【026】「お前なんて生まれて来なければよかった」
鍋の火が落ち、冷え切った部屋で小さな嗚咽が響く。
押し殺すようなファイの泣き声が小さく、小さくなるまでどれぐらいの時間が経っただろうか。
胸の締め付けられるような時間はイーワンには永遠にも思えた。しかし、永遠などというものはどこの世界にもない。この世界にも、現実にも永遠は無かった。
ぐずる鼻をすすり、ファイはふらふらとイーワンの手をすり抜ける。あれほど離すまいとそう思っていたのに、ファイが自分から離れようとするとまるで手が凍りついたように固まっていた。
ファイは泣き疲れたのか、へたりと床へと座り込む。
その姿を見て、イーワンはたまらなくなった。
胸がきゅうと締め付けられ、息が苦しくなる。知らずのうちに握られた拳の中で、腕甲が悲鳴の軋みを上げた。
目の前の少女はひどく傷ついている。
生涯を賭け、守ろうとした一族が潰されようとしているのだ。絶望は望みが
助けたいと思う。救いたいと思う。
だが、どうすればいい。
イーワンはどうすればファイを助け、救うことが出来るのか。
イーワンには分からない。
なぜならイーワンはただのゲーマーだからだ。
確かにイーワンはサーバーランク第十位の
しかし、それはファイを救うには至らない。役に立たない。
なぜならイーワンはただのゲーマーだったからだ。
現実から目を背け、ゲームに――AWOに逃げた。鍋太郎のように選んだわけでは決してなかった。
ただ、ただ逃避としてイーワンはこの世界を選んだのだ。そんな弱い自分が、自分で道を選んだこの少女に何が言えるだろうか。
「……諦めちゃダメだよ」――自分で言った言葉をイーワンは吐き気がすると思った。諦めるなければどうなるというのだ。
なんて、軽薄で無責任な言葉だろう。事実、イーワンはファイの言葉にぴくりとも反応を返さない。
しかし、このまま放っておくなんてイーワンには出来なかった。
何か、何かを伝えないと。
ただ、それだけの幼い想いだけを燃やすようにして、イーワンは言葉を
絶望に打ちのめされ、涙も枯れた少女を放っておくなんてできるわけがなかった。
だから。
「何か、何か考えようよ」
なんて、陳腐な言葉だろうか。
こんな事ならばもっと本を読んでおけば良かったとイーワンは後悔した。
『銀』でなくても、レベル上げなどにひたすらに打ち込まなくても、本を読んでいればファイを勇気づける一言が出せたかもしれなかった。
もっと真剣に生きていればとも思う。逃避せず、辛い事に向き合い、諦めなければもしかしたらファイを立ち上がらせる一言が伝えられたのかもしれなかった。
イーワンは後悔するが、止まりはしなかった。
「一緒に考えるよ。オレは頭が良くないから、役に立たないかもしれない。けど一緒に考えるよ」
イーワンは言葉を重ねる。それは無為な努力かもしれない。それでもせずにはいられなかった。止まってはいけないと、何かが胸の奥で叫んでいる気がする。それは気のせいかもしれなかったが、イーワンはそれだけを頼りに言葉を探す。
どれほどファイは辛いのだろうか。力が抜け、膝を折り、ただ俯くファイをイーワンは助けたかった。
「だからさ、諦めないでよ。お願いだから」
イーワンは諦めない。
だってそれは、イーワンがファイに望んだことだからだ。ファイに諦めるなと望んだのに、イーワンが諦めるわけにはいかなかった。
イーワンはファイが立ち上がってくれることを諦めない。
諦めるなと言ったことを嘘にしてはいけない。
ファイはイーワンに嘘をつくなと言ったのだ。イーワンは嘘をつかない男だとそう言ったのだ。
あの言葉にイーワンは救われた。だったら助けなくては。ファイに手を差し延ばさなくてはならない。
イーワンはファイの前に跪き、手を伸ばす。
「オレはキミを助けるよ。助けたいんだ」
ファイは顔を上げない。
