第一幕

〈蝙蝠〉のファサーム

孤児(みなしご)

「今日も厄介になりに来たよ」


 ファサームはそう声をかけながら、入り口に掛けられている布戸を潜った。

 すらりと均整の取れた体躯が滑るように動いて、その端々を持ち余らせるような鈍重さが感じられないせいであろうか。ずいぶんと上背があるが、ファサームは不思議と巨漢という印象を与えない男だった。


 お、いらっしゃいましたねファサームの旦那と、立ち上がって受けたのは、刃物を手にして、分厚い革で出来た大きな濃藍の前掛けをした初老の男であった。

 彼はここ、ハン・バックノスでも評判の研ぎ師である。頑固そうな表情を破顔させて、愛想よく出迎えてくれた。


「昨日も「お仕事」があったと聞いとりましたけど、お見えにならなかったんで気を揉んでいたんでさァ」

「ちょいと事情があってね。僕としても、昨日のうちに持ち込みたかったんだが」


 硬質な声色に加えて、やや立派に過ぎる鷲鼻と白眼勝ちの薮睨み、止めに愛嬌に欠ける薄い唇と尖った顎が酷薄な印象を作っているが、応える研ぎ師には、臆する様子が見られない。

 なればこれが素の表情なのであろうが、長身と相俟って、ファサームは威圧的な心象を与えかねない悪相の若者であった。


「今回も頼む。多分、そんなにひどいことにはなっていないはずだ」


 そう言ってファサームは、腰にいていた得物を鞘ごと外して、研ぎ師に手渡す。

 これを受け取って研ぎ師は、慣れた手付きですらりと抜いた。


「歪みや曲がりは、ねぇようですね」


 抜いた白刃は細直剣と呼ばれる、諸刃で細造りの剣だった。

 大人の拳で十握りほどの長さの剣身がやや厚身に造られ、剣尖は刺突に適するよう、薄く鋭くなっている。


 研ぎ師は剣身を燈火に翳し、親指の爪を軽く刃に滑らせて、更に状態を検める。すがめたり唸ったりと忙しいようだが、彼はその妥協のない仕事振りで評判を上げているのである。 


「刃の潰れや剣尖の欠けはねぇようですから、血脂を取って磨くだけで良ござんしょう」


 じっくりと検分してと笑い、研ぎ師はそう請負った。


「それは助かる。ではいつも通り頼むよ」

「へぇ。んじゃ、預からせてもらいまさ。そんで、こっちが前に預からせていただいていた剣で」


 研ぎ師は受け取った細直剣を鞘に納め、預かり証代わりの木札を掛けて壁の金具に掛けると、代わりに同じように壁に掛けてあった細直剣を外して、ファサームに引渡す。


「お代もいつも通り、アシャード組合へ回せばよろしいんですね」

「あぁ、頼むよ」


 そう言ってファサームは、受取った細直剣を佩き直す。その素振りにはどこか、急いでいる風があった。


「あれ、旦那。お急ぎですかい」


 研ぎ師は特に他意なく、そう尋ねる。

 常のファサームは、得物を渡して受取って、それでははい、さようならと、そこまで素ッ気のない振舞いをする男ではない。特に愛想の良い客ではないが、世間話の一つや二つも捻らないほど、朴念仁な御仁でもなかったはずだ。


 研ぎ師の問いかけに、うんと答えてファサームは、笑うでなく、困るでなく、不思議な表情を浮かべた。


「実はね、店の前に人を待たせているんだ」

「おや、そうでしたかい。いや、それならお連れ様にもお入りいただけばよかったのに、旦那も人が悪ぃや。確かに俺ぁ、冷やかしだきゃお断りだけども、お連れまでおん出てくれやと、そこまで偏屈な野郎でもねぇつもりでさ」


