、何らかの陽動だと。」
「そうだ。」
「しかし、陽動であったとしても、注意を引いている間に、いったいどこを狙おうというんです。この海域の哨戒はかなり念入りに行われています。我々に打撃を与えられる部隊が入り込む隙は、ありゃしませんがね。」
「・・・・・・。」
グロシェクは黙ったまま、海上に頭を出した潜望鏡から、ソナーに感のあった漂流物を確認し始めた。ファルスキーの言うことももっともだったが、何かが引っ掛かかる。敵が本気で補給港を奪取しに来たという可能性は否定しきれないものだったが、もしそれが陽動だとすると、必ず何かを隠している。グロシェクはそこが気にかかっていた。
潜望鏡で漂流物を確認したグロシェクは、この男にしては珍しく、にや、と口端を歪めた。「奴だ。」
「え?」
「鯨がいる。」
「この前、沈め損ねた奴ですか。」
グロシェクの隣で、ファルスキーが色めき立った。潜望鏡の望遠機能では詳細を確認できなかったが、そのシルエットには見覚えがある。背中に大きなカーゴを背負っているようだ。
しかし、鯨は泳いでいるようには見えず、ただ海上に浮いているだけだった。
何をしている・・・? こちらの艦隊が付近を航行していることは、さすがに把握しているはずだ。敵の目と鼻の先で前進も後退もしないというのは、何らかのトラブルが発生している可能性を示唆している。
いずれにせよ、好機だ。洋上の静止物を撃つなど、ごく初期段階の訓練でやる基本動作のひとつだ。実戦経験の豊富なモゼドラクのクルーにとって、それは容易なルーチンワークにしかならない。
「一番、注水。目標、前方の鯨。一撃で沈めろ。」
グロシェクの命令に、発令所内の士気が一気に上がった。
水菜は、作業がいつまでも終わらないんじゃないかという錯覚に陥っていた。自分の手の緩慢さに、悪態すらつきたい思いだ。
突然セイゲンの背中が、ぐっ、と盛り上がったかと思うと、尾びれを上下に動かし、前に進み始めた。
「セイゲン! まだ、縫合が終わってない! 動いちゃだめだよ!」
「・・・・・。」
「セイゲン!」
突っ張るような力が加わり、セイゲンの傷口が痛々しく広がる。水菜は針を刺す間隔を大きめにとり、大急ぎで縫合を終わらせると、ガムテープみたいな医療用絆創膏で傷を塞いだ。耐水性の粘着剤が使用されているから、海中でも簡単にははがれない。
セイゲンは力強く泳ぎ始めたが、敵が魚雷の射程内に入っているのだとすれば、この回避運動はすでに後手だ。狙い澄まされた弓の射程内で、逃げ惑うようなものだった。
セイゲンの背中で、水菜は見えない敵が、今にも牙をむきそうだという圧迫感を感じていた。このままでは、セイゲンが沈められる。水菜は意を決するように唇を結ぶと、セイゲンに爆雷を固定しているベルトに取り付いた。
油圧式の回転ハンドルのロックを外し、それを回そうとする。ハンドルは固くなかなか動かない。水菜は歯を食いしばり、手のひらから血がにじみ出すのも構わず、力を込めた。
セイゲンを助けることが、自分に残された唯一の贖罪方法だと水菜は心に決めていた。他の生命を自分達の都合のいいように利用し、挙げ句、使い捨てようとする行為を罪と呼ぶならば、セイゲンを助けることでしか、その罪を償うことはできない。ここでセイゲンが死ねば、水菜はその罪を一生背負うことになる。いや、そうなった時には、自分もセイゲンと共に死のうとすら思っていた。
「くっ・・・、この・・!」
水菜は人生で、これほど力を込めたことはないというくらい、全身の力をこめた。
ハンドルが、きしむ音をたててわずかに動いた。一度動き出したハンドルは徐々に軽くなり、セイゲンの身体を締め付けていたベルトが緩む。セイゲンの行動を、命そのものを束縛していたベルトが緩んだのだ。