そうだろう。こんな理屈も根拠のない言葉でどうして立ち上がれる。
それでもイーワンは諦めない。
「ファイちゃんはさ……家族を助けたかったんだよね。すごいと思う。本当に、すごいと思うんだ。オレはさ……父さんが怖かった」
『父さん』と言葉にした時、目の前が急に暗くなったような気がした。
身体の芯が凍りついたようなその感覚を恐怖という。
気を抜くと震えそうになる恐怖をイーワンは奥歯をグッと噛み締める事で耐えた。
この恐怖に向き合うことができれば、ファイに届く言葉を見つけられるかもしれない。
それだけで、イーワンには向き合う価値があった。
「オレは……『望まれた子』だった。電子頭脳が弾き出す理想的な遺伝子の組み合わせで人が生まれる、そんな時代でオレは『望まれた子』だったんだ」
何を言っているのだろう。電子頭脳や遺伝子など、ファイに伝わるはずがない。
自分でもバカなことを話している自覚はあったが、止められなかった。
これしかないと、そう思う。
「望んで生まれたオレだけど、両親は愛してはくれなかった。いや……違うな。愛してはくれたんだ。でも、愛し続けてはくれなかった。できなかった」
鍋太郎との会話で取り戻した記憶をイーワンは吐き出す。思い出したはずのそれはもう痛みを感じないはずなのに、こうして話そうと回想すれば痛みを感じた。
脳が悲鳴を上げるのを感じる。やめろ、やめてくれ。そう叫び出したいほど痛いのだ。きっと思い出すのをやめれば、この痛みは消えるのだろう。
今までと同じように現実から目を逸らし、目の前の痛みから逃げ出して、そうすればきっと痛くない。
でもそれじゃあファイを助けられない。
ファイを助けたいのだ。
「ゲームで出会った両親は愛して、求め合って、オレを生んだ。けれどそれからのことに2人は耐えられなかった。母さんがオレから逃げるまで2年も持たなかったよ」
32世紀の世界で、子供は自動的に産まれ、育つものだった。
解明され、生命の神秘など消え去った科学の世界で子供たちは病気も欠陥もなく産まれ、最適解の教育を施されて育つ。先天性の病など産まれる余地はなく、皆が恵まれた身体で産まれる世界は幸福だったのだろうとイーワンは思う。
必要が無かったから誰も自分では生まなくなっただけで、禁じられたわけではなかった。だからそんな世界で、イーワンは2人の男女が愛し合った結果として生まれた。イーワンは母の顔を覚えていない。
「父さんは逃げ出さなかった。けれど、耐えきれなかった。オレは賢くないからさ。失敗して、上手くいかなくて。その度にどうして出来ないんだって殴られたよ」
イーワンは生まれ落ちての欠陥品だった。
4歳になっても寝小便は治らず、5歳になっても食べ物を口からこぼした。その度に父はどうしてできないんだと怒り、イーワンを殴った。
イーワンはどうして殴られたのか、理解出来なかった。ただ自分が悪いのだとは幼心に理解した。
父の求めることに応えられない。当たり前のことができない自分が父を深く怒らせ、悲しませていたのだと幼い
「痛かった。悲しかった。どうすればいいかなんて、分からなかったよ。泣いて、泣いてそれでまた殴られた。毎日、毎日。その繰り返しだった。父さんが教えてくれることをオレはなにひとつ満足にできなかった」
考えてもみれば当たり前なのだ。
遺伝子を分析し、最優の組み合わせで生まれてくる子供たちとたまたま2人がほんの一時、愛し合っただけで生まれた子供。どちらが優秀かなんて、判定する必要も無かった。
心拍、脈拍、瞳孔から読み取るメンタル数値までを分析に最適な教育を施す子供たちと子育てどころか、それまで生身で他人と接することなどなかった大人たちがそんな欠陥品の子供を育てられるわけがないのだ。
「だから、殴られて当然だったと思う。殺されて当然だったと思う。オレには生まれてくる資格も、生きる資格もなかった」