 ざっかけのない職人風な言い回しになった研ぎ師に、それでもファサームは首を横に振った。


「実は連れは、ほんの子供でね。ちょいと刃物は怖がるかもしれないんだ」 

「あぁ、そらいけねぇや。じゃあ、お早くお迎えに上がってくだせェ。日は長くなってるとは言っても、もう暮れどきでやすしね」


 頑固な職人の割に人好きのする笑顔を浮かべる研ぎ師に別れを告げて、ファサームは再び、布戸を潜った。

 日が暮れ始めた通りを、家路につく人々が行き交っていた。今日の商売はこれが最後と、天秤棒を担いだ振売が声を張って売り歩き、路地から出てきた女に呼び止められている。


「待たせたな」


 自分の腰ほどの高さにある頭に、そう声をかける。俯いて何を考えていたものか、急にかけられた声に驚いた様子で、少女がこちらを見上げてきた。

 首を横に振る仕草に、簡素な耳飾りがちりちりと音を立てる。


 大きめの藍の瞳といい、やや丸い鼻といい、丸みを帯びた頬の輪郭といい、愛嬌のある顔立ちをしているはずだが、今はそうした印象を打ち消すほど消沈した顔色をしている。

 七歳という年の割には小柄な身体と袖からは覗く痩せた手の甲が、少女のを強調していた。


「そうか。それでは、飯にしよう。なにか食いたいものはあるか」


 ひとまずは何か話してもらおうと、ファサームはそう尋ねた。

 自分一人であれば適当な飯屋にでも入って済ませるのだが、今日からは子連れである。せめて初日くらいは、食べたいものを食べさせてやろうと考えていた。


 少女の身の上は、実は詳しく知らない。

 なにせ、先ほど引き合わされたばかりなのである。ワシリッサと名乗る少女は、どうも《狗猫》氏族の縁者であるらしいが、それ以上のことは定かではない。


 ただ、庶民としての生活を送っていたことは、身形や振舞いからも間違いはない。

 洗い晒して元の色さえ判らなくなったような被り物や、裾や袖に何度も継ぎを当てた貫頭衣は、高貴なお方がお忍びでと用意するには、念に入りすぎていた。

 頬も、水蜜桃のようなと言うわけにはいかずにやや垢じみているところを見るに、貧民と言うほどではなくとも、その日暮らしの小商をするような親元で生活していたのだろうと予測できる。


 もっとも、その顔が煤けて頬が色を失っているのは、両親との死別という、幼子には重すぎる不幸が未だに彼女を苛んでいるからに違いなかった。


 孤児となった子供を預かるには、きちんと食べさせねばならぬ。

 人の親になるどころか、所帯を持ったことさえないファサームだが、預かった子を飢えさせてはならぬということくらいは解っている。


「ここからなら、屋台街区も近い。そこならいろいろな食い物もある。そこに行ってみるか」


 広場にずらりと軒を並べて、選り取り見取りの屋台街区であればあるいは、ワシリッサの気にいる食事もあるかもしれない。


「屋台……」


 しかしファサームの言葉を茫洋と繰り返すだけで、どうにもワシリッサとの会話はうまく進まない。


 引き合わされた時の感じでは、頭にが入っているようではなかったが、これは一体、どうしたものだろうな。


 ファサームが途方に暮れかけて、思わず渋面を作りそうになったその時だった。

 あの。その、と、意を決した様子でワシリッサが口を開く。


「あが、あがが屋台でご飯食べよってもえのかどうか、判らへんくて……おんは屋台で買食いしちゃある女に、ロクなモンはりやんっていよってたやしょー……」


 どうやらワシリッサは、屋台で食事をすることが、周りからどう見られるのかを心配したようだった。


 日頃の女付き合いなど皆無に等しいファサームは失念していたが、女性が屋台で買食いというのは、はしたないことだとされている。この街の娘たちには、そうした慣習を気にも止めずに屋台を食べ歩いたりする者もいるが、まだまだ幼いワシリッサにとっては、親の言い付けが絶対であろう。


 特に、亡くなった親の言うことであればなおさら、な。


 ファサームにもワシリッサのそんな心情は理解できるので、屋台街区に行くことは止めにした。代わりにどこへ行きたいかと問うと、ワシリッサは「ファサーム様が行きやるところへ、連れもて行こらー」と言う。


 おそらく、ファサームが普段行っているところへ一緒に行こうと、そう言ったのだろう。そう理解してファサームは、ワシリッサを伴って近場の飯屋に入る。


 革長靴を脱いで小上がりに上がって、壁の端に避けてある座布を取ってきて引いた。この店の座布は中の綿がへたっておらずに、しっかりと尻を受け止めてくれる。大衆的な店ながら備品をきちんとしたもので揃え、なかなかに堅実な商いをする店であった。