水菜はセイゲンに言った。
「セイゲン。潜って! 爆雷の固定を緩めたわ。」
ここまでベルトが緩めば、あとはセイゲンの自力で抜け出せるだろう。
「・・・・・・・。」
「私はいいから。これを使って浮いていられるし、時間がないわ。」
水菜はそう言って、手術道具の入ったバッグを抱えた。万が一海に落としても道具が海中へ沈降しないよう、発砲スチロールが内側に縫い込まれている。人間一人を浮かべるくらいの浮力はあるはずだ。
「このままじゃ、狙い撃ちされちゃう。早く!」
セイゲンはもともと、水平方向よりも、垂直方向の動作に長けた鯨だ。海面を逃げるだけでは、魚雷を避けきれない。
「セイゲン、早く!」
水菜が急かしても、セイゲンは潜ろうとしない。
水菜はもう何も考えていなかった。
バッグのジッパーを閉じて抱えると、水菜は勢いをつけて海へ飛び込んだ。いったん海中へ沈み込んだ身体が、バッグの浮力で再び浮かび上がる。
セイゲンの背中にいたときはたいして感じなかったのだが、外洋のうねりは見た目以上にお大きかった。水菜の身体を上へ下へと振り子のように揺さぶり、気を抜くとすぐに頭から波をかぶってしまう。水菜はラッコのように仰向けになると、お腹にバッグを抱え込み、身体の力を抜いた。
視界の端では、つかの間、逡巡(しゅんじゅん)するかのようにセイゲンが身体の動きを止めたが、やがて、頭部の上にある鼻から息を吸うと、海中へ潜り始めた。尾びれが海面へ立ち、セイゲンが垂直になって潜航して行くのが分かる。
セイゲンとはこれが最後のお別れかも知れない。水菜は直感して思った。
「さよなら、セイゲン・・・。」
仰ぎ見る空はどこまでも深い。しばらく波間に浮いていると、爆雷槽(ばくらいそう)が海上に浮かび上がった。
「よかった。うまく外れたんだ。」
これで、セイゲンは自由だ。傷の具合が気にかかったが、セイゲンの回復力があれば、すぐに閉じるだろう。
セイゲンと言葉を交わすことができなかったのは残念だが、これでよかったんだ、と水菜は思う。人の意のままに、道具として扱われる不自由から逃れることができたのだから。
これでよかったんだ。
水菜はもう一度、自分へ言い聞かせるように思った。涙が出ていることに気づいたのは、視界が不意にぼやけたからだ。寂しかった。
心細さもある。洋上に漂う点みたいな自分が友軍に発見される可能性はとても低いだろう。このまま力尽きれば、溺れるだけだ。セイゲンの背に乗っているときは感ぜずにいられた、海にある孤独というやつを、水菜は心の底から感じていた。
「! 何かが敵から分離したようです。」
魚雷発射の直前にあったモゼドラクで、ソナー手のミハイルがヘッドセットに手をやりながら言った。
「分離? 魚雷か。」
ファルスキーが緊張した面持ちで確認する。
「・・いえ、垂直方向に浮上しているようです。」
「垂直に浮上? 何でしょう?」
ファルスキーがグロシェクへ振り向いた。どちらを撃つのか、決めなければならない。ファルスキーの言う、何でしょう、にはそうした問いも含まれている。
グロシェクは、ファルスキーの問いに直接応えず言った。
「・・・もう片方はどうした。」
「そのまま深部へ向かっているようですが、無音です。自然沈降しているようです。」
グロシェクは、瞬間、表情には出さなかったが、判断に迷った。
いったい何を分離したというのだ。デコイにしては分離が早すぎる。こちらはまだ、魚雷を撃ってすらいない。人間の乗るモジュールが分離、脱出した・・・? しかし、仮にそうであるとして、なぜ今なのか。
洋上で作用する、新しい兵器か。だとすれば、分離後、深海へ退避しているという行動だとして納得もいく。このまま今の海域に残ることは危険であるようにも思えたが、新兵器だとすれば、このときを逃して阻止する術はない。
