八回表・八回裏

 八回表、男子野球部は三人目のピッチャーをつぎ込んできた。

 阿部に代わり、大久保。

「二イニングくらいしか投げてないのに、どういうことデショウ?」

 シャーロットの身体の悟が疑問を口にしてみると、弥生が答えてくれた。

「軟投派のピッチャーでは、梓さんの球に慣れているわたくしたちにとって相性が良いと考えたのではないでしょうか。あの投手は球が速くて重い、正反対のタイプですから」

「さっきベンチで監督に何か言ってるみたいだったわよ。弥生を抑えたいって直訴したのかもしれないわね」

 横合いから優が弥生に言った。弥生と大久保の四月の因縁は、悟も聞いている。

「まあ、二ヶ月前の状態から考えるに、大したピッチャーでもありませんわ。球の速さなら最初の柴田投手の方が上ですし、真理乃さんとシャーロットさんなら力負けすることもないんじゃないかと思いますわ」

「僕のことは戦力外扱い?」

 バットを手にベンチを出て行こうとした梓が、苦笑混じりに口を挟んだ。

「回復してない怪我人が余計なこと考えてもしかたないでしょう? 三球投げさせて偵察要員としての任務を果たしてくれれば、この打席は上出来ですわ」

「無茶はしないで」

「……りょーかい」

 まだいくらか覚束ない足取りで、梓は打席に立った。

 そして大久保の右腕から投じられた初球。

「……弥生」

 優が、静かに口を開いた。

「……何でしょう?」

「あなたの話だと、百四十五キロがせいぜいという話だったよね。て言うか、私の得た知識でも、その程度って話だったんだけど」

「……少なくとも四月は、そうでしたわ」

「私の目には、百五十キロは優に超えているように見える」

「同感ですわ」

「弥生ちゃんに打たれたのがショックで、修行したんでない? 一途な男の子ってのは、伸びる時には一気に伸びるからねえ」

「……傍迷惑な話ですこと」

 一美も交えた会話を聞きながら、悟は三番手のピッチャーもただならない存在であることに不安と緊張を感じてしまう。

 ここまで三打席で一安打。だがそのヒットも得点には関係ないもので、攻撃面でチームに貢献できていない。守備にしても、ミスは犯していないという程度のことであり、チームの中で自分が役に立っていないように思えてならなかった。

 ――漫画とかだと、こういう時は目立たない脇役が意外な活躍をするものだけど。

 この二ヶ月、シャルと入れ替わってからの午後三時半以降は、毎日何時間も野球の練習に費やしてきた。素人同然だった自分だが、啓子や優などの丁寧な指導のおかげでずいぶん上達したと思う。

 それでもキヨミズ男子野球部は強かった。

「梓、バカ……っ!」

 優が思わず口走る。三球目、梓が先刻と同じ構えを取って、バットを思いきり振ったのだ。しかし今度は見事に空を切り、梓は地面に倒れ込んだ。見かねたか、キャッチャーが手を貸して立たせ、梓が引き上げて来る。

