◆アレクサンデル


 櫂を漕ぐ音が近づき、エリザベトのいる湖上の四阿あずまやに人が降りた。

「我が婚約者どのは今日もしとやかな深紫のドレスで」

 後ろから声がしたと思えば、エリザベトは冷たい手に首筋をがっつりと掴まれていた。

 エリザベトは澄ました顔を崩さずに、優雅に紅茶を口に運ぶ。

「華麗な中身が僕は見たいんだけどな」

 頭上からさかさまのアレクサンデルがエリザベトの瞳を覗きこむ。

 うなじを捕まえたまま、アレクサンデルはエリザベトの黄金の髪にくちづけをすべらせ、耳の付け根のあたりで深く息を吸った。

「アレク。犬みたいに鼻をこすりつけるのはやめて頂戴。仮にも聖王国の王がしていい仕草じゃないわ。みっともない」

 エリザベトは端然と紅茶を飲み干した。

「僕は君の肌の香りが好きなんだよ。毎晩それを思い出さないと眠れないんだから」

「気持ち悪いからそれもやめて頂戴」

「もうすぐやめられるよ。もうすぐ王妃となった君が僕の隣に毎晩寝ていてくれるようになるんだから」

 アレクサンデルはくるりと体を回転させてエリザベトから離れ、四阿の床に敷かれた東洋趣味の絨毯にじかに腰を落とした。どさりと背中からクッションの山に倒れこみ、投げだした長い脚を組む。

 頬杖をついてエリザベトを見つめてくるその顔は、聖王国の歴史が織りあげた知と美の結晶というべきものだ。

「しかしほんとに、いい加減その鬱陶しい紫色のドレスはやめたらどうだ? 見てるほうもさすがに飽きた」

 国王アレクサンデル・バルヒェットは、エリザベトと同じ高貴な紫の瞳をつまらなそうに翳らせて言った。

「アレクが悔い改めたらね。記念に脱いであげるわ」

「無理なこと言うなよ。王様は自分の足元に地獄へつづく道を敷き詰めるのが仕事だ。だから僕はエリスに早く王宮に移ってきてせめてかりそめの安らぎを与えてほしいと言ってる」

「結婚したらその日からここがあなたの地獄よ」

 アレクサンデルが笑い、瞳にかかる黄金の髪がさらりと流れた。前髪以外は僧房の修行者のごとく髪を短く刈りこんでいる。アレクサンデル王はそのため実年齢よりも若く――少年を飛び越して子供のように見えるときもある。だがその髪型はアレクサンデルの奇跡的な美貌を余すところなくさらし目立たせるものでもあった。そしてまた、ひとたび王座に座ると、僧侶や子供のおもかげはアレクサンデルから全く消えてしまうのだ。

 アレクサンデルには、生まれつきの王気があった。特に大勢の人間の前に立つときに、その王気はアレクサンデルから陽炎のように揺らめきたつ。

 若き絶対君主は圧倒的な魅力で聖王国を支配している。

「地獄史上、最強に可愛い獄卒だね」

 エリザベトの前では、彼は子供のように無邪気だ。

 瞳をなくして笑いながらアレクサンデルはエリザベトが齧るのと同じ菓子を手にとった。

 かりかりの黄金色に揚げた小麦の皮の中に干し葡萄と甘いクリームを包み、真っ赤な香辛料入りの砂糖をまぶした東洋国ブーリカの揚げ菓子は、エリザベトの好みだ。海を渡ってくるその香辛料は匙一杯分に貴石と同じ値段がつく。

「とにかく、エリスに渡しておかなきゃならないものがあったから、来てくれてよかったよ。再三再四呼び出しを無視された末だけど……」

 エリザベトは澄ましておかわりの紅茶を飲んだ。

 この前に王宮を訪れたのは七日前で、アレクサンデルからの呼び出しがかかったのは六日前からだ。

「用事はまとめてくれないかしら。わたくしも暇じゃないから」

「ソフィネのための復讐を準備するんで忙しい?」

 錐を突き立てるような鋭さでアレクサンデルが言った。

 エリザベトはティーカップから視線だけを持ちあげる。アレクサンデルの瞳は笑っている。

「そうよ」

「なあエリス、さっきも言ったけれど、いい加減ソフィネのことは忘れろよ。僕はもう忘れた」

 エリザベトは凍りついた紫の瞳でアレクサンデルを見つめた。

「……」

 忘れた――。

 きっとそれは、冗談などではない。

 冗談ならば、許せない。

 けれどエリザベトは、氷の瞳でアレクサンデルを睨みつづけることが出来なかった。

 クラナッハの断罪を主導していたのは王太子だったアレクサンデルで、ソフィネの処刑を判断したのもアレクサンデルだ。アレクサンデルがソフィネを殺した。アレクサンデルはかけがえのない幼馴染みをその手にかけた。

 忘れてしまわなければ気が狂う。

 アレクサンデルとて人間だ。幼い頃から彼を見てきたエリザベトはそれをちゃんと知っている。アレクサンデルは王である前に人間だ。エリザベトなんかより、よほど人間らしい人間だ……。

 彼は人を愛することが出来るのだから。

 エリザベトはソフィネを殺したアレクサンデルを冷たく憎んだ。

 けれどアレクサンデルは、彼を憎むエリザベトを昔と変わらずに愛しつづけている。

 無邪気な瞳の奥で、エリザベトを求める彼の心が今も痛々しいまでに震えているのがわかる。

 エリザベトはアレクサンデルのその瞳から目をそらした。

「お菓子は美味しいけれど、わたくしはさっきから寒くて震えているの。手短に用件を終わらせてくれないかしら」

 エリザベトは絨毯にじかに座ることが好きじゃないので、彼女のために用意されていた椅子に掛けている。四阿には冬山から吹きおりるような冷たい風がひゅうひゅうと通り、ドレスのすそを揺らした。