グロシェクは周囲からすればまばたきするほどの間にそこまで考えると、次の命令を下した。
「浮上した物体に接近する。」
「了解。浮遊物に接近します。」
操舵手が復唱し、ファルスキーはミハイルに言った。
「浮遊物の材質は分かるか。ありゃいったい、何だ。」
「現在の情報では何とも・・・。」
「ピンガーを打て。」
グロシェクの言葉に、ファルスキーが振り向いた。
「よいのですか?」
「構わん。」
「了解。ピンガー打て。」
コーン、という甲高い音が水中を伝わり、ミハイルは対象に当たって反響してくる音に耳を澄ませた。
「・・・内部が空洞の金属コンテナのようです。」
「・・・・。」
グロシェクが沈黙するのを見ながら、ファルスキーは口を開かずにはいられなかった。
「敵の新兵器でしょうかね。近づいてよろしいんですか。」
「・・・ああ。」
グロシェクは短く言って、うなずいた。
「今、ここで新兵器を展開する理由がない。」
「我々に対して使用を考えているのかも知れませんよ。」
「たかが潜水艦一隻に、虎の子の兵器を使う余裕が敵にあるとは思えん。」
「遠隔から作用する兵器では? 我々の本隊を狙った。」
「だとすれば、なおのことあれが何なのか、確認する必要がある。」
「危険じゃありませんかね。」
「・・・・。」
グロエシェクは無言でファルスキーを見つめた。こうやって口を閉じたグロシェクには、もはや何を言っても無駄だということをファルスキーは経験上、理解している。
「失礼しました。慎重に接近しろ。艦をぶつけるなよ。」
ファルスキーは操舵手の背に向かって言った。
水菜の心は真っ白になっていたが、ふと、ある音に気がついて我に帰った。
「・・・スクリュー音?」
セイゲンほどではないが、水へ浸かった耳で、かなり遠くの音まで聞くことができる。規則正しく繰り返される回転音は、確かにスクリューの音だ。
「近づいて来る・・。」
見つかったのだろうか。いや、それは水菜に近づいているというより、浮上した爆雷槽の方に近づいていると考えた方がよさそうだ。
かすかに響いていたその音はどんどん大きくなり、やがて、滝のように海水を巻き上げながら、潜水艦が海面へと浮上した。
黒く水に濡れた外殻の形成するシルエットは、美しい曲面を描いている。
「敵・・。」
水菜の見たことがない艦型だったが、美しい船だと思った。どこか、鯨に似ているようでもある。
艦上に人影が現れた。自分が敵だと知れれば、機銃で撃たれるかも知れない。広い洋上で隠れる場所など、どこにもなかった。水菜は思わず身体を固くした。
ここが私の最期か・・。
司令塔のハッチから外へ出たファルスキーは、先に出ていたグロシェクの視線の先を追った。
「・・何でしょうかね? やはり、何かを運んでいたようですが。」
「・・・・・。」
爆雷槽は、ずんぐりとした流線型をとっているが、自力で航行する潜水艦や、洋上艦艇とは思えなかった。艦橋もない。何らかの兵器か、あるいは単なる補給用カーゴか・・・。
ふと、付近の海上を見渡したファルスキーは、何かが海面に浮かんでいるのを見つけた。
「ぅん?」
アザラシのような海棲生物かとも思ったが、違う。人間だ。
「艦長。人です。」
ファルスキーの言葉に、グロシェクは首から下げた双眼鏡を素早く構える。
「漂流しているようです。こいつの乗組員でしょうかね。」
味方であれば助けなければならないが、まして敵だ。潜水艦の収容人数(キャパシティ)は巡洋艦などと比べてかなりシビアである以上、見捨てる、という選択肢は当然存在する。
「どうします?」
判断を仰ぐファルスキーへ、グロシェクは即断して命じた。
