パトロン

「遅かったじゃない」 


 部屋の真ん中で侍女を傅かせながら、アイターユは笑いもせずにそう言った。

 そこは乳灰色を基調とする地に色彩硝片タイルで多弁の花模様が装飾された壁の上を、彩色豊かな緞子の壁掛けが流れる豪奢な部屋だった。

 夏を迎えて毛足の短い絨毯も、並べられた調度品も、そのどれもが己の価値を主張しすぎないよう品のある趣でまとめられて、主人の洒脱な感性を示している。

 とすれば響いた声調は、この部屋の主人には相応しいものではないかもしれない。


 少女と呼べる頃合いを幾らか越した程度の、まだ若い女である。

 褐色の肌は若さ特有の艶と張りを保ちながら、幼さによる固さが取れ、柔らかな女のものへ変わりつつあった。

 か細い、と言える身体に、腿を半ばまで隠す丈の貫頭衣型の衣服をまとい、腰の辺りで薄絹の帯と華奢な金鎖とを締めている。

 銀糸刺繍の入った薄い青地の脚衣には襞を作るほどにたっぷりと布を使い、腰から下の線を人の目から隠していた。

 頭の上から纏うように緩く被った透かし編織りの布には、抽象化された蔦葉文様が編み込まれている。

 被り布から透け漏れる豊かな髪はどのように手を加えたものか柔らかな金灰色をしており、その燻んだ風合いは青み勝ちな紫の瞳と相俟って、女の雰囲気を物静かなものにしていた。


 が、そうした印象を裏切るかの如く、アイターユの態度は固く、その振る舞いにはいっそ傲慢ささえ感じられる。長い睫毛に縁取られておっとりとした人柄さえ表すような丸い眼には、似合わぬ剣呑な色さえ含んでいた。

 可憐な見た目に明らかな棘を誇示して、一言で評するならば、豪猪のような女である。


 無愛想に迎えられて、ファサームも同じく無表情で受け止めた。

 こちらは決闘の汚れを落として、束編みに編んだ黒髪に角錐帽を乗せ、詰襟の内着に重ね親子縞の長丈胴着と、ざっかけない普段着である。

 決闘を終えて彼は、事後の挨拶と手続のためにと、依頼人であるアイターユの住まう邸宅へと呼び出されていた。

 

 錦布が掛けられた凭れ布団にしどけなく身体を預けて、この部屋の女主人が仮面のように表情を固めたままなのは、常の景色である。

 今日もどうやらご立腹らしいと見当はつけたものの、こちらは立たされたままのファサームは、相手の機嫌を窺おうとさえしなかった。


「今日もまた、殺したのね」


 責めているのか、褒めているのか。

 貶しているのか。讃しているのか。

 詰っているのか、誇っているのか。


 声色に込められた感情は定かでないながらも、確かに女は、そう言って寄越した。

 自らファサームを決闘の代理人として選びながら、そのような言葉をかける彼女の真意を、ファサームは知らない。


 知りたくなど、ない。


 そうした底意が透けて見えでもするのだろうか。アイターユは紫色の瞳の目尻を吊り上げ、柳眉を逆立ててと、今度ははっきりと怒りの表情を浮かべた。

 が、ファサームはそれでも頑然とこれを無視して、応えようともしなかったのだ。


 ここ、ハン・バックノスは〈虎〉氏族長バシル=バックノスたるバックノス・ドゥネウス・ドルキが優先統治権を有する街である。

 バックノス・ドルキア・アイターユはその名が示す通り、氏族長の娘であった。


 つまり有体に言ってアイターユは、やんごとなき姫君なのである。

 それもただの高貴なる身分のお方というだけでなく、この街の統治者、さらにはこの島を共同して治める十二の氏族長が一人の娘なのである。賤しき身分に過ぎない決闘士風情が、怒らせるままにしておいて良い相手ではなかった。


 いや、そうでなくともアイターユはこの度の決闘の申立人であり、つまりはファサームにとっては雇主である。

 それどころか頻々と決闘申立てをするたびに専属のようにして抱え、ファサームと彼が所属する組合の最大のパトロンでさえあった。

 それらを踏まえれば、ファサームの態度は不敬を通り越してもはや剛毅とさえ評せよう。


 方や、憤懣の色も露わな高貴な姫君。

 方や、黙りを決め込む歴戦の決闘士。


 それぞれが場の空気を支配することにかけては、第一級の巧者である。それが揃って対立の予感を隠そうともしないのだから、部屋の緊張感は凄烈を極めた。


 居合わせた侍女にはとっては、真に気の毒な話である。


 その空気を破ったのは、アイターユであった。おかけなさいな。

 鼻から息を抜き、左手を払って、着座を勧めるにはあまりにぞんざいな仕草、という以上に令嬢にあるまじき礼を失した振る舞いではあったが、これ幸いと飛びついて、侍女は即座に座布を引いた。


