少女たちは挑む

一回表

「今日はよろしくお願いします」

 男子野球部監督の真田はそう言うと、律儀に深々とお辞儀した。

「いや、俺は別に何もしねえからよ。バカな孫がとんだ迷惑かけちまったようだが、ま、よろしく頼まあ。本気でやってくれて構わねえからよ」

 女子野球部監督の村上耕作がそう返すと、頭を上げた真田は鼻白んだ顔をする。

「もちろん、そのつもりです。我々の目標は甲子園優勝以外ありませんので」

 ――ふうん。

 真田の背後に屯している男子野球部員を見る。何割かは真面目に試合前の練習に取り組んでいるが、半分以上の連中はてんで勝手に私語を交わしている。さすがに咎められるほどのバカ騒ぎはしてないが。

 皮肉を一つくらい言おうかとも思ったが、やめにした。真田は結果さえ出せば文句は言わない類の監督のようだ。そしてこの浮かれ気分の坊主どもに効く最高のお灸は、実際の試合で叩き潰される経験だろう。

 軽く頭を下げてベンチに引き上げると、交換したメンバー表をマネージャーの吉田に手渡し、自身は長椅子の中央にどっかりと腰を下ろした。その横を、仲間に「トイレ」と説明しながら駆けて行く美紀。

 そして十数秒後。意識をがくんと引っぱられる感覚とともに、耕作は『美紀』の身体でトイレの個室の中に立っていた。ベンチの奥に、更衣室などと一緒に設置されたトイレの中だ。

 あらかじめ耕作の身体に札を貼っておき、今、美紀の身体にも札を貼って二人の意識をつないだところ。まくり上げたアンダーシャツの左腕の袖を下ろして、札が剥がれないようにぴったりと覆う。

 明るく赤い朱色のアンダーシャツとストッキング。白いユニフォームのフロントと袖口にズボン脇のラインも、同じ色が縁取る。

 鏡を見てこれまた朱色の帽子をかぶり直しつつ、耕作は心の中の美紀に話しかけた。

(実際に見ると思ってた以上に不愉快な連中だな。お前はともかく温和な梓ちゃんが怒るのも無理はねえ)

(だろ? まあせいぜい見せつけてやっとくれよ。プロ生活二十五年の技術をさ)

(お前に言われるまでもねえや。てか、この体力のない身体じゃ、見せつけられるのは技術以外に何もねえだろ)

(悪かったね。県大会までにはなるたけ鍛えとくよ)

 美紀の身体の耕作はきびきびとした足取りでグラウンドへ戻って行った。


 男子野球部専用のグラウンドを取り囲んでいるのは男子野球部の二軍と三軍、それに噂を聞きつけて現れたキヨミズの生徒たちがもちろん大部分。しかし新聞部と提携した放送部の撮影機材なども設置されて中継の準備は万全。さらに近隣の強豪校も、清水共栄男子野球部の偵察になればと部員を送り込んでいるらしい。勝手の違う学校にいささか戸惑った様子の、制服の違う学生たちが何人か見られる。

 誰もが男子野球部の圧勝を自明のものとしている。女子野球部に向けられる関心は、せいぜいが顔の品評。二軍や三軍の連中は露骨に嘲笑っている。

 もっとも、そんな判断も無理はない。何せ女子野球部は、練習試合の一つもこなしてはこなかったのだから。

 実戦経験と情報の漏洩。二つを秤にかけ、啓子や美紀たち首脳陣が決めた方針だ。普通ならありえないことだろうが、エースと四番が妙に――まるで何十試合と公式戦に出場してきたかのごとく――場慣れしているこのチームでは、そんな決定も成立しうる。