「収容しろ。見た所、漂流者はあれだけだ。」
「了解。おおぃ! 何人か手を貸せ! 漂流者だ。ロープ持って来い。」
ファルスキーが伝声管に向かって怒鳴ると、何人かのクルーが艦上へ上がってきた。
投げ縄の要領でクルーの一人が浮き輪つきのロープを投げた。
数メートル先に投げ入れられた浮きを見て、水菜は迷った。ここであの艦に引き上げられれば、自動的に自分は捕虜となる。だが、目の前の浮きにつかまるのを拒めば、あとは力尽きて海底に沈むだけだ。家族の姿が一瞬、脳裏をよぎった。生きてさえいれば、またいつか会えるかも知れない。水菜は浮きに近づくと、それをつかんだ。
「つかんだぞ。引け!」
ファルスキーが命じ、ロープを握る男達が力強くそれを引いた。
モゼドラクの甲板上に引き上げられた水菜は、ファルスキーの顔を見上げて浮きにつかまったことを後悔した。ずんぐりした赤ら顔の男が、まるで角の生えていない鬼のように見えたからだ。
「何だぁ? 小娘じゃないか。一応軍属らしいが・・・。」
ファルスキーが低い、地鳴りのような声で何か言っているが、水菜には理解できない。他のクルー達の物珍しそうな視線に耐えかね、にらめばいいのか、うなだれればいいのか、態度を決めあぐねていると、ファルスキーの背後からグロシェクが近づいてきた。
「機関予備室を一つ空けろ。そこに押し込んでおけ。」
水菜はグロシェクの顔を見つめた。この艦の艦長らしい。どこか、学者を思わせる風貌が印象的だ。鷲水の飯島とはまったく違う雰囲気だった。
グロシェクはファルスキーにだけ聞こえる声で続けた。
「部屋に歩哨を立たせろ。なるべく謹厳な奴がいい。」
「・・ああ、分かりました。」
ファルスキーは、グロシェクの意図を察した。男ばかりの艦内で、異性の捕虜の取り扱いには注意が必要だった。歩哨は、水菜が逃げ出さないよう見張るというより、誰も中に立ち入らせないことの方が、任務として重要だった。
感じる雰囲気から、敵ながらグロシェクは信用できそうな人間だと水菜が考えていると、不意にインカムから雑音混じりの声が聞こえてきた。
「・・はん、水菜はん、聞こえてますか。」
ニライだ。
「水菜はんがセイゲンはんと一緒やゆーて、川原はんにこっそり送り出されましてん。まずいでっせ。本部の連中、異変に気づいたみたいですねん。奴ら、爆雷をそこで起動・・・。はよ、逃げた方が・・。」
ノイズが酷くなり、ニライの声が途切れた。
爆雷を起動・・・? ニライは確かにそう言っていた。水菜がセイゲンから爆雷を切り離したことに気づいたのだろうか。新兵器を鹵獲(ろかく)されるくらいなら、今、ここで爆発させる。それは十分にありえる判断だ。
爆雷槽は、今もぷかぷかとモゼドラクの脇に浮かんでいる。今これが爆発すれば、水菜もこの艦のクルー達も、塵のように吹き飛ばされるだろう。
自分の頭二つ分くらい大柄な異国の男達を前に、水菜は一瞬躊躇したが、ぐずぐずしてはいられない。水菜はグロシェクに向かって、さっ、と敬礼すると早口に言った。
「あの、救助、感謝します。それで、今すぐこの海域から離脱してください。この爆雷、爆発するかも知れないんです!」
ファルスキーは口を半分開きながら、ぽかんと水菜を見つめている。引き上げた敵国の女兵士がいきなり敬礼したかと思うと、早口で何かをまくしたてているようにしか、ファルスキーには見えていない。
「何、言ってるんでしょう、この女。自分を解放しろと要求してるんでしょうか。」
「・・いや。」
周囲に敵艦のいる気配はない。解放といっても、再び海に放り出されて困るのは本人だ。
女はすぐ隣に浮かぶ漂流物をさかんに指差しながら、何かが爆発する仕草をしている。これを爆破すると恫喝しているのだろうか。それも違う、とグロシェクは思った。