 ファサームは勧められるままに腰を下ろす。


 そんな彼の様子など気にも留めない貌をして、アイターユは傍の銀盆に盛られたバーツルの実を囓った。赤黄色に熟して親指ほどの大きさに育った楕円球の実は、とろりとした食感で甘みが強い。

 干せば保存のきくバーツルは、旅路の保存食としても重宝された。


「早くお上がりなさい」

「頂戴します」


 食事の誘い、と呼ぶにはあまりに素っ気のない感があったが、とまれ、アイターユはファサームにバーツルを勧め、ファサームはそれを受けた。

 侍女が動き、アイターユとファサームへ陶製の杯を供し、水を注ぐ。


 旅路への必需品であるバーツルと真ッ新な水杯の交わしは、非常に簡易ではあるが、離縁の作法であった。


 そもそも決闘の代理人となるためには、申立人の縁者である必要がある。全き他人が戦っても、そこには大御霊の御意志は顕れない。それが建前だ。

 それゆえに決闘士は、決闘の直前に申立人と縁組を行う必要がある。

 

 ここに、決闘士という身分の特異性があった。


 この地における氏族の結びつきは、非常に強い。

 〈天の氏族〉と呼ばれる、空を舞う鳥を象徴とする六つの氏族と、〈地の氏族〉と呼ばれる、地を駆ける獣を象徴とする六つの氏族とが、それぞれに六つの門族を有して、十二氏族七十二門の血族のどれかに属しているのが、この地の民のあり方である。

 そして同氏族、同門族同士は財産的にも生活保障的にも、扶助し合うのだ。隣に住む他氏族よりも、顔を合わせたことのない同氏族との結びつきが重要視されるほど、その結びつきは強い。


 まさしく「水を同じうしてもなお、血より濃きものは無し」と言われる通りである。


 だから、別の氏族や門族への縁付きは本来、容易なことではない。互いの承諾を得ない族間縁付きは場合により、血を裏切る行為として族間対立にまで発展する可能性すらあるのだ。


 だが、どのような制度にも抜け道はある。

 そのように強い血の結びつきにも、綻びはある。


 故あって氏族や門族の庇護を得ることができなくなった者や、集落の全滅などによって自身が所属していた氏族の証を立てることができなくなった者などのように、枠組から外れてしまう者はどうしても現われてくる。


 そうした者たちも運が良ければ、新たな氏を手に入れることができるかもしれない。

 だが、そもそもの氏族を失うからにはそれだけの理由があり、多くの場合はなんの後楯も扶助者も、それどころか身元を保証する者さえいない〈失氏者〉として、生活することを余儀なくされるのである。

 彼らはやがて、都市に吹き溜まり、身元明らかな者たちが手をつけたがらない職能を負うことになる。


 決闘士という身分も、まさしくそういった職能の一つだった。


 どの氏族にも属していないから、自由に縁組みできる。仮に決闘で命を失ったとしても、その出自故に族間対立を気にする必要もない。なぜなら彼らは〈失氏者〉たちなのだから。決闘が終わればすぐさまにでも離縁して、後腐れがない。