 薄桃色の前掛けをした店員が布膳を持ってくるので、それを広げて食卓の準備をする。


 そうして座ればまず、湯飲みに茶が注がれるのはこの地域の風習である。茶は店だけではなく、貴賎を問わず、人々の日常に欠かせない飲み物であった。

 店員に、今日用意できるものを適当に数人分、持ってきてくれと注文をすると、店員は愛想よく承って厨房へと戻る。 


 しばらくして布膳の上には、平パンティパーチャに、山と盛られた詰物揚パンブーザック、鶏や羊、そしてパヌーリの串焼きが三皿、それから小鍋一つの汁物に、さらには米料理ファリプの大皿まで並べられた。


 それらを前にして、ワシリッサは目を丸くしている。それも無理はないだろう。ファサームとて普段からこれだけの量を頼むはずもなく、もちろん、同居初日の奮発である。


「さぁ、食べよう。好きなだけ食べてくれ」

「ご飯がこんなに並びよるの見ちゃあるの、あが、初めて」 


 ようやく子供らしい無邪気さを覗かせて、ワシリッサはパヌーリの串焼きを取る。 

 パヌーリは、羊や牛の乳から作られる。乳に柑橘の汁を加えるとソェナと呼ばれるとした塊になるが、これに重石をかけて水気をよく切ったものが、パヌーリと呼ばれる食べ物となる。

 この辺りでは身分を問わず、幅広く食されている常菜だ。

 それを子供の拳程の大きさに切り分けて、香辛料を合わせたタレに漬け込み、串に刺して焼くのである。


 なぜだか何度も頷きながらパヌーリに齧り付くワシリッサを見ながら、ファサームは、まだ湯気を立てているブーザックに手をつけた。


 ブーザックは小麦粉を塩と水で練って薄く伸ばした生地で、茹で潰した芋や豆等を包んで揚げたものである。挽いた肉が入ることもあるが、今日のものは芋のブーザックのようだ。

 こちらには果実や野菜、そして香草を擦り混ぜた上で火を入れて作るソースをつけて食べる。

 サクリとした歯触りの生地の中はまだかなり熱かった。見ればワシリッサも、ちらちら視線を動かしながら、ブーザックが気になっているようである。


「遠慮はするな。ただ、熱いから火傷をしないようにな。あと、ファリプも食べるといい」


 木の長匙でワシリッサの皿にファリプをよそってやる。

 ファリプは慶事には欠かせない食べ物で、羊肉や魚介、根菜類やキノコ類、時には干した果実が入る場合もある。

 それらを大量の油で炒めたところに水を加え、煮立ててスープにする。

 暫く煮立てたら最後に米を加えて蓋をし、水気が飛ぶまで炊き上げて完成だ。


 家庭で作る際には身分の上下の別なく、この料理だけは男が作るものである。

無論のこと、取り分けも男の領分だ。


「ファサーム様、ありがとー」

「様は要らない。僕もワシリッサと呼ぶから」


 皿を受け取って礼を言うワシリッサの呼び方に訂正を入れると、困った表情で小首を傾げる。

 ワシリッサは幾度か口内でと呟いてから、改めて礼を言い直した。


「……ファサームさん、ありがとー」


 どうやらその辺りが、彼女の妥協点のようである。そんな彼女に頷きを返して、今度は紅果菜ターモトのスープをよそった椀を渡してやった。


 ターモトは水気たっぷりな果肉が特徴の野菜である。

 生で食べても美味しいが、刻んで水と一緒に煮てやると、爽やかな酸味が食欲を唆る汁物ができるのだ。

 この汁物にはさらに刻んだ芋と丸葱、それに燻製にした羊肉が一緒に煮られており、良い出汁が出ている。


 ティパーチャを千切って、汁物に浸して齧る。

 発酵させずに捏ねて延べして焼くティパーチャは、それ自体はそこまで味わい深いものではない。だからこうして汁物に浸したり、煮込みを掬ったり、あるいは乳脂やブーザックに添えるようなソースを助けて食べるのが一般的であった。