「ジネルを呼べ。あいつなら少し喋れるだろう。」
機関士のジネルはこの捕虜の国へ留学した経験がある。
呼ばれたジネルは、小柄な身体を踊らせて司令塔から出てくると、機関士らしく素早い身ごなしで艦上に降りてきた。
艦長から機関士が直々に呼び出されるなど、そうあることではない。ジネルは緊張しながら言った。
「何でしょうか?」
「この女が何かを主張している。訳してくれ。」
「はっ。」
ジネルは内心、安堵した。職務上の不備でも、咎められるのかと思っていたからだ。水菜をじろじろと見ながら、ジネルは少し考えると口を開いた。
「私の名はジネルとイウ。貴官の主張を聞きタイ。」
水菜は、言葉が通じると分かってほっとした。
「よかった・・! 今すぐ、この海域から離れてください。これが、爆発するんです!」
胡散臭げに水菜を見ていたジネルの表情が固くなった。ジネルはグロシェクに向かって、
「あれが爆発する、と言っています。」
と、説明した。
グロシェクとファルスキーの顔にも緊張が走る。
「これはやはり、爆発物か。」
ファルスキーが言うのを、ジネルはそのまま訳して水菜に伝えた。水菜は、そうだ、だから早く、としきにうなずきながら言う。
「我々に鹵獲されないよう、嘘をついているだけではないでしょうか。」
ファルスキーは抱いた疑念をグロシェクに言った。
嘘・・・。グロシェクは水菜を見つめた。この女が嘘をついているようには見えない。というより、駆け引きとしての嘘がつけるような器用さを持ち合わせているとは、どうも思えない。考えや心情がダイレクトに表へ出てしまうタイプの人間。グロシェクは最初に見たときから、水菜をそう判断していた。
「・・威力は。」
グロシェクは水菜から目を離さないまま、ジネルに言った。
「威力はどの程度ダ。」
「とてつもなく。」
水菜は両手を大きく広げて、その爆発力がとても大きいということを、必死にグロシェクへ伝える。
グロシェクは踵を返すと、司令塔の方へ歩きながら言った。
「潜航用意。急げ。」
「え? この女の言うことを信用するんですか。」
ファルスキーが、慌ててグロシェクの後を追った。
「信用したわけではないが、そいつは駆け引きのできる人間じゃない。あれが高威力の爆雷か何かだというのは確実だ。爆発の危険もある。」
ファルスキーはグロシェクにそう言われると、途端に目の前の爆雷槽が薄気味悪いものに見えてきた。気味が悪い、というより、導火線に火のついたダイナマイトが足下に転がっているような感覚だ。
それまで考えないようにしていた切迫感が、急速に大きくなる。
「おいっ! 退避だ! 急げ!」
艦上にいた数人のクルーが、慌ててハッチの方へ駆けて行く。
「この女はどうします?」
ジネルが言うのに対し、ファルスキーはじれったそうに返した。
「ああ、海に放っぽり出すわけにもいかなかったな。ジネル、つれて来てくれ。捕虜として艦に収容する。」
「了解です。」
ジネルはうなづくと、水菜の腕を取った。
「来イ。」
「あ、あの・・!」
ジネルの大きな手で、かなり強く腕を握られているのにも構わず、水菜はジネルに訊いた。
「通じたんでしょうか?」
グロシェクが何か言い残してさっさと艦内に入ってしまったものだから、水菜は自分の言ったことが通じたのか、不安になったのだ。
「あア。これから、退避すル。ぐずぐずするナ。お前は捕虜として扱われル。」
捕虜、という言葉を聞くと、水菜は急に、現実へ引き戻されたような気がした。気持ちが折れそうになる。艦内に連れ込まれてしまえば、どんな扱いをされようと助けに来る者はいない。条約で交わされた捕虜への処遇など、守られる保証はどこにもないのだ。死んだ方がましだと思うようなことをされるかも知れない。
