1-9 魔族に落ちた人 何者かになる人
それは突然現れた。
「魔族の種子を持つものよ。魔族への帰属を願うものよ。その願いを叶えよう」
男はゾフィーに手を差し伸べた。
●
準高級服飾店だけあって、服の他にも、ドロワーズのような下着があったので、数着買ってあげた。
貴族向けのものであるが、庶民の手に届く範囲の値段で、供給しようというコンセプトのようだ。
動きやすさ重視という売り文句で、既視感のある女性向けのショーツも存在していた。
本当にそれが、動きやすさ重視か、わかりかねるような布面積のもあり、いわゆるローレグもあった。
どれがゾフィーに合うかわからないため、それぞれ買ってみる。
そう、本人のためだ。
ゾフィーの呆れた視線を感じたが、気のせいだろう。
シアが呆れているのは、よくわかる。
服を買ったあと、宿に目星をつけながら、買い物を済ましていった。
食材もそうだが、野外調理器具も買っていく。
焼くか茹でるかできるだけで、少しはバリエーションができるだろう。
もともと料理は不得手な俺だ。
この世界にも牛、鳥、豚が存在している。とりあえず焼けば食える。
本屋にて地図を買い求める。
オルドアでは、世界地図はなく、大陸の概要図があり、詳細な地図はオルドア国内のものしかなかった。
大陸では東のオルドア王国、西のトラシント公国、南のアスラウル帝国、北の魔境がある。
北東の突出した広大な半島部には、亜人の国が乱立し、争っているという。
北西にはかつて聖アルネリア国、南西は海岸沿いに通商連合国が諸島部を含め、有力な海軍を有しているとの話。
他にも小国家が存立し、大小の係争地には大国も含め、資源を狙っている噂もあるそうだ。
オルドア北方辺境領とトラシント公国が魔境と接しているため、魔族との争いはその二国が中心となっている。
魔族は、他国に浸透して被害を拡大させ、根拠地をつくるため、他の国も気を抜いてもいられない。
その上、人間同士でも戦争をするため、控えめに見ても平和な世界ではない。
ただ、心細い話によると、現在は平静を保っているという。
棚にある本は、差があるが、綺麗な写本もある。
活版印刷機は存在しないようだが、魔法により、転写可能のようだ。
ここでもトラシント国内の地図しかない。
現状、トラシント国内だけでもわかれば充分助かるので購入する。
魔法書もあたってみるが、基本的な生活魔術はあるが、それ以上のものは置いていない。
戦闘用は、貴族や軍隊が管理することが多く、冒険者向けはもっと大きな都市にしかないそうだ。
ゾフィーが英雄譚の本を凝視していたため、こっそり買って、店を出た時に渡してみた。
彼女は目を白黒させているので、ポンと両手に持たせてやると、嬉しさを堪えるようしている。
「あ、ありがとう」
ゾフィーが、本を胸に抱いて、ちょっと目を逸らして礼を告げた。
今まで、まともに礼を言ったことがない彼女なので、胸がすくような気持ちになる。
『シア、どういった心境の変化なんだろう』
『やっぱり、服のプレゼントが大きいんじゃないの?』
『あんとき、変な人で終わったじゃん』
『素直になれないのよ』
『そうなのかなぁ』
なんだかんだ買い物をしていると、トラシント銀貨が1枚。
まあ大丈夫だろう。
『北の森で討伐してもいいしね』
『冒険者管理部だと、巣の主を討伐すれば、10銀貨くれるらしいからな』
倒せるかどうかは別だけど。
買い物が終わり、陽が落ちる南面の広場では屋台が並んでいた。
「ゾフィー、食べたいものあるか?」
屋台が並んでいるので、聞いてみる。
「あれ」
指を差した方向には、甘い匂いがする焼き菓子店だ。
「ほい、どうぞ」
ベビーカステラのような丸い焼き菓子を袋で渡す。
広場のベンチに腰掛け、袋を開けると、甘いカスタードの香りが広がった。
ゾフィーが一つ口に運ぶと、もぐもぐと美味しさを噛みしめている。
初めて見る笑顔だった。すぐに無表情に戻ってしまったが。
「ん」
ゾフィーが2、3個菓子を掴むと、俺に渡した。
濃厚な甘いにおいと、口の中でもそもそとする感じが、なんとも素朴な味わいでおいしい。
『あーずるいー』
『おまえは子供か』
『そうよ! 悪い?』
確かにな。