 しかし、大量の料理である。

 しかもワシリッサはどうにも色が細い性質たちのようで、既に手は止まりがちである。残しては申し訳ないとでも思うのか、視線をうろうろと彷徨わせては湯呑を口にして、少しでも量を食べようとしている。

 あぁ、そんなに心配しなくてもいい。そう、ファサームが声をかけた時だった。


「あれ、ファサームじゃねーか」


 新たに小上がりに上がり込んできた二人連れが、こちらに気がついて声をかけてくる。

 声色だけで軽薄そうな雰囲気が伝わる男と、溌剌とした眼が印象的な少年であった。


「来ると思っていたよ、ラフィク、サリム。まぁいいから、一緒に食っていってくれ」


 二人はファサームと同じ組合に所属する馴染みの間柄だった。ファサームは明言として認めようとしないが、比較的親しくして、友人と評しても過言ではない。

 彼らも普段からこの飯屋はよく利用しているので、ファサームは彼らの来店を当て込んで、多量の注文をしたのである。


「なんだなんだぁ。見慣れない子供まで連れて、しかもなんだよこの量の飯は。何かの祝いかよ」

「うわぁ、いいんですか。ありがとうございます」


 勧められるままに押し掛けて、二人とも遠慮する気配は微塵もなかった。

 少年がさっと羊肉の串焼きに手を伸ばせば、青年の方はおおい姉さん、こっちに酒を一壺、持ってきてくれいと、腰を据えて呑む心算でもあるようだった。


 突如現れた二人に、ワシリッサはやや警戒して身を引き、ファサームと二人との間を交互に目配せする。


「……ファサームさん?」 

「心配ない。二人は僕の知人だ」


 特に笑いもせずにファサームはそう請負ったが、今日初めて会った大人のそんな素ッ気のない言葉で安心できるほど、子供は単純ではない。ワシリッサは困ったように眉を寄せた。


「おい、ファサーム。その子、困ってんぞ。ちゃんと俺らのことを紹介してやれよ」


 手にした杯にファサームが注ぐ酒を受けながら、青年がそんなワシリッサの様子を目敏く察して助け舟を出してくる。

 浮ついた声色も、頭に適当に巻いた巻布の様子も、着崩した格子紋の長丈胴着も、そのどれもが軽薄そうな印象を醸し出しているが、気の利かない男ではないらしい。


 指摘されてファサームは「君らを紹介する必要は感じないが」と言いながらも、酒壺を置いて口を開く。


「こっちのへらへらとした男前が、ラフィクだ。今はうちの組合で事務方を勤めている」

「どうも、へらへらとした男前です」 


 杯を持っていない方の手をひらひらと振って青年、ラフィクが応じる。

 自分で言うだけあって確かに端正な顔立ちをしているが、その分、軽薄な振舞いが不誠実そうな印象に拍車をかけている。


「そしてこっちがサリムだ。こいつはまだ、見習いだな」

「サリムです。見習いです。そのうち、先輩のように立派な決闘士になります」


 片手にブーザック、片手に汁物の椀と、食い気を全開にして少年、サリムが挨拶をする。

 こちらは箱帽に渋茶の胴着と、ラフィクに比べて相当に地味な格好ではあるが、しっかりとした体つきをしていることが服の上からでも良く判る。


 そんな二人の興味深そうな視線を集めて、ファサームは緊張したように袖を握りながら、それでもきちんと挨拶をする。


「あ、あがは〈狗猫〉氏族、イズーリ一門、カルーリア・アマンニの娘、ワシリッサいます」


 途端。


「おい、ファサーム。お前、〈氏族持ち〉の子供なんか連れて、何やってんだよ」

「え、ファサームさん? これ、あれですか? 面倒ごとですか? 拐かしとかじゃないですよね」 


 ラフィクとサリムが二人、ファサームに詰め寄る。

 そんな二人をファサームは、その三白眼をぎろりとさせて睨みつける。自分が睨まれたわけではないにもかかわらず、ワシリッサがと身を竦ませるほどの凶相だった。


「人聞きの悪いことを、こんな人前で言わないでくれ。これには事情があるんだ」


 低い声でそう前置きすると、ファサームは昨日からの「事情」を話し始めた。

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