 〈天の氏族〉にも〈地の氏族〉にも縁付きしながら、決してそのどちらにも属することのない存在。


 故に彼らは〈蝙蝠〉と呼ばれる。


「この度の決闘、ご苦労様でした」


 ファサームがバーツルの身を囓り、水杯を乾かしたことを確認すると、アイターユは初めて、労いの言葉をかけた。

 無論、形ばかりのものであることは、気の無い様子で遊ばせた毛先を弄んでいることからも明らかだ。棘のある声色と口調で、彼女はさらに言葉を重ねる。


「わたくしの名誉のために戦い、見事わたくしの敵を打ち倒して帰ってらしたこと、本当に嬉しいわ」

「この度は御身の名誉を回復なされましたこと、切にお喜び申し上げます」


 両手を拳の形に握り、座る形に組まれた左右の膝の前へつけて頭を下げた。態度に思うところがあるのは毎度のことだが、それでも彼女は依頼人である。

 しかも、群を抜いた貴種なのだ。

 決闘士の身分を考えれば本来、私室に招き入れられて直接面しながら、縁組みだ離縁だなどと、作法をきちんと行う方が不自然なのである。

 どんな心算で「好待遇」を与えられているのか定かではないながら、そのことについてはきちんと礼を述べるべきだし、追従の一つも言葉にするべきであろう。


 本当のところを言えば、ファサームはアイターユとはあまり関わり合いを持ちたくなかった。

 何しろ、決闘の回数が多すぎる。

 いずれファサームは〈女虎〉に食い殺されてしまうぞと、決闘士たちの間で軽口を叩かれるほどである。 


 とは言え、そこは仕事であった。


 アイターユはどれだけ不満そうな表情をしていても、支払いに間違いはない。

 間違いはないどころか常に過分に色をつけて払うあたりは、さすがは名門〈虎〉氏族の氏族長の係累なだけはある。

 ファサームが所属している組合にとっては太筋の客であり、組合長からは見切りをつけられない程度にはしっかりと顔を繋いでおけと厳命されているのだ。


 今は一級決闘士の称号を得て決闘にもやんやの喝采を浴びているが、この世界は何がきっかけで凋落するか判らない。

 決闘に勝ち、命を繋いだとしても、不名誉を重ねるような戦いぶりで世間の不評を買えば、決闘依頼の声がかかることも無くなり、あっという間に干上がってしまう。

 そうなって収入が途絶えてしまえば組合費も払えなくなり、そもそも頼るあてなどない〈蝙蝠〉たちには、まともな活計の路は残されていなかった。

 だから、どんなことを切り出されても、それに応える他はない。


 そして、そのことをアイターユもよく解っていた。ねぇ。


「ところでわたくし、貴方にお願いしたいことがあるわ」


 ファサームが並べ立てる世辞を遮って、アイターユはこちらへ視線を向けた。

 今度は珍しく、目に喜色が浮かんでいる。まさかこちらの下手な追従で機嫌を良くしたわけでもあるまいに、声色も弾んでいた。

 ころころと機嫌が変わることは貴人には珍しくないことだが、それに振り回されるのは常に周囲だと相場が決まっている。

 これは良く無いことが起こるぞと、ファサームは誰でも思いつくような予感に背筋をとさせながら、顔を上げた。


「あなたはこれまでも、わたくしのお願いを聞いてくれたわ。だからきっと、このたびのわたくしのも、聞いてくださるわよねぇ」


 軽やかであるのに妙に婀娜やかな、そんな声色を使いながら、アイターユは小首を傾げてにっこりとする。それでいてこちらを見竦めるかの如く、すくうような紫の瞳には獲物を眼前にした肉食獣の光が宿っていた。


 僕は別に、これまでも自ら進んで平伏した上で、お願いを聞いていたわけではないんだが。


 対してファサームも胸中で毒づくが、まさかそんな本音をちらとでも覗かせるわけには行かなかった。


 アイターユは「お願い」などと言うが、要するにこれは命令である。

 ファサームは〈虎〉氏族ではないし、決闘の依頼などでもない限りは、いかにアイターユの命令であろうと聞く義務などない。


 ないのだが、ここで断ってしまえば最大のパトロンの意向を損ねたとして組合長の怒りを買い、最悪の場合は組合にいられなくなる可能性すらある。


 とかく生きていくということは、しがらみが多いものだ。


「いかようにも」


 先ほどまでの調子で世辞追従を重ねようかとも考えたが、今更である。

 そんなことをして白々しさと皮肉さとが声に混じらないとも限らないので、なるべく素っ気なく、異のないことを伝えた。


 それを聞いたアイターユの朱唇が弧を描く。少なくとも見た目の上では非常に珍しく機嫌の良い心持ちとなったようだ。

 右肩上がりで止まるところを知らないアイターユの機嫌に追随するように、ファサームの不安と疑念も膨れ上がっていく。


 一体、何を申し付けられるのだろうか。様々な考えが頭を過るが、一向にまとまらない。


 なにせ心当たりが全くないのだ。アイターユが常ならぬ上機嫌であることが、自分が窮地に追い込まれている証左でさえ、あるように思える。

 心労のあまり、目尻がぴくぴくと痙攣を始めた。それを抑えようと、奥歯を噛みしめる。


 なんでもいい。早く「お願い」とやらを明らかにしてくれ。

 心中で祈りまで捧げ始める始末だった。


 そんなファサームの様子を嬲るようにじっくりと観察した挙句に、アイターユは次のように告げたのだった。



「ファサーム。貴方、子供を一人、引き取りなさいな」

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