九回裏
「体調は大丈夫?」
ベンチを出しなに優が訊くと、梓は笑顔で肯いた。無理をしている様子は伺えない。
「痛みはだいぶ引いて来たから。もう問題なく、投げられると思う」
「ようやくね」
「うん。……六回裏の頭から使ってたら、もっと楽に勝てたかな。こんな痛い思いせずに済んだかもしれないし」
「たらればは禁句でしょ」
優は笑ってたしなめると、所定の位置についた。
男子野球部の攻撃は、トップバッターの橋本から。ここまで無安打で終わっているせいか、敗北が迫る危機感ゆえか、顔が強張っている。まだだらけている相手ベンチの様子を見るに、前者の可能性の方が高そうだが。
――まさか俺が橋本や白石の最後の夏を終わらせるなんてな。
一瞬感慨に耽りそうになった、そんな自分を戒める。女子野球部員の排除という形で、先に喧嘩を売ってきたのは男子なのだ。
それに、梓の切り札が効果を発揮しなかったら、この勝負はまだどう転がるかわかったものではない。
――頼むよ、梓。
そしてマウンドに立つ梓は、左手に嵌めていた特注のグラブを、右手に嵌め直した。
「両手投げ? そんなことまでできるのか、あのピッチャー」
呆気に取られた男子野球部ベンチの中で、寡黙な長谷川がまず口を開いた。
マウンド上、左手でボールをしばし弄んでいたピッチャーは、おもむろに振りかぶるとアンダースローで第一球を投げ込む。右のアンダースローとまるで変わらない、スピードはないが制球力抜群のボールが外角一杯に決まった。
白石は、歯軋りする思いでそのボールを見つめていた。
――これがあいつらの切り札か。
九回裏が始まる時、守備位置に散って行く相手チームの顔が妙に明るかったのを、白石は不審に感じていた。いくら再々逆転したとは言え、点差はわずか一点、こちらの打順は上位。とても楽観視できる状況ではなかったはずなのに。
その答えが、眼前にあった。
右ピッチャーの投げる球と左ピッチャーの投げる球はまったく違う。どんなチームでもなるべくピッチャーは左腕と右腕の双方を準備するし、プロのチームではリリーフを起用しづらくするために打線を左バッターと右バッターでジグザグに配置することが多い。
特に左バッターは左ピッチャーに弱いとされていた。
二球目の高めに浮き上がるボールを橋本は空振りする。左の下手投げなどそうそういるものではない。橋本にしてもいきなり出くわしたそんなピッチャーに対策の立てようはないだろう。
それでも三球目を橋本は打ちに行った。力ないポップフライではあるが、レフトとショートとサードの中間点に落ちそうな面白い打球だ。
しかし、果敢に走って来たショートが滑り込み、グラブに掬い上げて捕球した。
周りの選手に声をかけられ、軽く笑みを浮かべている。何が気に食わないのか初回から不機嫌そうな顔をしていたショートだが、さっきの逆転タイムリー三塁打で気分一新できたらしい。
二番の三輪が打席に入り、三番の白石はネクストバッターズサークルに向かう。
背後のベンチから堀内や渡辺の声が聞こえてくる。
「これ……負けたら、俺ら、夏の大会に出られないんだよな……」
「じょ、冗談だろ。これ、壮行試合みたいなものだよな、な?!」
――見苦しいことを言わないでくれ。
今になってうろたえている渡辺自身、音頭を取って校内代表決定試合を望んだ張本人の一人なのに。
その時、三輪が初球の外角球を見送ってストライクとなった。
「三輪! 塁に出なかったら承知しねえからな!」
「当たってでも出ろよ! さっきの女みたいに!!」
――ひどいチームだ。
白石は、心のどこかが急激に冷えていくのを感じた。自分が主将として率いるこのチームに、まるで愛着を抱けなかった。
――去年の山本先輩のチームは、こんな風じゃなかったのに。
個々人の技量は今年ほどではない。けれどチームワークははるかに良かった。
だから今年、自分が率いるチームは、技術を向上させようと思った。技術の上乗せさえあれば、去年先輩が涙を呑んだ相手である大西義塾にだって、きっと勝てると信じた。
白石の方針にいい顔をしなかった前任の吉野監督は、白石にある意味で都合良く、急病で倒れた。さらに白石に都合良く、似た考えの持ち主である真田が後任の監督の座に収まった。
ところが、個々人の技術が伸びるのと反比例するように、チームの結束はばらばらなものになってしまった。
それでも、勝てばいいと思い込むことにした。甲子園で優勝すれば、すべてを帳消しにできると考えることにした。
なのに今、こんなところで自分の高校三年の夏は終わろうとしている。公式戦ですらない、校内の内輪揉めのような試合によって。
二球目、ピッチャーの球はすっと沈み込んだ。左下手のシンカー、その名をスクリューボールと呼ぶ。三輪は捉えきれずに空振り。ツーストライク。
――本当に、大したピッチャーだ。
球種の多さが何らピッチングの妨げになっていない。例えばカーブの後にスライダー、スライダーの後にシュートなど、立て続けに違う種類の変化球を投げていくと、指先の感覚が狂って失投してしまうものである。プロでも珍しくない話だ。それなのにこの小柄な投手は、テレビのチャンネルを変えるよりも簡単に、正確に、自分の球種を切り替えてしまえる。
三輪はそこから二球ファウルを続けたが、最後は再度のスクリューボールによって三振に倒れた。ツーアウト。
引き上げて来る三輪が、すれ違いざま話しかけてきた。
「俺たち厄介な相手に喧嘩売っちゃいましたね」
「……まだ終わったわけじゃない。スクリューだろうが何だろうが、打つ」
半ば自分に言い聞かせるように宣言して、白石は打席に入った。
――ある意味、俺を反面教師にしちゃったのかな……。
左打席に立つ白石を見上げながら、優は思った。
猛だった時の自分も、前の吉野監督も、重んじたのはチームの和だった。勝ちたいのは山々だが、四千校以上が参加する大会で頂点を極められるのはたった一校。その座に辿り着けない可能性の方がはるかに高く、またそれは決して恥ずかしいことではない。
だから自分は結果よりも過程を大事にしたのだけれど、その結果の甲子園決勝戦での敗北は、去年二年生だった白石に別のメッセージを与えてしまったのかもしれない。
――でも、勝つのは俺たちだ。
優は立ち上がり、梓に声をかけた。
「梓! 本気出して行こう!」
梓がこくんと肯き、投球動作に入る。
今度も左で投げるが、これまでのアンダースローとは違う。
左足を軸にして、大きく大きく上半身をひねる。お尻や背中を完全にこちらに向け、むしろ左肩が突き出そうな勢い。
軽く腰掛けるように左足を曲げた次の瞬間には、全身がバネのごとく一気に弾ける!
