記憶の冥き淵より
sirius2014
第1話
私の父親は、私が物心ついた頃にはいなくなっていた。どうしていなくなったのかは、知らなかった。
私には2歳年上の兄がいて、母と子供2人の3人家族だった。もちろん父親がいないから、家は貧乏だった。2DKの小さな借家に住み、母が仕事をしながら私たち兄弟を育てていた。
兄弟の中で、私だけ母から虐待されていた。
食事は、兄は普通に食べていたけれど、私はご飯に醤油か塩をかけたものに、おかずはわずかの漬物と味噌汁だけだった。風呂は週に1・2回しか入らせてもらえなかった。
だけど、兄弟仲は良かった。兄はいつも私を庇ってくれた。
虐待されていた私には、誕生日もクリスマスも無かった。けれど、クリスマスの夜には、兄が母の目を盗んでこっそり残したケーキの切れ端を、私に持ってきてくれた。小さなケーキの切れ端だったけれど、私はそのケーキをいつも楽しみにしていた。
母からの暴力は日常茶飯事で、体には生傷が絶えなかった。体にやかんの熱湯をかけられたこともあった。中でも一番ひどかったのは、真冬の夜中に家から閉め出されたことだったろう。
私が何か母の気に障るようなことをやったのか覚えていないが、おそらく何もしていなかったのだろう。母の怒りの理由はいつも母の心の中からやって来て、私に対する暴力という暴風になって荒れ狂った。その夜も同じだった。たった1枚の薄い布団で寝ていた私を叩き起こした母は、般若のような形相で、「おまえさえいなけりゃ」などと言いながら、私を玄関から押し出してドアをぴしゃりと閉め、鍵をかけた。
私は泣きながらドア越しに母に謝ったけれど、母はドアを開けてくれなかった。
真冬の一番寒い時期で、着ているものと言えばぼろぼろのシャツ一枚だけで、いきなり寒風が吹きすさぶ中に放り出された私は、玄関の横に膝を抱えて蹲った。自分の境遇を呪いながら、それでも震えるか細い声で、母に謝り続けた。どのくらい時間が経っただろうか。寒さに体の感覚が無くなり、もう凍えて死ぬんだと思い始めた頃、ドアが静かに開いた。ドアを開けてくれたのは兄だった。そのときの私には、兄が神様に見えた。
兄は私に「母さん寝たから、静かに入れ。」と言って、私を家に入れてくれた。兄は私を風呂に入れて、冷え切ったからだを温めてくれた。
あのまま放っておかれたら、凍死していたと思う。私にとって、兄は命の恩人だった。
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