『すまない。俺が悪かった。しかし残念なことにもう食べ終わってしまったのでした。また今度だな』
『はーい。疲れて入れ替わらなければよかった』
広場のベンチに腰掛けたまま、のんびりする。
久々に無言でも、どこか居心地の良さがある時間。
徐々に暗くなり、消える屋台と人影。
そろそろ宿屋に行こうと思った矢先。
夜影から忽然と人が現れた。
まるで別空間から移動してきたような、唐突さ。
漆黒の燕尾服とシャッポを被った老いた男だ。
その男が、俺たち、ではなく、明らかにゾフィーに向けて、声を発した。
「魔族の種子を持つものよ。魔族への帰属を願うものよ。その願いを叶えよう」
男はゾフィーに手を差し伸べた。
いや、外見は老紳士のようであるが、人でない。
名前:クライス
種族:魔人
所属:アズペルエム魔域
位階:三段
魔人だ。
ゾフィーの一つの将来。
周りは誰も気付いていない。
掲示さえ見なければ、わからないだろう。
魔人とは、人に似て非なる存在。まさしくそうだ。
魔人クライスに対して、ゾフィーは目を見開いて、反応できずにいる。
そこから、彼女の気持ちは読み取れない。
魔人クライスは、うんうんと頷き、怪訝な視線を俺に向けた。
「そうか。彼の足枷があるのだな。では、自由にしてやろう。そこの君、死にたまえ」
風の刃が首めがけて飛んできた。
咄嗟に防殻で守る。
『危なかったね』
風の残滓が俺の後方で、被害を撒き散らす。
何人かが巻き込まれ、切断された。
周囲が騒然となる。
誰かが掲示を見たのだろう、魔人だと叫ぶ声が聞こえた。
「ここで暴れるのはやめろ」
「それは君が死んでくれると確約するのなら」
話にならん。
「お断りだ」
『シア、こいつを戦闘不能もしくは殺す。援護は任せる』
『りょうかい!』
ゾフィーが魔人となりたいかは、別にして、俺たちが死ぬつもりはない。
クライスがそのつもりなら、対抗するまでだ。
魔刃での斬り込みは、風でつくられた魔剣に弾かれた。
接触部の魔刃そのものが切り刻まれている。
「ほう。魔力そのものを具現するか。珍しい」
片手でぶら下げるように剣を持ち、緩い姿勢でクライスが構える。
絶えず内部で風が吹き荒ぶ剣。
周回する細かい刃の風が速度をもって触れるものを裁断するようだ。
あれは防殻も完全には防げない。
有効な遠距離攻撃も難しい。
被害を最小限に仕留めるには……
『さっさとやれ、ってことね』
『そういうことだ』
相手が何をするかわからないが、どうせできることも少ない。
身体強化を行いながら、魔刃を再生する。
シアにはだめ押しで、左腕に可能な限り密度の高い魔力を練りあげてもらう。
クライスの正面に駆け込み、簡易空間移動法を使う。
「そこ!」
頭上から魔剣が振り下ろされる。
火花のように魔力が散る。
移動先が読まれた。
防殻が削られ切る前に後退する。
『魔力の反応で読まれたようね』
『ああ』
なら。デコイを作ればいい。
クライスの四方にそれぞれ空間の移動先を指定。
移動先を推定される前に、真正面に転移、クライスの魔剣を持つ腕を斬り抜ける。
防御力はないようだが、後方に跳ぶ腕が目に入る頃には再生している。
四方の空間をそれぞれの方向に接続。
常時開きっぱなしにする。
斬り抜けた先はクライスの右に転移する。
後ろを見たままの魔人の首を切り落とす。
魔力を感じ、十六箇所に移動空間を増やす。
クライスの後ろ上空から、飛び降りるように上半身を袈裟斬りにし、着地と同時に移動。
左から振り向いたクライスを認め、右斜め前方に移動する。
「小癪な。退けい!」
クライスが、魔力の発言と共に、右手を払う。
完成したかまいたちの暴風が吹き荒ぶ。
防殻に守られながら、後方に押し退けられる。
移動空間は全て破壊された。
「同時詠唱を行うとは。その練成の速さも見上げたものだが、魔力の出力口も多い。将来が楽しみだな。しかし死になさい」
かまいたちから身をかばい、動けないところにクライスが襲いかかる。
練成された魔剣が正確に心臓を貫こうとする。
「シンシア!」
初めてゾフィーが俺たちの名を呼ぶ声が聞こえた。
心強い。
防御姿勢を崩して、後ろへ受け身をとる。
かまいたちで身を切られながらも、一撃をかわす。