 まわりは王城の背にひろがる青い湖。王都を流れる運河から引かれた人工の湖である。

 海につながる運河の建設も、人工湖の献上も、クラナッハ家のかつての隆盛の象徴だ。

「湖に氷を運ばせて浮かべたのさ」

 アレクサンデルがぴょんと立ちあがりながら言った。

「氷を? こんな冬の日になぜわざわざそんなことを」

「まあおいでよ。氷上の冒険をしよう」

 アレクサンデルはエリザベトの手をむりやり引いて立たせ、係留してあった舟に乗せた。

 そのとき、異様に冷たいアレクサンデルの手にエリザベトは驚いた。

「アレク。あなたの手、うちの冷え性の侍女みたいね」

「氷で遊んでいたんだよ」

 自ら櫂をとり、アレクサンデルは湖の奥へ奥へと舟を進めた。

 金の縁取りをした小舟の舳先には東洋の龍が螺旋をえがく。艫にはシルクの天蓋が張られ、房のついた筒状の枕が並べられている。

 もやのただよう湖上を滑っていくと、前方からきらきらした何かが流れてきた。

 かなり大きさのあるそれにぶつからないように舳先をそらす。

 すれ違ったそれは氷だった。

 表面は平らで、まわりを三角形にきりとられた厚みのある氷――。

 やがてそれは数を増やし、舟をとりかこんだ。

「流氷だよ」

 自然のものではない。

 アレクサンデルが氷室から切り出した氷でわざわざ作らせたものだ。

「おいでよ。乗っても沈まないよ。浮力の仕掛けをしてあるからね」

 ひときわ大きな氷の舞台にアレクサンデルは身軽に飛びうつり、エリザベトに手をさしだす。

「そんな……滑るでしょう? 溶けて割れたら、凍死してしまうじゃない!」

「怖がるのかい? ソフィネだったら、いのいちばんに氷の女王を気取りたがっただろうね」

「……怖くはなくってよ。アレクが信用ならないんだわ」

「氷水に突き落とされて復讐されるかもしれないのは僕のほうだろ?」

「……それもそうね。わたくしに背中を向けないほうがいいわ」

 氷の上は、不思議な感覚がした。

 空を飛ぶ絨毯があればこんなふうに不安定だろう。空の雲の上はこんなふうにおっかなびっくりにしか歩けないだろう……。靴の底がときどきはりついて、エリザベトはそのつどアレクサンデルにしがみついた。

 よく響く氷上でアレクサンデルは口笛を吹きながら、氷の島から島へ、軽々と渡った。

 きょろきょろと足元を見回し、彼は何やら目印を見つけた。

「春に、赤スグリの実を埋めておいたんだ」

 アレクサンデルは氷漬けにされた赤スグリの房のそばにしゃがみ、短剣を抜いた。

「アレク、何をするの。氷を割るなんて、本当にわたくしたち、落ちるわよ」

 カンカンザクザクと刃の切っ先で氷面を削りはじめたその行動に、たまらずエリザベトは叫んだ。その拍子に大きなくしゃみをしてしまい、赤くなる。

「ほら、ご覧よ」

 切っ先が氷の中で何かをひっかける。

 アレクサンデルはさらに抉って、氷の中に埋まっていたそれをひっぱりだした。

 純銀の鎖の先に、光るもの。

 まばゆいばかりにきらきらと光る、透明な雫――。鋭くて痛いようなその光にエリザベトは瞳をほそめた。

「ダイヤ、モンド――?」

 雫型にカットされた特大のダイヤモンドだった。

 こまかな氷がついたままのそれを、アレクサンデルは喉元まで詰まった深紫の喪服の上から、エリザベトの胸に飾った。

「婚礼のダイヤ。代々の王妃が身につける正装用の首飾りだ。式の前に贈る決まりだ。花嫁の身を守ってくれる、清めの石だよ」

 首の後ろに両腕をまわしたまま、アレクサンデルは前髪のふれる距離で囁いた。

 エリザベト・バルヒェットと国王アレクサンデルの婚姻はすでに取り決められたものだった。

 正式な決定は五年前だったが、エリザベトの誕生時にはすでに約束されていた運命でもある。

 聖王国でバルヒェットの名は特別だ。王の血筋を表すその家名は、神聖にして犯すべからざる義務を持つ者の名だ。

 神に大地を託された建国の王の血を伝えること――。

 それこそが、バルヒェットの第一の義務である。

「エリスの胸にかかると、ダイヤモンドが柔らかそうに見えるね」

 世界で一番傷つきにくい鉱物よりも硬く閉じられたエリスの心に、アレクサンデルはそんな言葉で触れようとした。

「ダイヤモンドは好きよ。ソフィネが好きだった石だから」

「そうだった。かなあ……」

 三角形の流氷が風の流れにくるくるとまわる。

 エリザベトはとぼけるアレクサンデルの瞳を挑むように見つめた。

 忘れた――。

 それは冗談ではなくとも、嘘だ。

 氷上を踊る三角形にとりかこまれて、ふたりはしばらくそうして睨みあっていた。

 音のしない湖水上の氷の世界で、時間は凍りついたように静止していた。

「クッションも、枕も、お茶の支度も、いつも三人分あるくせに」


 何も忘れられてなどいない。

 何も変わってなどいない。

 ソフィネとアレクサンデルとエリザベトの三人がいて、ゲオルク・ブルーメンタールの影も形も見えなかったころだって、幸福の結晶したような永遠の子供時代はいつまでもつづかないと、三人は知っていたのだから。




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