いっそあのまま、海の底へ沈んでしまえばよかったかも・・。水菜はそう考えたが、ジネルの指は機械のように水菜の腕をはさんだまま、びくともしない。大股で歩くジネルに歩幅が追いつかず、なかば引きずられるようにして、水菜は艦内に押し込められた。
発令所内では、慌ただしく命令と復唱が飛び交っている。モゼドラクは艦上にいたクルーがハッチを閉めるのとほぼ同時に潜航を開始した。
「メインタンク注水。転進180度しつつ、前進全速。」
「了解。メインタンク注水します。」
「転進180度、前進全速。」
機関の回転速度が上がり、鯨のような船形をした艦が、水をかきわけながら前進する。
水菜は上を見上げながら、早く、早くと心の中で念じた。ジネルにつかまれた腕が痛い。
新型爆雷の威力が凄まじいと腰水に聞かされてはいたものの、実際にどの程度の爆発力なのか、目の当たりにしたわけではない。具体的に何メートル離れれば安全なのか、水菜には分からなかった。今はとにかく、少しでも爆雷から離れるしかない。
他のクルー達の視線を全身に感じながら、船尾方向に歩かされた後、水菜は小さな扉の前に立たされた。ジネルが扉を開けると、中からオイルの匂いが立ち込める。
「入レ。」
とん、と背中を押され、水菜は部屋の中に入った。機関室で使う予備のパーツであろうか。太いシャフトや吸気管などが雑然と並んでいる。オイルの匂いは、シャフトが発しているようだった。
「ちょっと狭いが、我慢シロ。ここに入れるしかナイ。」
そう言ったジネルの顔からは、最初に水菜へ見せた怪訝な表情が消え、いくぶん同情の色が見えた。
ごく、と重い水密扉が閉じると、内部は赤色灯に変わり、規則正しい機関の音以外、何も聞こえなくなった。
水菜は部屋の真ん中に、足を抱えて座り込むと、ほっと息をついた。オイルの匂いが気にはなったが、他のクルー達からは隔離された状態となったのだ。扉のない部屋にでも入れられたら、おちおち眠ってもいられなかっただろう。上等とは決して言えないが、潜水艦内の数少ない「個室」に入れられたことになる。この艦の艦長が、副長と見られるずんぐりした男にだけ、何かを耳打ちしていた。あれはもしかしたら、自分をここへ入れろという命令だったのかも知れず、そう思うと、艦長の配慮に水菜は少し安心できる気がした。
「セイゲン、大丈夫かな。」
爆雷の爆発にセイゲンが巻き込まれないか、気になる。いや、そもそも、爆雷は爆発するのだろうか。ニライは爆雷が起動されると言ったが、本部の人間にとっても大事な新兵器だ。敵のいない場所で爆発させるには、惜しいもののはずだ。
このまま、爆雷が爆発せず回収されれば、それが一番いい。セイゲンの追跡が行われるかも知れないが、炸薬を頭部から外してしまった以上、彼を追い詰めるすべはないのだ。自分が捕虜となったことをのぞいて、すべてが丸く収まる。水菜は自分の置かれた状況にも関わらず、そう考えることで、いくぶん安堵した。
潜航を始めてから、何分たっただろうか。艦内の閉鎖空間では時間の感覚が失われる。
「もしかしたら、本当に爆発しないんじゃ・・・。」
水菜がそう思ったときだ。
艦全体がねじきれるのではないかと不安になるほどきしむ音をたて、内殻全体が揺れた。海水を伝わる轟音が、艦内部にまで響いてくる。
モゼドラクの発令所では、ファルスキーが必死になって手すりにつかまりながら叫んだ。
「艦長! こ、この爆発は・・!」
艦が横に向かって大きく傾ぐ。
「ああ。あいつの言っていたことはどうやら本当だったらしいな。」
「どうしますか。」
「爆心に向かって艦首を向けろ。これ以上艦の姿勢を崩すな。」