オーバースローのフォームから、ボールが放たれた。
――トルネード!
その特徴的なフォームは、もちろん白石の知るところだ。大きな溜めを作って球速や球威を増す投法。
しかしそれは、体格に恵まれた速球派の投手がやるから意味があるのだ。百二十キロが百三十キロになったところで、打ち頃の球であることには変わりない。
そんな白石の想像通り、球は百四十キロや百五十キロに達するものではなかった。
だが、打てると感じて振りに行ったボールは、かくんと下に折れた。
――引っかかった。
変則フォームは目くらましだ。ストレートが生きるフォームだからと言って、変化球を投げないと思い込んだのが間違いだった。
この一球の空振りを取るために、慣れないフォームで投げる。このバッテリーならそれくらいのことはやりかねない。
だが二球目、再びピッチャーはトルネードの構え。
――子供騙しが二度も通じるか。
変化球を中心に待つ。たとえストレートでも、この遅い球速なら対応できる。
そう思って白石はバットを構えた。
来た球は変化しない。まっすぐなストレート。少しは速いがやはり大したことはない。
――なめるな!
白石はバットをフルスイングした。
しかし。
バットはまっすぐ走るボールの下を空振りした。
――バッター、嵌まってくれたみたいだね。
サードから、一美は梓とバッターの対決を観戦していた。もちろん守備に備えて気を抜いてはいないが、この勝負は三振か長打で終わるだろうと確信していた。
二球目のストレートを空振りしたバッターは、不審げな顔をした。間違いなく打てると思ったボールを空振りしたのだから、それも当然だろう。
――俺も、そうだった。
入部する時の梓との対決。第九打席で突然左のトルネードから投げ込まれたストレートを、今の打者と同じように一美は空振りしていた。
と、バッターの白石はタイムを取って素振りを始めた。もしかすると、今の梓のボールの秘密を悟ったのかもしれない。
だが、わかったところで、残り一球でどうにかできる球ではない。
――そういう点からも、一球目のフォークはうまかったな。さすが優ちゃん。
「打てよ白石!」
「ただのまっすぐだろうが!!」
慌て出した男子野球部のベンチから悲鳴のような声が上がる。
確かに、梓のあの球はストレート。ただし「ただのまっすぐ」とは少し違う。
恐らくスピードガンで測れば、百三十キロそこそこ。しかし、伸びがあるから見た目よりもはるかに速くバッターは感じるし、もう一つネタがある。
普通、ストレートと言っても本当にまっすぐにはならない。重力の影響を受けていくらかは下に落ちる。けれど梓のストレートは、たぶんボールの回転数が異常なまでに大きいのだろう、「ただのまっすぐ」よりもその落ちの度合いがずっと小さい。だから普通のストレートと思って振ったバットは、ボールの下を通り過ぎてしまう。
目を狂わせ、経験則を狂わせる。「ただのまっすぐ」とは根本的に別の存在だと意識を切り替えなければ打てるものではない。
溜めの大きなトルネード投法で作り出すエネルギー。それを無駄なくボールに伝える全身の柔軟性。さらにその力をきっちり回転数の増加につなげる、卓越した投球技術。それらの産物であるこの「落ちないストレート」こそが、梓の真の切り札だった。
バッターは再び打席に入る。だがその顔は刑の執行を待つ罪人のように青ざめていた。
梓の三球目は、内角高め一杯の「落ちないストレート」。渾身の力で振られたであろうバットは、今度もボールの下を空しく通り過ぎた。
ストライクスリーバッターアウト。ゲームセット。
――たった二球じゃ適応はまず無理だよ。
マウンドに駆けながら、一美はバッターにちらりと視線を投げて内心呟いた。
乞うて同じ球を投げてもらった第十打席。一美も、わかっていても打てなかったのだ。
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