第52話 「私に触れるな!」

 あの時、羽瑠奈ちゃんが「ウサギのぬいぐるみ」と言ったのでラビはそれに怒って、わけのわからない言語で自分の名前を叫んだのだ。


 だから「こんにちは」という彼女の記憶はおかしい。

 もちろん、わたしの記憶が間違っていないというのが前提だけど。


 これでは会話が噛み合わない。


 二人は同じものを見て、同じ感覚だとわかって、それで仲良くなったのではなかったのか?


 ダケド……セカイハマダ、シュウフクデキル。


 そうだね。深く考えたらいけないのかもしれない。

 わたしはこの場の雰囲気を誤魔化す意味も含めて、まったく関係のない世間話を始めながら羽瑠奈ちゃんの怪我の手当をした。


 余計な事を考えてはいけない。


 それはうっすらと『世界が崩壊してしまう』事に気付いているから。

 だから慎重に言葉を選び、羽瑠奈ちゃんに接する。

 ふと彼女の右腕の包帯が緩んでいることに気付いた。

 こういうときに気を利かせすぎたところで悪い方向にはいかないだろう。

「あ、羽瑠奈ちゃん、包帯巻き直してあげようか」

 そう言って彼女の手に触れたわたしは何か違和感を抱く。

「あ、ごめん。大丈夫だから」

 彼女の右腕がするりとわたしの手から離れていく。

 ゆるりと躱された。拒絶されたわけではない。

 だからそこで再び思考を止めた。


   *                          *


 家に帰るという羽瑠奈ちゃんを送ってわたしも外に出る。

 もともと索敵の為に町内を巡回中だったのだから。

 隣を歩く羽瑠奈ちゃんは何も喋らず、わたし自身も黙って口を閉じている。

 不必要な事を喋らない限り、彼女とは友達でいられる……かな?


 だから今日のことは忘れよう。せっかくできた友達なんだから。


 わたしはなぜか溢れそうになる涙に気付いて空を仰いだ。闇を引き摺る天を。

 長い坂道の途中で羽瑠奈ちゃんの足が止まる。

 わたしは何事かと、彼女を見るとその表情は驚きで硬直していた。

 ふと人の気配を感じて前を向くと、どこかで見かけた人物がこちらへと歩いてくる。

 小太りなその体型と顔には見覚えがあった。

「どうして、生きてるの?」

 わたしが言おうとした言葉をそのまま隣の羽瑠奈ちゃんが呟く。

「やあ、奇遇だね。こんなところで会うなんて」

 男はわたしの存在など気にかけない素振りで、隣の羽瑠奈ちゃんへと言葉をかけた。

「どうして……」

 そこで羽瑠奈ちゃんの言葉は止まってしまう。まるで目の前の現実が受け入れられないかのように。

 けど、その気持ちはわたしにも少しは理解できた。だって、目の前の男は生きているはずがない。

 公園のトイレで死んでいた。わたしはその場に居合わせたし、警察の検証もあったはず。


 まさか、それさえも幻だというの?


 わたしは忘れようとしていた家での羽瑠奈ちゃんとやりとりを思い出す。

 あの時のラビの言葉のように。


 記憶が改竄されているのか、それとも現実がねじ曲がっているのか。


 綻びを見せた世界は、どちらもわたしには認め難いものだった。

「ほう、俺を見てそれほど驚くとは興味深いね。まさかとは思うけど、弟のハルミズを殺したのは君だなんてオチはないよね」

「弟?」

 思わず声に出てしまう。

 亡くなった人物が男の弟であるならば、違和感の説明は簡単にできる。近親者であれば顔が似ているのは納得だ。そう、カメラの男はたしか『ダム』と名乗っていた。『トゥイードルダム』と。よく考えれば、それはアリスの物語に出てきたキャラクターではないか。彼らは双子だ。

「そう、残念ねダイチさん。せっかくあなたが死んだと思って喜んでいたのに……うふふふふ」

 開き直ったかのように羽瑠奈ちゃんが笑う。口元を歪め、まるで現実そのものを嘲り笑うかのように。

「相変わらず嫌味ったらしいね『コスプレお嬢ちゃん』」

 粘着的で軽蔑感を含む受け答え。なんだか、どちらも性格の歪みを感じる。

「典型的なオタが何言ってんの?」

「ふん、見栄えばかりに心を囚われている人間が何を言う。きっとその醜い心を隠す為に、そんなゴテゴテの衣装が必要なんだね」

「あなたの方が醜い人間でしょ。そんなあなたがピアノを弾くなんて考えただけでもぞっとするもの。バイオリンが駄目だからって簡単にそれを捨ててピアノに転向するなんて、浅はかな考えとしかいいようがないわ」

「ふん、所詮は貴族階級の生活に憧れるだけの似非お嬢のクセに」

「あなたみたいに確固たる信念もない人にそんな事を言われる覚えはないわ」

 二人の間には何か確執があるのだろうか。会話から感じられるのは張りつめた雰囲気だ。とてもじゃないが、冗談を言い合っているようには聞こえない。

「そんなひらひらした服を着て男の注目を集めることしか考えられないような女に、音楽の何がわかるというのだ」

 バカにするような表情で、男の手が羽瑠奈ちゃんの胸元のリボンに触れようとする。

「私に触れるな!」

 その声に男の手はびくりと止まる。

 けど、ニヤリと笑みを浮かべる男の顔はなぜか勝ち誇っているかのようにも感じられた。

「俺はね、つくづく不思議に思ってたんだよ。君の服は安い物じゃない。貧乏人で、やっとの思いでピアノ教室に通える君がどうやってその服を手に入れたんだ?」

「そ……それは」

 羽瑠奈ちゃんは言葉に詰まってしまう。

「俺は知ってるんだよ」

「……」

 彼女は完全に俯いてしまっている。前に見た勇ましい姿の羽瑠奈ちゃんはどこに行ってしまったのだろう。

「俺はね、援交なんていう濁した言葉は使わないよ。だから、君の友人のいる前ではっきりと言ってあげよう」

 男はちらりとわたしを見て薄ら笑いを浮かべる。

「やめて!」

「こいつはね。男に身体を売って、金だけじゃなく……」

 羽瑠奈ちゃんが男に突進していったかと思うと、彼の言葉はそこで途切れてしまった。

「あなたなんかにわかるわけない。あなたなんかにわかるわけない。あなたなんかにわかるわけない……」

 悲鳴もなく男は倒れる。その胸の辺りは血で真っ赤に染まっていた。

 振り返った羽瑠奈は虚ろな瞳でわたしを見つめる。

 右手のナイフは血に染まりながらも鋭い光を放ち、左手に巻かれていた包帯はさらにほつれて患部と思える箇所が見え隠れしていた。

「今見たことは黙ってて、そうじゃないとありすちゃんも殺さなくちゃいけないから」

 その言葉からはなんの感情も読み取れなかった。羽瑠奈ちゃんは笑いながらゆっくりと近づいてくる。

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