「りょ、了解・・!」
激流に翻弄される木の葉のように揺れるモゼドラクだが、スクリューを全力で回転させ、衝撃波に抗う。
機関予備室に押し込められていた水菜は、ほとんど転がるようにして壁にぶつかった。
「うげっ! イったぁ・・!。」
腰をしたたかに打ち付け、打った場所をさすりながら水菜はよろよろと立ち上がった。
「・・爆発したんだ。」
水菜が想像していた以上に激しい爆発だ。爆雷からかなりの距離を取っていてもおかしくないのに、これほど艦が揺れるとは。水菜の乗る潜水艦は、決して小さくはない。それが、外洋に乗り出した小舟みたいに水中で揺れている。艦の壁から感じる揺れの激しさが、爆発の強さを物語っていた。
「居住区の一部で浸水発生!」
「機関、右舷(みぎげん)出力低下!」
「魚雷発射管に亀裂が入ったようです!」
発令所には、艦内各所のダメージが次々と報告されてくる。
「艦長、いったん浮上しましょう。艦がもちません。」
ファルスキーのすがるような声に、グロシェクもうなずいた。
「浮上する。メインタンク、ブロー。」
激しくかき回された海水の中を、モゼドラクはゆっくりと浮上し始めた。
「浮上してる・・。」
艦が上昇し始めたことを、水菜は足の裏にかかるGで感じた。よく見ると、部屋の外につながる扉にわずかな隙間ができている。爆発の衝撃で、鍵が壊れたのだろうか。
水菜はそっと扉を押し開け、外をのぞいた。
艦のクルー達が慌ただしく行き来し、天井の警告灯が激しく回転している。機関室の方で浸水しているのか、水が流れ込む音も聞こえる。
水菜は思いを定め、小さく開けた扉から、する、と外に出た。必死の形相ですれ違うクルー達は、もはや水菜を見向きもせず、担当部署の復旧に追われている。水菜はすばやく廊下を移動すると、艦首方向へ向かった。
「海面まで、残り十! ・・・浮上します!」
身体が一度、宙に浮き上がり、そして沈み込む感覚があった。
「海面に達しました。」
ファルスキーはグロシェクに向かって報告しながら、なおも手すりから手を離さない。というより、離せなかった。爆発の余波で、海面には大きな波が立っているのだろう。大しけの海を進むごとく、艦は振幅の大きな揺れを繰り返していた。
グロシェクが司令塔へ昇ろうとするのを見て、ファルスキーが止めた。
「艦長、外はまだ危険ではありませんか。」
「状況をこの目で確認する。敵の新兵器はすでに爆発した後だ。問題はない。」
「は・・。」
ファルスキーは気乗りしない顔つきで、グロシェクの後に従う。
先にハッチを出て司令塔上に立っているグロシェクの後から、ファルスキーも外に出て驚いた。空は晴天のままであるにも関わらず、土砂降りの雨が降っているからだ。
「な、何ですか、この雨は・・!」
「爆発で巻き上げられた海水が降っているんだろう。」
「海水ですか・・。」
ファルスキーは空を仰ぎ見ながら、口を開けた。確かに、しょっぱい。
「敵ながら、凄まじいものを創り出したものですな・・。」
「ああ。」
これが艦隊のど真ん中で爆発したら、海上にいる艦艇はひとたまりもないだろう。こちらが完全に優位に立っているものとばかり思っていたが、こんな牙を隠し持っていたとは。ファルスキーは、激しく海水の滴り落ちる中、背筋に冷たいものを感じた。
不意に、司令塔の梯子を昇って来る音が、下から聞こえてきた。下士官が緊急の報告でもしに来たのかと、ファルスキーが覗き込むその鼻先をかすめて、小柄な身体が外へ飛び出してきた。
「あ、お前・・!」
水菜だ。ファルスキーとグロシェクの姿などまるで目に入らないといった風に、二人の間へ割って入ると、司令塔の縁に取り付いて海面を見据えている。
「抜け出してきたのか。こんなとこで何やってる!」