ピクリとファイの肩が動いた気がした。気のせいかもしれない。
父に首を絞められたのは6歳の誕生日だったと思う。
その日もイーワンは寝小便をして、食べ物を口からこぼした。6歳にもなってそれが自分の娘だということに父は耐えきれなくなったのだ。
すぐに部屋の安全装置がイーワンの呼吸が絶えそうになることを察知し、父は拘束されて隔離された。以来、イーワンは父の顔を見ていない。
拘束された父はしきりにイーワンに向かってある言葉を繰り返し叫んでいた。涙をボロボロと流しながら、獣の絶叫のようなそれはずっと
あの頃、分からなかった父の言葉は今のイーワンには分かる。
「お前なんて生まれて来なければよかった――父さんがオレの首を絞めながら言った言葉ははっきりと思い出したよ。オレも、そう思う」
「そんなッ!」
ファイが顔をあげてくれた。
また泣きそうな顔をしている。イーワンは泣き止んで欲しくて、痛みに耐えたのに。それでもいい。ファイが顔をあげてくれた。
それだけでイーワンは涙ではなく、笑顔を浮かべることができた。本当によかった。
ずっとずっと。
男が怖かった。イーワンはずっと怖かった。だから逃げたのだ。
逃げた先でも現実ではないこの世界でも男がずっと怖かった。だから女に寄り添った。そして『女好きのイーワン』が生まれた。
その大きな瞳にファイは涙をいっぱいに溜めて、イーワンを見上げる。
「そんなこと、言うな……! そんなこと、あるわけないだろう……!」
言葉を発した震えで、ファイの瞳から涙がこぼれた。また泣かせてしまった。泣き止んでほしいとイーワンは思っていたのに。
ファイの瞳が涙に揺れる。きれいだと、イーワンは思う。
赤銅色の大きな瞳が揺れるのはまるで宝石のようだった。
「いいんだ。いいんだよ。でもオレはさ、あの時、こう思ったんだ」
ゆっくりとイーワンはファイの頭を撫でる。ファイは小さく幼い。もちろん見た目だけの話だ。ドワーフのファイは、見た目よりもずっとずっと大人だけど、こうしてファイのくりくりとした赤毛の髪を撫でるとまるで小さかった頃の自分を撫でているようだった。
優しく、慈しむように。
酸欠で色彩を失った世界で、生への呪詛を泣き叫ぶ父を見ながら、安全装置の機械たちに囲まれながら、イーワンは確かに願ったのだ。
「オレは誰かに、助けて欲しかった。手を差し伸べて欲しかった」
それは叶わなかった。
叶わなかったからだからだろうか。
そういう在り方に憧れたのだ。
誰も手を差し伸べてくれなかった女の子に、優しく微笑んで手を差し伸べてくれる。
優しかった父のようなそんな男に
「だからさ。オレにファイちゃんを助けさせてくれないかな。絶対に諦めないから。手を離さないと誓うから。オレの手をとって欲しいんだ」
頭を撫でる手を止め、泣きじゃくるファイに手を差し伸ばす。
泣き過ぎて赤く腫れた目で差し出された手をファイはじっと睨み、そして根負けしたように小さくため息をついて、ファイは手を取った。
そして、イーワンは力を込めるとファイは立ち上がったのだ。
「はは、ファイちゃんは泣き虫だなぁ」
嬉しくて思わず笑みがこぼれた。下手くそで、支離滅裂で、ファイにはわけのわからない話だっただろうけど、確かに届いたのだ。
鼻をすすり、涙を手の甲で拭いながら、ファイが睨む。
「ちゃん付けすんな。それに、泣き虫はアンタもだろ」
「え?」
言われて初めて自分の頬が濡れていることにイーワンは気付いた。
なんだ。まったく耐えてなどいられてなかったのだ。
「お揃いだね」
「バカ。……でも、ありがとね」
涙をぬぐいながら、イーワンは答える。
どう答えればいいのかはもう知っている。
「どういたしまして」
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