だが、男の攻撃はそれで終わらない。
突き、横、突き、突き、斜め。駄目だ。避けきれない。
防殻を削り、俺の肩の鎖骨あたりまでが斬られた。
痛い。致死には至らないが、右肩が動かない。
「シンシア!」
再び彼女の悲痛な叫ぶ声が。
そして美しい歌声が聞こえる。
また聴けて良かった。
さあ、あと少しだ。
俺は魔刃を放棄し、全てを防殻に費やす。
手応えに満足そうに笑うクライスが止めの一撃を打ち込む。
厚く練った防殻が見る間に削られていく。
「クリスタルランス!」
ゾフィーが、魔法を発現させた。
槍のように尖った氷柱がクライスに命中する。
しかし、クライスの身体は僅かに揺らいだが、魔法は砕けてしまう。
しかし、充分。
時間だ。
『シア、頼む』
『魔力10万! これが私たちの限界よ!』
ありったけの最高密度の魔力を練り込んだ左腕に、クライスが顔を歪める。
クライスの懐に左の掌を押し当てる。
体内に暴力的な魔力を解き放つ。
爆音と溢れる魔力光。
「なぜだ……魔族の種子よ……」
掻き消えるように、クライスは消滅した。
『危なかったわね』
『ああ。肩が痛い』
回復薬を飲みながら、残り少ない魔力を損傷部に流す。
なんとか右腕は動くようになった。
「ありがとう、ゾフィー」
「え……ええ……」
恥ずかしげにそっぽを向くゾフィー。
魔族になると言っていた彼女。
奴隷になんて全くなる気がない彼女。
そんなゾフィーが助けてくれたことがとても嬉しく――
背中に走る痛み。
「君は魔人をよく知らないようだ」
斬り落とした筈の腕が、俺の背に魔剣を突き立てている。
首が動き、喋っている。
「僕の固有特性は生命核と魔力核の分裂。いくら力が減るとはいえ、生命の宿し先は心の臓だけとは限らない」
クライスは一度に殺しきれる存在ではなかったのか。
いや、ただもっと注意深く、周囲を見ていれば……
『シン! 今はそんなことよりも、やるべきことがあるわ!』
そうだ。その通りだ。
『ありがとう。シア』
減りゆく生命に抗い、俺とシアは渾身の力で腕を振り払う。
大丈夫。まだ動ける。
「まだ抵抗するか。いや、よく頑張ったと言っておこう。ではさようなら」
魔力を解き放った影響で、一時的に魔力の操作が覚束無い。
それにもう魔力は尽きる。
なんとか防殻をつくろうとするが、クライスの腕の攻撃に間に合わない。
「――やめなさい!」
『ゾフィー……』
ゾフィーが俺とクライスの腕の間に立ち塞がる。
ゾフィーの左肩下に、魔剣が突き刺さる音がした。
血がパタパタと飛び散った。
ゾフィーはそれを無視して、訥々と話し始めた。
人への憎悪を。
自分への嫌悪を。
「人は愚かで、卑怯で、小心で、利己的で、惨めよ。人類なんて滅ぼしたいと思った」
魔人に笑みが浮かんだ。
「ほう。では、まだ魔族への希望を失っていなかったか。では、なぜ――」
クライスの言葉は聞いていないかのように、ゾフィーは魔人をふさいで、話を続ける。
「ええ。ええ。そうよ。やはり人は脆弱。弱すぎる! ――そんな何もできない人類であるわたくしに、わたくしは絶望した」
ゾフィーを黒い魔力が囲んでいく。
「おお! 愚かな人類ゾフィーリアよ。この時を以って、種子を芽吹かせるとは」
黒の光に包まれたゾフィーは人類と決別をする。
「そう。ゆえにわたくしは魔に属す。人類のためではなく、魔族のためではない。わたくしのために、わたくしが守りたいと思うものを護るために!」
黒光を跳ね除けるように対の大翼が羽ばたいた。
「そう。だから、死ぬのはあなた。クライス」
大鎌が腕を裁断した。
ぼとり、と中身を出しながら動かなくなる。
クライスが動揺する。首だけの彼が、下がろうとする。
「なぜ、同胞である僕をなぜ?」
「同胞だから。だからこそ敵に足る。消えなさい。――開け闇夜の門」
ゆっくりと指を差し示すと、暗黒の空間が開いた。
「それは――やめろ! やめたま……」
逃げきれない首はゆっくりと吸い込まれていった。
俺とシアは、防殻の魔力を傷口に還元しながら、その光景を見守っていると、急に視界が狭くなり、暗転した。
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