 ――度肝を抜いてやろうじゃないか。観客と、相手チームの。

 弥生は内心でそんなことを考えながら、八人の仲間とともに歩き出した。

 ホームプレート前に両チームが整列した。白いユニフォームに黒い帽子の男子野球部と対峙すると、女子野球部の赤はよく映える。

 相手の列の尻の方に大久保の姿があった。弥生と視線が合うと、険しい顔で睨みつけてくる。しかしそこには、二ヶ月前のような嘲りや侮りの感情は見当たらなかった。

 ――ちっとは目が覚めたってことかね。

 真っ向睨み返しながらそんなことを思っているうちに、挨拶。

「よろしくお願いします!!」

 女子九人の声がぴたりと揃ったのに対し、乱れている男子の声。向こうが後攻なので、そのまま三々五々グラウンドに散って行く。

 ベンチに引き返してバットを手に取ると、弥生は左のバッターボックスに向かった。

 一番セカンド   森弥生

 二番キャッチャー 小笠原優

 三番レフト    村上美紀

 四番サード    鮎川一美

 五番ショート   田口雪絵

 六番ピッチャー  宇野梓

 七番ライト    藤田真理乃

 八番センター   シャーロット・L・ミラー

 九番ファースト  青田啓子

 以上九人、補欠なし。これが本日のスターティングメンバー。

 ――まさか俺が一番になるとは思わなかったな。

 足の速さなら優、バッティングの巧さなら美紀、パンチ力なら真理乃、その辺の面子が選ばれると思っていたのだが。

 ――まあ、俺なりのやり方でがんばるしかないわな。一番はけっこう好きな打順だし。

 打席でバットを構え、投手に向かう。三年生の左投げ、本格派の柴田が先発だ。

「プレイボール!」

 主審の宣告とともに、ピッチャーが投球動作に入った。


 ボールに喰らいつく執念。あるいは根性。

 弥生をトップバッターに据える決め手となったのが、この要因だった。「気合と根性で何でも片づくと思ってる奴はバカだけど、気合と根性をまったく考慮に入れない奴も同じくらいバカだ」と啓子は優に語り、優も大いに同意だった。

 その言葉の正しさを、一塁ベース上に立つ弥生の姿が証明していた。

 スリーツーから、速球だろうがカーブだろうがお構いなしにファウルで六球粘り続け、最終的に選んだフォアボール。ピッチャーにとっては、下手をすればヒット以上に嫌な形で塁に出たノーアウトのランナー。

 ――柴田は意外に神経が細かいしな。

 さて、二番バッターのセオリーとしては送りバント。しかし優が右バッターボックスに入ってバットを寝かせると、三塁手が露骨に前進守備の態勢になる。捕球をしたら二塁へ向かう弥生を刺し、あわよくばダブルプレーも取ろうと思っているのだろう。

 ――それをおとなしく受け入れるようじゃ勝てるわけがない。

 三塁コーチャーズボックスにちらりと目をやれば、啓子の出すサインも優と同意見。

 柴田が一球目を投じる。バントしろと言わんばかりの直球はマスクをかぶる白石の指示か。あるいはフォアボールに動揺した柴田自身の失投かもしれないが。

 優は、素早くバットを構え直すと、鋭く振り抜いた。バスターだ。

 ゴロとなった打球は、サードの横を抜けてレフト前へ……

 転がる前に、不思議と勢いが鈍り、ショートが回り込むのが間に合った。

 そして姿勢を崩しながらもセカンドへ素早い送球。弥生がフォースアウトとなる。果敢なスライディングでセカンドの送球を乱してくれたおかげで、ファーストへ駆け込んだ優の方はセーフだったが。


 一死一塁。結果的にはバント失敗と同じ。

(俺らとしちゃ、攻めの姿勢だから良しと思いたい。だがそれは同時に、守る側にしてみれば良く防いだと思える形でもある)

(精神的には五分五分なら、何かの工夫で均衡を崩したいところだね)

 美紀の身体で左打席に立ちながら、耕作は美紀と心の中で会話を展開する。

(回りくどい言い方する必要もねえだろ。俺が第一球でどうするか、わかってるな?)

(もちろん)

 ピッチャーが第一球を投じる。ゆっくりと大きく曲がるスローカーブ。

 ――まるで警戒してなかったってことか。

 それでも当然、耕作は必要以上に大きなスイングで空振りする。

 スイングが終わるのをもどかしげに待っていたキャッチャーが急いで二塁に送球する。

 が、ピッチャーが投げると同時に盗塁のスタートを切っていた優は、とうに二塁ベース上に到達していた。

(さすが。中学時代は短距離走者だっただけのことはあるね)

(んなのは大して関係ねえよ。プロにゃあ鈍足なのに二度もホームスチールを成功させた捕手なんてのがいるぜ)

(あたしだって知ってるさ。盗塁はスピードよりもタイミング。つまり優がピッチャーの投球モーションを見極めてたってことだろ)

(……わかってんなら無駄話すんな)

 ピッチャーが二球目を投げる。速い直球。百五十キロを超えているかもしれない。

 だが耕作の目は白球をしかと捉えていた。

(右方向へ引っぱるんだね)

(あたぼうよ。これで先制点はいただきだ)

 鋭くバットを振り抜くと、甲高い金属音とともにライナーが放たれる。二塁手の頭上は超えるだろう。

 そう思いながらファーストへ走る耕作の視界の中……

 打球は急に重力が増したかのように落ち、飛びついたセカンドのグラブに収まった。

(何だありゃ?)

(いけない!)

 ノーバウンドで打球を捕られて美紀がアウト。啓子の指示を見て慌てて優が二塁に戻るがとても間に合わず、ダブルプレー。

 スリーアウト。チェンジ。

 ベンチへ引き返しながらも、耕作は呆然とした表情のままだった。

(最近のバットかボールは変なのか? 打球が妙な具合に落ちたぞ)

(道具にゃ問題はないと思うよ。……二ヶ月の間に予想を超えて力を増してたみたいだ)

(何がだ?)

(ああ、こっちの話。ジジイは守備に専念してくんな)

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