「無茶はしないでって言ったでしょ!」

「ごめんね。……さすがに二球見ただけじゃ配球の見当がつかないや」

 呟くように言って、ベンチにがくりと座り込む。打球を受けた直後に比べれば相当マシになったが、それでもまだ顔色は青い。

「あの、わたしたちががんばるから。梓さんは休んでて」

 普段はひどく気弱な真理乃がきっぱりと言うと、打席に走って行った。

「……ピッチャー、これまでの二人とは比較にならないくらい本気の目をしてたよ」

 梓がぽつりと言った。ネクストバッターズサークルに入ろうとしていた悟は思わず足を止めて聞き入った。

「僕らのことを舐めてかかったりなんかしていない。甲子園の決勝みたいな生真面目な顔で、速くて重そうな球をビシビシ投げ込んで来た。コントロールも絶妙」

「そんなにすごいなら、どうして先発に起用されなかったんだろ」

「……わたくしたちが相手だから、本来の実力以上の力を発揮しているのかもしれませんわね」

「弥生ちゃん、一体どんな恨みを買うような真似したわけよ? おおっと、シャーロットちゃん、出番は間近っぽいよ。もうツーナッシングになってるし」

 一美に言われて振り返ると、続く三球目を真理乃が空振りしたところだった。

「は、ハーイ」

 シャーロットっぽい口調で応じ、悟は打席に向かう。すれ違う真理乃はしょんぼりうなだれていて、悟に「がんばってください」と小声で言うのが精一杯の様子だった。

 ツーアウトランナーなし。三塁コーチの啓子のサインも、当然ながら、普通に打てというだけの指示。

 右打席に入った悟だが、唸りを上げて迫り来るような初球のストレートに対し、完全に腰が引けてしまった。内角低めの際どいコースに鋭く決まったボールはストライク。

 次は外角高めへの剛速球、とにかく振ってみたが、そんな気持ちで当たるわけもなく、あっさりツーストライク。

 このままじゃいけないと思い、タイムを取る。素振りをして、バッティングフォームの感覚を正常に戻そうとする。

 と、観客の中の一角に目が留まった。

 ビデオカメラの脇にいる、新聞部部長たる姉。そしてその隣にいる小柄な少年。

 ――シャル!

 入れ替わった時、悟の身体は自宅にいたわけだが、ここまで試合を見に来たようだ。今は姉の聡美と会話していて、悟と視線は合っていない。

 好きな人が自分を見ている。そう思うと、いいところを見せなければと気合が入る。

 鼻息荒く、打席に入り直す。

 しかし、キレの鋭い変化球にあえなく三振してしまった。


 センターの守備位置につきながら、悟は自分を責めていた。

 ――これでもう、九回表しかない。

 勝つためには最終回に三点、最低でも負けないために二点取らなければならない。しかし相手チームの投手は万全の状態。

 せめて悟は、打てないまでも粘って、攻略の糸口を掴むなり相手の体力の消耗を誘うなりするべきだったのだ。

 ――負けたら、終わっちゃう。それに、シャーロットだってこのままじゃバカにされて……せっかく僕に身体を貸してくれたのに。

 そうなった時のことを想像し、悟は身を震わせた。

 悟自身、小学校で「性別の違い」とは別の「性差」みたいなものを色々と感じ始めてきている。昔よりはずいぶん改善されたと聞くけれど、「女が男に逆らうなんて」とか「女なのに男っぽいことをするなんておかしい」といった意識を無自覚に振りかざす子は男女を問わずいる。

 でも今日グラウンドで男子野球部の選手や観客たちが飛ばす野次、放つ視線は、小学校とは比較にならないほど露骨で侮蔑的なものだった。明日からシャーロットがこの空気にまとわりつかれるのかと想像すると、とても嫌だった。

 ――みんなは、違うのに。

 チームメイトを見渡して思う。男か女かで何らかの社会的評価を自動的に下すような手合いは、このチームにはいなかった。シャーロットの身体と立場を借りてとは言え、その一員でいられるのが悟にはうれしかった。

 ――負けたくないよ……。

 唇を噛み、球を投げる梓を見る。

 と、空振りに終わったバッターがすごすごと引き上げて行った。

「ワンナウト! しまっていきますわよ!」

 セカンドで弥生が鼓舞するように叫ぶ。普段のしゃべりは漫画のお嬢様みたいなのに、グラウンドではとても男っぽい人だ。

 続く八番バッターも三球三振。

「ツーダン! あと一人!」

 知的で控え目なキャッチャーの優が、返球しながら珍しく声を張り上げる。

 バッターボックスには三番手ピッチャー。大きな身体で、バッティングも得意そうだ。

 それでも身長百五十センチの梓は、臆することなく球を投げ込む。

 打球を受けて以来どこか縮こまっていたフォームが、いつしか元のしゃんとしたものに戻っていた。

 遊び球のない三球勝負。最後は地面にワンバウンドする急角度のフォークを空振りさせて、三者連続三振。チェンジ。

 外野からベンチに駆け戻る。ベンチでは梓たちが話をしている。

「下位打線だったからどうにかしのげたね。優ちゃん、体調戻ってきたし、九回裏は投げ方変えるよ」

「うん!」

「死ぬ気で三点、奪い取りますわよ」

 ――みんな、あきらめてない。

 悟は一人で落ち込んでいた自分が恥ずかしくなった。勝負は最後の瞬間までわからないと、自分以外の誰もが理解しているのだ。

 そんな風に考えていると、ちょんと腕をつつかれた。

「みんな、すごいですね……。わたし、あきらめちゃいそうになってました」

 初顔合わせ以来何となく仲良くなっていた真理乃が、こっそり囁いてくる。

「……実はシャルもそう思ってたところヨ。でも、がんばりマショウ」

 小学六年生が高校一年生を励ますことの不思議さを内心で不思議に思いながら、いつものようにシャーロットの身体の悟は言った。

 まだ、終わっていない。

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