ファルスキーが水菜の肩へ手を掛けようとするのを、グロシェクが止めた。
「放っておけ。今、この女に掛かる余裕のある者など、艦内にはいない。」
「は? はぁ・・。」
そう言われてしまうと、ファルスキーも水菜を放っておかざるをえない。
スコールのように降っていた海水が、少しずつやんできた。
水菜は一心に、水面を見つめている。この女はいったい何を見ているのかと、ファルスキーは不思議に思った。新兵器の威力をその目で確かめたいと、そう考えているにしては、さっきから海面ばかりを穴があくほど見つめている。まるで、何かを探しているかのようだ。
空から落ちる太陽光が巻き上げられた海水によって屈折し、いつの間にか、大きな虹がかかった。
虹を背景にして、モゼドラクの近くにぽつりと黒い影が浮かんでいるのを、水菜は見つけた。その背中を水菜が見間違えることはなかった。
「セイゲン!」
セイゲンの背は動かない。爆発の衝撃で、怪我でもしたのだろうか。あるいは・・。
恐ろしい予感に、水菜の心臓の鼓動は、全力で回転する機関みたいに早く打っている。
「セイゲン!」
もう一度、水菜は叫んだ。すると、セイゲンの背中がゆっくりと隆起し、高く大きな潮が吹き上げられた。
生きてる。水菜は司令塔から滑り落ちるように甲板へ降りると、渚の境界まで駆け寄った。
「ありゃ、例の鯨ですか。」
ファルスキーが、不思議な生き物でも見ているような目つきでグロシェクに言った。
「あの爆発の中、よく生きていられましたね。」
「深海まで潜航して助かったんだろう。爆発したのは海面で、だった。衝撃のほとんどは海面上で広がったのだろう。」
「・・・攻撃しますか。」
ファルスキーに問われ、グロシェクはセイゲンを見つめた。
「いや、武装していない。あれはただの鯨だ。撃つだけ魚雷の無駄だよ。」
「そうですな。」
何となく予期していた答えをグロシェクから聞くと、ファルスキーは小さくうなずいて、再び水菜を見た。
「セイゲン! 大丈夫だった? 怪我、してない。」
水菜は、海に落ちるのではないかというくらい、ぎりぎりの水際(みぎわ)に乗り出して、泣きそうになりながらセイゲンに話しかけている。インカムも翻訳装置もどこかへ行ってしまったから、もはや、水菜とセイゲンはお互いに言葉が理解できないはずだった。
それでも、水菜はセイゲンに向かって語り続けた。
大丈夫だ、問題ない、という返事でもあるかのように、ぶふ、とセイゲンは鼻から息を吐き出す。
「よかった・・。セイゲン、もう死んじゃったのかと思って、それで、もう私どうしたらいいんだろうって。本当によかった。セイゲン。こんなところで、死んじゃいけない。人間の起こした戦争で、君が死ぬ必要はないんだよ。海へお還り、セイゲン。自由の海へ。君達の海へ。」
セイゲンは、その場でぐるりと円を描くように回ると、やがて、少しずつ水菜から離れて行った。
これが本当の別れだと思うと、水菜は急に、寂しさで胸がふさぎそうになった。だが、泳ぎ去るセイゲンの背中を、大きな、黒い背中の力強く上下する様子を見ていると、寂しさも薄れた。
人の掛けたくびきから逃れ、悠然と泳ぐその生命は、大海の王、そのものだ。地球表面七割を占める広大な海を、まるでそこが自分の庭であるかのように泳ぎ続ける彼は、進化と適応の偉大な結実だ。
「セイゲーン! 元気でね!」
水菜が大きく手を振るのと合わせるのように、静かにセイゲンの背が、海中へと消えて行った。かかっていた虹はいつしか消え、雲と、碧の海はいつものように泰然(たいぜん)としてそこに広がっていた。
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